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 用事があると言って母が帰り、部屋にひとり残された寂しさに包まれたまま、ソファに寝転がって天井を仰ぐ。実家は神社を営んでおり、そういう話に触れる機会は多かった。しかし、それを実際に私が目にしたことは生まれてこのかた一度もなかった。幽霊なんていない。枯れ尾花を見間違えただけだと。本気でそう思っていたのだ。  あの黒い靄は私が作り上げた幻覚ではなかった。母にも見えるということは、あれはこの世に確かに存在するモノ。見える人にしか見えない、不可思議な存在。子蛇の眼は、どうしてそれを私に見せるのだろうか。一体、私にどうして欲しいのだろうか。取り留めもない考えがぐるぐると蛇のように頭の中を巡る。しかし、それに対しての答えは一向に見えてこない。 「子蛇の、眼……」  目を閉じて右目に意識を集中する。蛇は相変わらず飽きもせずに渦を巻いている。動きに合わせてぐるぐると追っていると、何だか目が回ってきそうな気がして止めた。ずっと回っている当の蛇は目が回ったりしないのだろうか。なんて、神様相手にそんな幼稚な疑問が湧いてきた。  母にはもっと沢山聞きたいことがあった。でも、いざ聞こうとすると言葉に詰まる。母は多忙なためいつまでも時間を無駄にすることはできない。それに、会おうと思えば会うことはできる。だから今無理に全部聞く必要はない。少しずつでいい。いや、少しずつでなければ私の頭が耐えられないだろう。  あの闇は数日電信柱の影で揺れていただけで、近づいて初めて襲い掛かってきた。それはつまり、近づかなければ安全だということ。触らぬ神に祟りなしだ。普通の日常生活を送りながら、闇についてを知っていけばいい。母もそう思ったからこそ、あれをしろこれをしろと言わなかったんだと思う。昔から表立って指示をされることは少なかった。自分で考えられるように大枠だけ用意してくれて、あとは黙って影から見守ってくれる。間違えても間違えても何も言わずじっと笑って見守って、本当に危ないときにだけそっと助けてくれた。母はそういう人だ。 「よかった、のかな」  改めて考えてみる。私の頭がおかしくなったわけではないことは証明された。それはとても嬉しいことだ。しかし、私には他の人が見えないモノが見える。それは、ある意味で頭がおかしくなったのと同じことにも思えた。闇が確かに存在するモノだとしても、見えない人には存在しないのと同じ。その人にとって存在しないモノが見える人は、頭がおかしいのと何ら変わらない。たとえそれが幻覚であろうが闇であろうが、だ。  どちらに転んでも、私が歩くのは普通の日常とは似て非なるものだ。私の日常の中にはいつもどこかに非日常が紛れ込んでいる。油断していて取り憑かれてしまい、誰かを傷つけてしまうかもしれない。そう考えるだけで、背筋に冷たいものが走った。次にあんなことがあったとして、また母が助けてくれるとも限らない。今度こそ、本当に取り返しのつかないことになってしまうかも。  子蛇が貴女の助けとなるでしょう。  母の言葉を思い出す。私の右目に宿る蛇が、私を助けてくれる。闇を丸呑みにした瞬間の記憶が鮮明に蘇ってきた。私は闇のことをまだ何も知らない。だから襲われたとしても成す術なんてない。でも、もし。蛇が助けてくれるなら。これほど心強い味方はいない。危険な目に遭ったこともあり、もう自ら闇に触れることはない。そうすれば闇と関わることも極端に少なくなるだろう。そして万が一、意図せずに襲われてしまった場合でも、蛇が助けてくれる。それなら、限りなく普通に近い日常を送れるかもしれない。  シャワー浴びて、脱衣所の鏡で自分の目を確かめる。鏡に映る右目は何の変哲もない。左目と何も変わらない。でも、この右目には確かに蛇が宿っている。蛇が何のために私の右目に宿っているのかは分からない。でもそれはきっと、私が生まれてきた意味と同じようなものだと思う。私だって意味があって生まれてきたわけではない。ふたつの愛が重なって、沢山の偶然をくぐり抜けて生まれてきただけ。だから生まれてきたことに意味なんてない。意味なんてものはきっと、後からついてくるものだから。それに極端な話。意味がないと価値や存在意義がないなんてことはない。もしどうしても必要なのならば、与えてあげればいいだけのこと。  寝間着に着替えて、明日の準備を済ませる。クルミにも心配かけているし、大丈夫だということを証明するためにも明日はちゃんと顔を出さないと。
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