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 十月九日。だんだんと秋も深まり、ようやく過ごしやすい季節になってきた。部屋の窓から外を見遣れば、数人の子どもたちが体操着袋で遊びながら下校している。他愛ない光景に微笑ましくなるけれど、そんな気持ちも視界の端に捉えたモノによってすぐに消えてしまう。電信柱の影に揺れるぼんやりとした黒い靄のようなモノ。薄っすらと人型を保っているそれは、その場から動くこともせず、まるで海藻のように風に靡いているだけだった。  右目を閉じる。すると、途端に黒い靄は見えなくなる。まるで最初からそこにはいなかったかのように。しかし、もう一度右目を開くと、黒い靄は相変わらず電信柱の影で揺れていた。まるで最初からずっとそこにいたかのように。目を逸らすようにカーテンを閉めて、ベッドに身体を放り投げる。  私は自分の身体に起きた変化が何なのか分かっていない。怖くなって病院に行って診てもらっても異常はなかった。誰かに相談しても気のせい、考えすぎだと言われてしまうだろう。そう思い、誰にも相談できずにいた。  一昨日、二十歳の誕生日を迎えた。友人たちに祝われて誕生日女子会を楽しんでいた最中、右目に妙な違和感を覚えた。右目の奥で何かが動いている。ぐるぐるぐるぐると、まるで渦を巻くように。ただそれだけで、目に痛みを感じたわけではなかったため気にしてはいなかった。しかし、視界の変化は顕著に表れた。  私を含めて女子会のメンバーは六人だった。そのうちのひとり。エマちゃんという子が真っ黒になっていた。どうしたのかと驚いていると、エマちゃんはまるで何事もないような様子でお手洗いを借りると言って席を立った。その間、他の女子メンバーにエマちゃんに何かあったのかを訊ねた。すると、全員が口を揃えて「エマちゃんて誰?」と答えた。恐る恐るお手洗いを確かめてみると、エマちゃんが入っているはずのお手洗いの電気は消えていた。ノックをしても反応はない。扉を開けてみれば、そこには誰の姿もなかった。  仲良しだったエマちゃんがいなくなってしまい困惑していたけれど、考えれば考えるほどエマちゃんがいなくなっていく。滲んで、ぼやけて、どんどん思い出せなくなる。変な空気になってしまい女子会がお開きになる頃には、覚えているのは名前だけになってしまった。声も顔も思い出せなくなってしまい、今では気のせいだったのではないかとまで思えるほどに。  エマちゃんや黒い靄。あれは一体何なのだろうか。私は気が触れて頭がおかしくなり、幻覚でも見ているのだろうか。異常をきたしているのは目ではなく脳なのだろうか。分からない。何も分からない。自分が怖い。私はどうしてしまったのだろう。嫌だ。怖い。自分が異常者かもしれない。そう考えれば考えるほど、不安や恐怖で本当に頭がおかしくなりそうだった。 「うう……ぐすん」  涙でぐしゃぐしゃに視界が滲む。事故にあったとか、病気になったとか理由があるのなら仕方ないと諦めることができるかもしれない。しかし、私には何も思い当たることはなかった。何の変哲もない生活を送っていたのに、いきなり頭がおかしくなってしまうなんて。どうして。どうして。それだけで頭がいっぱいになる。  これはきっと夢だ。そう思い無理矢理眠って起きる。それをもう何度繰り返しただろう。目が覚めて窓の外を見遣れば、何か得体の知れないモノの存在を確かめられる。そして、夢ではなかったのだと絶望する。だからきっとこのまま眠りについても、また今の続きが始まるだけだ。何も変わらない。ただ無為に時間が過ぎただけの今が。それでも願わずにはいられない。これは悪い夢なのだと。私は夢の続きを見ているだけ。でも夢ならばいつかは覚める。次に目が覚めれば、この悪夢からも抜け出せると。  ごしごしと服の袖で乱雑に涙を拭う。深呼吸をして気持ちを落ち着けると、ゆっくりと目を閉じた。これは悪い夢。私は大丈夫。病気なんかじゃない。そう何度も何度も自分に言い聞かせながら、意識を泥の奥底に沈めていった。
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