第参夜 溺れる者は闇にも縋る

9/9
前へ
/48ページ
次へ
 女性の家を後にして、クルミにメッセージを送ってからバス停前のカフェに向かう。青信号だったとしても横断歩道は渡らずに、女性が座っていた雑居ビル側の歩道を歩いた。ただの考え過ぎならいいのだが、こういうときの女の勘は鋭いもの。どうしてあそこに座っていたのかまでは分からないが、あそこにいる必要がなければ誰かに助けを求めるなりできたはずだ。それをしなかったのはそれなりの理由があるということだろう。  雑居ビルの入口が真正面に見えてきた。足早に歩み寄って、そっと入口の階段を覗き込む。すると、そこにはまた女性が俯いたまま座っていた。服を着替えただけで、それ以外は何も変わらない。 「こんばんは」 「あ……」  驚かさないようにそっと声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。私の顔を見て、か細い反応を見せる。最初に見たときより幾分かは顔色は良くなっているものの、それでも体調がそんなに回復していないことは火を見るよりも明らかだ。 「さっきは助けてくれてありがとうございます。あと、私、すぐに眠ってしまったようで……」 「いえいえ、気にしないでください。私たちが好きでしたことですから」  立ち上がって深々と頭を下げる彼女に笑顔を向ける。親切を押し売りしたいわけではない。単に放ってはおけなかったという私たちの勝手なエゴだ。気にすることもお礼を言うことも謝ることも必要はない。よく良い人悪い人と区別をされているが、人間は皆自分のことしか考えていないのだ。自分を満足させるための行為が、誰かにとって害になるか優しさになるかだけの違いしかないのだから。 「……」  私と彼女の間に重い沈黙が満ちる。どうして体調が回復しないうちからまたここに戻ってきたのか。ここで何をしているのか。聞きたいことは沢山あるが、簡単に踏み込んでいいのか迷ってしまう。彼女の行動には何か底知れぬ強い思いを感じる。だからこそ踏み込むことに躊躇してしまうが、それでもやはり放っておくこともできない。このまま踵を返してしまえば、最悪の事態に繋がりかねないのだから。  どうすればいいのかを、顎に指を添えて少し考える。このままここでぼうっとしていても話は進まないし、埒も明かない。こういうときは単刀直入ではなく、やはり外堀からゆっくりと埋めていくのがいいだろう。そろそろお腹も空いてきたし、クルミを待つ必要もある。それなら。 「もしよければカフェで休憩しませんか?」 「あ、でも……私は待ち合わせが……」 「そこのカフェなら、店内からここが見えますよ」  誰かと待ち合わせしている。そんな風には見えないが、新しい情報を得られたことに手応えを感じた。失礼な意見だが押しに弱そうなタイプだと見受けられたため、ここは少しばかり強引にいくのがいいはず。それは特にクルミと知り合ってから何度も経験していることだ。どこかに連れ出すまでは強引で、それからは私の意見を尊重してくれる。押しと引きのバランスの良さがコミュニケーション能力の高さの証明だし、最初は億劫だったとしても一回連れ出されてしまえば意外と乗り気になることも多いものだ。  戸惑う彼女の手を取って、カフェに向かって歩き出す。何事もなければただのお節介で強引な女として少しの迷惑をかけるだけだし、その程度なら知らない間に倒れられているよりはずっといい。もちろん、きっぱりと拒絶をされたらそれ以上は踏み込まないことを前提にだが。  カフェの店員に無理を言って、雑居ビルの入口が見える窓際の席へ案内してもらう。時間帯が時間帯なのでカフェの客もそこまで多くはなかったのが幸いした。店員が持ってきてくれたメニュー表を広げて一緒に眺め、どれにしようか考える。夜ご飯にはまだ少し早い時間であるため、温かい軽食で済ませるのがいいだろうか。しかし、どうせ家に帰っても温かい料理が私を待ってくれているわけではないため、もうここでご飯を済ませてしまうのもいいかも。 「ご飯と麺ならどっちが好きですか?」 「えっと……ご飯、でしょうか」 「いいですね。私もご飯派です」  丼ものにオムライスにリゾットにドリアに。ご飯ものだけでもお洒落なメニューが沢山載っている。カフェという割にはファミレス顔負けの品揃えだ。どれもこれも美味しそうでお腹が鳴りそうになってくる。  左右のページでいえばどちらか。リゾットとドリアならどちらか。答えやすいように閉じた質問を繰り返して、彼女の好みを見極めていく。どんどんそれに答えてくれて彼女のことを知る度に、まだお互い自己紹介もしていないのに仲良くなれた気がして嬉しくなる。メニューを指さしたりして気が合ったときに見せてくれる笑顔がたまらない。緊張や警戒が和らぎ、私たちの間に流れる空気が柔らかくなっていくのをしっかりと感じる。 「志羽晴海(しば はるみ)……です」 「ハルミさんですね。私は阿志賀結と言います」  注文を済ませて店員が下がったあと、ハルミさんはおずおずと名乗ってくれた。私が名乗ると同時にハルミさんは嬉しそうに微笑んでくれる。知り合って間もないが、ハルミさんが物静かで優しい人であることは理解できた。名前を知ることができてさらなる手応えを感じる反面、ここは焦らずゆっくりじっくりと。そう自分に言い聞かせる。急いては事を仕損じるし、お腹が空いていてはろくに話もできはしない。込み入った話は美味しいご飯を食べてから、だ。
/48ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加