第参夜 溺れる者は闇にも縋る

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第参夜 溺れる者は闇にも縋る

 週明け。大学から家に帰ってきて、いつも通りに定位置のソファでくつろいでいた。昼間に母へ電話をしてみたのだが、相変わらず多忙なようで繋がることはなかった。そのうち折り返しの連絡があるだろうと気長に待つことにしつつ、クルミからもらった手帳を開く。元データがあれば再度作成することは比較的容易だし、今はスマホだってあるからと、私に手帳を譲ってくれたのだ。手帳に載っている闇が全てではないどころかごくごく一部ではあるものの、少しでも闇についてを知っておきたい。  最初のページに目を通す。どうやら五十音順になっているようで、一ページにつき一種類の闇についてがびっしりと記してある。パラパラと見ても最後まで空白のページは見当たらないし、ページ数も百はあるだろう。ということは、このごく一部が記してあるという手帳ですら百種類もの闇が記載されていることになる。百種類がごく一部だなんて。とんでもない世界だ。 「これ……」  手帳を読み進めて数ページ目。そこに記されていたのは阿紫蛇璃(あしだり)という闇についてだった。家系――主に神職の家系――に憑く性質があり、その殆どが白い蛇の姿をしている。阿紫蛇璃は憑いた家を繁栄させると云われているが、その手法は個体によって様々。その特性上、御神体として祀られることが多いため、敬虔な信仰と長い時間をもって神格化されることがある。阿紫蛇璃は家人に憑くこともあり、憑かれた人間は阿紫蛇璃と深く繋がっている間は常人離れした身体能力を有する。その間、嗅覚も非常に優れているため、忌避剤を用いて一時的に交戦を回避するなどの対処は可能。  最後にはクルミに似た女の子の絵、そしてアドバイスだろうか「作戦は命をお大事になのだ!」と吹き出しで書かれていた。 「阿紫蛇璃って、子蛇のこと……なのかしら」  私の実家は神社であり、母も阿志賀の家には代々蛇が憑いてると言っていた。家業にあまり興味を持たなかった親不孝者の私でも、御神体が蛇であることくらいは知っている。子蛇の見た目は紛れもなく白い蛇であり、力を借りることで闇の位置を把握できるなど、視力という点においては常人離れした能力を有することができた。家が繁栄したかどうかでいえばよく分からないし、嗅覚についても気になることはなかったが、記されている内容には符合する箇所が多い。  昔から母は淑やかで華奢だが、信じられないくらいに力が強い。私が小学生の頃に橋で遊んでいて、下の川まで高さはないから落ちても平気だと、欄干(らんかん)――橋の両側にある落下を防止するための柵――に乗ってふざけていたことがある。案の定足を滑らせて落ちそうになった私を、母は腕一本で軽々と引き上げたのだ。今まであまり気にしたことはなかったが、そういった母の力の強さも阿紫蛇璃が関係しているのかもしれない。 「そういえば、子蛇……アナタには名前はあるの?」  右目に意識を集中して、子蛇に話しかけてみる。ぐっと視点を近づけて子蛇の顔を間近でぼんやりと眺めてみるが、返事がくる気配は一向になかった。まだまだ私と子蛇は意思疎通が上手くいかない。咄嗟に子蛇の力を借りることができなければ、間に合わないことだってきっとあるだろう。そのためには子蛇ともっと仲良くならなければならない。しかし、そのための方法がまったく分からない。 「やっぱりまずは名前から、かな」  そもそも子どもの蛇だから子蛇と呼んでいるのだ。それはつまり、子犬を子犬と呼ぶのと同じこと。そう考えると味気ないことこのうえない。名前があればもっと愛着が湧くし、特別感があっていいだろう。  手帳を閉じて、名前の候補を考えてみる。あまり複雑ではなく、できれば可愛いのがいい。例えば、白いからハクとか。蛇だからニョロとか。それくらい安直な方がシンプルで可愛い。 「ねえ、ハクとニョロならどっちがいい?」  長い胴体の上に頭を乗せて大人しくしている子蛇に問う。言葉だけでは分からないかもしれないと、メモ帳に候補を書いてテーブルに置いた。きっと私が見えている視界は子蛇にも見えているはずなので、それらを視界におさめて様子を見る。最初は一向に動こうとはしなかったが、少し経つとゆっくりと頭を持ち上げてメモへ向けた。舌をチロチロさせて、逡巡したのちハクの方へ頭を伸ばす。その瞬間、メモのニョロという文字がふっと消えてしまった。これはつまり、ハクを気に入ってくれたということだろうか。 「じゃあ決まり。今からアナタの名前はハク。改めてよろしくね、ハク」  私がそう言うと、ハクは嬉しそうにぐるぐると渦を巻き始めた。これも喋ることができないハクなりの感情表現なのだろう。言葉を交わすことはできないが、こうして少しでも意思疎通ができると嬉しくなる。小さいけれど大きな一歩。人間でもそうだが、一気に仲良くなれることなんてないため、こうして地道に仲を深めていくしかない。千里の道も一歩から。焦らずじっくり仲良くなっていかなければ。  ヴー、ヴー。  テーブルに放置していたスマホが震える。画面を見ると、母からの着信だった。いつもなら日を跨ぐことも珍しくないが、今日は予想よりもずっと早い。これで姉のことについて知ることができると、急いでスマホを手に取った。
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