第弐夜 往けば怪路の日和あり

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 誰かが目の前にいる。そう理解すると同時に、私を捕らえていた蜘蛛糸がどろどろと溶け始めた。溶けた蜘蛛糸は沸騰するように泡立つと、跡形もなく消えていく。ものの数秒で身体の自由が完全に戻ってきた。  目の前にいる誰かはその間、何かしてくるような気配は見せない。祈るような気持ちで恐る恐る顔を上げる。なんとそこにいたのは――。  だった。  歳は中学生くらいだろうか。背丈はクルミとそこまで変わらない。出で立ちは闇夜に紛れるような漆黒の着物。星空を溶かしたような紺色の長髪。雪のように白い肌と宝石のように透き通った赤い瞳。そして、頭の上にぴょこりと生えた三角の、まるで猫のような耳。 「ゆい、危なかった」  地面に座り込んだままの私を見下ろしながら、少女は無表情のままぽつりと零した。鈴の音にも似た無垢な声色。幼さを残しながら凛として耳に届く、すっと心に染み入る心地の良い声。  もしかして母が助けに来てくれたのかと心の隅では思っていた。しかし、そうではなかったうえに、こんなにも愛らしい少女が目の前にいる。状況がまったく整理できず、ただただ困惑するしかなかった。  あれ、でもちょっと待って。この子はどうして私の名前を知っているのだろうか。会ったばかりで自己紹介なんてしていないのに。以前、どこかで会ったことがあるだろうか。いや、こんな特徴的な見た目をしているのだ。以前に会ったことがあるならきっと覚えているはずだ。 「ど、どうして……私の名前を?」 「……?」  少女はこてんと首を右に傾げる。私がそれに驚いていると、ややあって今度は左にこてんと首を傾げた。私の質問の仕方が悪かったのだろうか。 「えっと、私たちは今初めて会ったでしょう? それなのに、どうしてアナタは私の名前を知っているの?」  今度はしっかりと質問してみる。すると、少女は納得したようにポンと手を叩いた。 「だってゆいのお姉ちゃんだから」 「え? お、お姉……ちゃん?」 「うん」 「お姉ちゃんってお兄ちゃんとかお姉ちゃんとかのお姉ちゃん?」 「うん」  私はずっと一人っ子だし、姉がいるなんて話は聞いたことがない。腹違いの姉妹がいたとしても、母だったらそういったことも明け透けに教えてくれそうだが。 「ゆいが赤ちゃんのとき抱っこしたのに」 「ちょ、ちょっと待って……頭が混乱し過ぎて」  赤子だった私を抱っこしたということは、こんな愛らしい少女の見た目をしているが、実際には私より年上ということだ。だからこそ姉だと言っているのだろうけど。にわかには信じがたいというか、なんというか。情報が多すぎるためさっきからずっと混乱している。一旦思考を止めて、整理をしたい。そう思い、私は視線の先にあるモノに無意識に手を伸ばした。 「!!? みみダメ!!」  少女の耳はふさふさふわふわで温かかった。もっと触っていたかったのだが、少女は人間とは思えぬ速さで私から距離を取る。少女の耳はぴこぴこと動いており、偽物だとは到底思えない。やはり本物なのだろうか。闇という存在を知ったし遭遇もしているため、本物の猫耳少女がいても何ら不思議だとは思わない。それでも、こんな可愛いモノが存在していいのだろうか。 「ご、ごめんなさい。つい……」 「ん。許す。お姉ちゃんだから」  腰に手をあてて、少女は余裕の表情を見せる。何も言わずに耳を触るなんていきなりのご挨拶にもかかわらず、大して怒りはせずに許してもらえた。悪いことをしてしまったと反省をしながらも、ほっと胸を撫で下ろす。しかし、おかげで混乱していた頭を落ち着かせることができた。 「ところで、あの蜘蛛から助けてくれたのはアナタなの?」 「お姉ちゃん」 「え?」 「お・ね・え・ちゃ・ん」 「お、お姉ちゃんが助けてくれたの?」 「うん。あれは葛籠蜘蛛(つづらぐも)。神を食べる悪い奴。でも普通はもっと小さい。あれはおっきい。きっと沢山食べた。許さない」  少女が言うには、あの蜘蛛は葛籠蜘蛛という人間の強い怨念と蜘蛛が合わさって生まれた妖怪だそうだ。普段は力を補給するため神様を好んで食すが、飢餓状態になれば普通の人間をも襲って食べてしまうという。精霊路に住む神様は比較的力が弱いうえに温厚であるため、そういった闇に狙われやすいのだそうだ。 「――ってそうだ! 神様!」  ハッと思い出して立ち上がり、慌てて空き地の真ん中にある繭へと駆け寄る。繭の入口から覗き込むと、中には四つの繭があった。よく見れば四つのうち三つは裂けてしまっており、中身は何も入っておらず空っぽだ。無事であることを祈りながら神様を呼ぶ。  ――ううぅ。  裂けていない繭から、小さな呻き声が聞こえる。間違いない。神様の声だ。しかし、その声に覇気はなく、か細く苦しそうだ。急いで助けようとしたものの、蜘蛛糸は硬くどうすることもできない。必死に爪を立てても、緩むどころか傷のひとつもつけられない。私を捕らえていた蜘蛛糸は蜘蛛が倒れたあとに溶けてなくなってしまったというのに。 「ゆい、どいて」  背後から顔を出した少女に言われ、数歩後ろに下がる。どうするのかと見守っていると、少女はすっと繭に小さな手をかざした。瞬間、私にはどうにもできなかった蜘蛛糸がみるみるうちに溶けていく。そこで、私を捕らえていた蜘蛛糸が溶けたのは、蜘蛛が倒れたからではなく少女が助けてくれたのだと気がついた。  溶けた繭からおかっぱ頭で赤い浴衣を着た女の子の姿が現れる。あのときちらりと見ただけだが、蜘蛛に捕まった神様で間違いないだろう。 「大丈夫。ちょっと力を使ったから寝てるだけ」  ぐったりとしていて眠っているようだが、確かに生きている。よかった。間に合って本当によかった。 「泣いてるの?」 「え? あ、あはは……」  無我夢中だったせいで感覚がずっと麻痺していたが、心には大きな恐怖が蓄積していたようだ。それが神様が無事だったという安堵で決壊したのだろう。腰が抜けたように足に力が入らず、ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。
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