第弐夜 往けば怪路の日和あり

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 ゆっくりと看板の影から出て、遮蔽物のない道路の真ん中に立つ。私の姿を捉えた蜘蛛は再び臨戦態勢に入る。ぐぐっと力を入れて狙いを定め、バシュっと蜘蛛糸を放ってきた。私はそれを避けることはせず、そっと左手をお守りに添える。顔にだけ蜘蛛糸がかからないように、伸ばした右腕で顔を守る。  放たれた蜘蛛糸がいとも簡単に私を捕らえる。  蜘蛛糸の勢いと重さが予想よりも大きく、踏ん張り切れずに尻もちをついてしまう。その際、受け身を取るためにお守りに添えていた手を放してしまった。一瞬、しまったと後悔したが、念じることでも壊せることを思い出して気を取り直す。  態勢を立て直そうと身じろぎしてみるが、さすが蜘蛛糸というべきか。極めて高い柔軟性と強靭さ、そして粘着力のせいで少しでも動くとさらに動きが制限されてしまう。きっと抜け出そうと躍起になった瞬間、雁字搦めになって一切の動きを封じられてしまうということが簡単に予想できる。  ひゅるひゅるひゅるひゅる。  獲物を捕えて安心したのか、蜘蛛は徐々に警戒を解いて大人しくなる。隣家の壁や塀に張り巡らされている蜘蛛糸の上を移動して、少しずつこちらへ近づいてきた。これだけ粘着力の強い糸の上をよくもあれだけ自由に動き回れるものだと感心しながら、蜘蛛の動きに細心の注意を払う。しかし、大人しくなったように見えたのだが、まだ完全には警戒を解いていないのか。一定の距離を保ったままこちらをじっくりと観察しているようだ。  蜘蛛と私の距離はまだ遠い。狩人であるならば、獲物を捕らえればきっとトドメを刺すために近づいてくるはず。焦らず騒がず冷静に。そのときが来るまではしっかりと状況を分析しつつ、ただじっと我慢しなければ。 「随分と用心深いようね……」  一分、二分と待っていても蜘蛛は一向に近づいてくる気配を見せない。罠にかかった無力な獲物に対して、一体何をそこまで警戒しているのか。それとも、私が考えている以上に相手の知能が高いということなのか。このまま距離も詰められないまま放置されていては、こちらとしても打つ手がないのは確かだ。これ以上進展がないようであれば一か八かの賭けになってしまうが、お守りを壊すしかない。 「あれは……?」  右目が蜘蛛の体内に生じた変化を捉えた。蜘蛛糸の生成とは違い、今度は頭の方で何かを生成しているような力の流れを感じる。それは蜘蛛糸の生成よりも格段に力の消費が激しいのか、蜘蛛の体内を巡る力の殆どがそれに費やされているようだ。生成されているモノが何かは分からないが、それが良くない兆候だということだけは理解できる。  額にじんわりと嫌な汗が浮かんでいるが、蜘蛛糸に絡めとられている状態では満足に拭うこともできない。汗が目に入ってしまっては視界が遮られてしまうため、顔を守っている右腕に額を押しつけるようにして拭う。  蜘蛛が鳴らしていたひゅるひゅるという音が、次第にじゅるじゅると水気を含んだ音へと変わっていく。右目の視界では熱源を感知したように赤くなる口元の変化をしっかりと検知できるが、左目の視界では暗いせいかそれを確かめることはできない。  地面にポタリと、蜘蛛の口元から何かが垂れた。  瞬間、地面からシュウシュウと嫌な煙が生じる。あれは消化液、もしくは毒液だろうか。蜘蛛は捕らえた獲物の体内に消化液を注入し、溶かしてからすするというのを聞いたことがある。だとするなら消化液だと思われるが、どちらにしても危険なものには変わりはない。しかし、これでようやくこちらへ近づいてきてくれる気になったということだ。あとは、タイミングさえ間違えないようにすれば――。 「……え?」  蜘蛛は口に溜めた消化液を、まるで練習でもするかのようにペッと吐き出した。べちゃっと消化液の塊が地面で跳ねる。それが地面をジュウジュウと溶かし、さきほどよりも大きく煙を立てていく。その様を見て、最悪の事態が頭を過った。まさか、蜘蛛糸と同じように消化液も遠くから飛ばしてくる、なんてこと。そんなこと、考えたくはないけど。もしそうなのだとしたら、まんまと罠にかかった間抜けは私ということになる。あんなものを浴びてしまったらひとたまりもないだろう。それだけは絶対に避けなければ。  練習は済んだのか、蜘蛛はより高い場所へ移動していく。隣家の屋根の上で、私に狙いを定めて口に消化液を溜め込んだ。まずい。そう思った次の瞬間のことだった。  蜘蛛の体が、に裂けた。  左右に別れた体がずるりとずれてぐしゃりと屋根に倒れ込み、ごろごろと転がってぐちゃりと地面に落下した。一体何が起こったのかと蜘蛛を目で追うと、その体からはさきほどまで確かにあったはずの力の動きがまったく感じられない。頭から真っ二つにされたせいか、蜘蛛は断末魔をあげることもできずただ静かに生命活動を停止していた。 「一体、どういうこと……?」  私はお守りを壊す寸前だったためまだ何もしていないし、しようにもできはしない。どう考えても私が助かる状況ではなかったはずだ。それなのにどうして。 「ゆい」  不意に、視界が何かで遮られた。
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