第参夜 溺れる者は闇にも縋る

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 バスの一番後ろの席でひとり、窓に頬杖をついて外を流れる景色を静かに眺める。通り過ぎたオフィスの窓硝子から、俯き気味に通りをじっと眺めている人を見つけた。それが生きている人間なのか闇なのか。ある程度近くなら気配みたいなもので分かるが、景色の一部として流れていく一瞬の間では判断ができなかった。蜘蛛を追ったときのように、ハクに視界を借りればきっと簡単に判別がつくのだろう。しかし、ハクも無限に動けるわけではないのが分かった以上、常日頃からおいそれと簡単に借りることもできない。それなら一瞬だけ。たとえば、怪しいと思った瞬間に一秒だけ視界を借りるとか。それができれば力の消費を必要最低限に抑えつつ、状況判断をすることができる。毎日毎日蜘蛛を追いかけることなんてしないだろうし、そういったことも少しずつ練習してみるのがいいかもしれない。ハクのことは母にとっても未知の領域が多い。そのため、ハクを宿す私自身がどうにかしていかなければ。 「クルミ、大丈夫かな」  立花園にひとり残ったクルミのことを考える。姉と別れたあと、ユカリさんに伝えるために建物の外にでた。掃除中だったユカリさんに声をかけて園を後にしようとすると、勉強が終わったのか休憩中だったのかは定かではないが、小さな子どもたちが集まってきた。そして、クルミを見て「髪が茶色になってる」と叫んだのだ。それからというもの、私のことはそっちのけでクルミに遊びをせがむ子どもたちで溢れかえった。クルミの見た目がたまに園に遊びにくる人に似ているらしく、間違えているのだろうというのがユカリさんの見解。それでも、クルミはバイトで沢山の子どもたちを相手にしているため、人違いだったとしてもせがまれて断ることはできなかった。  帰りに体調不良だった女性の家に寄る用事があったため、ふたりして子どもと遊び続けるわけにはいかない。そのため、園の子どもたちはクルミに任せて、私は女性の様子を見に行くことにしたのだ。 「まあ、心配いらないよね」  無邪気な子どもたちを相手にしているだけで、闇を相手にしているわけではない。もちろん、子どもたちの体力は凄まじいため、体力的な面では少しだけ心配ではあるが。それでも日々バイトで歌って踊ってを繰り返しているクルミの体力も相当なもの。そう簡単にはへばったりしないだろう。  そういえば、その場でさっと分担して別れたため後から合流するかどうかを考えていなかった。女性のことで何もなければ合流も必要なさそうだが、きっと疲れているであろうクルミを労ってあげたい気持ちもある。たぶん私の方がすぐに済むと思うが、先に終わった方がバス停前のカフェで待っていればいいか。  カフェ前のバス停ではなく、女性の家に近いひとつ前のバス停で降りる。一回行っただけで場所を完璧に覚えたわけではないため、記憶を頼りにあちこち見回しながら目印になる建物を探す。  十分ほどかかって雑居ビルが立ち並ぶ区画を見つけたが、思っていたより似たようなビルばかりで迷子になってしまう。確か細い路地を通った先にアパートがあったはず、と路地を進んでいくと雑居ビル区画から歓楽街にでてしまったり。そんなこんなで四苦八苦しながらではあったものの、記憶の中にあった店の名前をマップアプリを使って調べ、やっとの思いで女性のアパートへ辿り着くことができた。 「体調が良くなってればいいんだけど」  ふらふらだったし、思わしくないのは明らかだった。ちょっと眠ったくらいですぐに治ったりはしないだろうが、少しは良くなってくれていれば。そんな祈りを込めながら、インターホンを押した。  ピンポーン。  扉の向こうからインターホンの音が聞こえる。しかし、いくら待っても女性が出てくることはない。まだ眠っているのかもしれないが、もしかしたら倒れてしまっているかもしれない。中を確認しなければそのどちらであるかも分からないため、だんだんと焦りや不安が募ってくる。  失礼だとは承知の上で、ドアノブに手をかける。しかし、鍵がかかっていて開けられなかった。私たちが部屋を出るときは当然だが鍵をかけられなかった。ということは、女性が起きた後に自らかけたのだろう。もしくは、同居人が帰ってきたという可能性もある。どちらにせよ、中でひとりで倒れているという可能性は低くなってひと安心だ。 「出かけているのかも」  待っている間、部屋の中からは物音ひとつしていない。眠っているのならインターホンの音で起きるだろうし、同居人がいるなら出てきてくれるだろう。それがないということは、休んだことで体調が回復し外出している可能性も十分にある。無理をせずにまだ休んでいればいいのにとは思うものの、動けるくらいに回復したのなら嬉しい限りだ。それにしても病み上がりというか、まだ万全ではない体調でどこに行ったのだろうか。そう考えた瞬間、ふと雑居ビルの入口でふらふらとした女性の姿を思い出す。  まさか。まさかね。
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