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思春期の黒
思春期は、人間のどす黒さという泥沼に揉まれる時期だよなあ。
そんなことを考えながら、私は目の前の女子中学生の悩みを聞く。
「私、これからどうすればいいのかな。白山先生」
彼女は縋るような目で私を見た。
「話をまとめると……友達との関係で困っているってことでいいのかな?」
私は彼女の頭の中を整理するため、話をざっくりとまとめる。彼女は力なく、こくん、と頷いた。
「私、もう都合良く扱われるの嫌で……でも、一人にもなりたくなくて……。ねえ、白山先生。先生は中学生の頃、私みたいに悩むことはあった?」
「そうだねえ……」
女子中学生から質問され、私は顎に手を当てて考える素振りをする。
結論から言うと、あった。それどころか彼女は、中学生の頃の私とよく似ている。女子中学生を見据えると、彼女と目が合った。純粋で透き通った黒目。その黒を見て、私は中学時代に会ったある人を思い出す。あの人も、全身綺麗な黒色だった。
子どもは気楽でいい、なんて大人は言ったりするけど、私はそうは思わない。中学生だっていろいろと大変なのだ。
そんなことを思いながら、私は友達の話を作り笑いで聞く。
「でさ、親が早く寝ろってうるさいの! マジウザくない⁉」
「分かる、うちの親もそんな感じ。自分のことぐらいもう自分でできるっての!」
「でしょ? ねえ、白山もそうだよね⁉」
気乗りしない話題に黙っていたら、白羽の矢が立てられてしまった。いや、白なんて綺麗な色じゃない。不吉な黒羽の矢だ。
親が子どもに早く寝ろ、というのは体を気遣ってのことだし、夜更かしは良くない。それに、大好きな親のことを悪く言いたくない。だけどここで違う意見を言えば、ひんしゅくを買うのは必至だ。私は必死に笑顔を取り繕いながら言う。
「そ……そうだよね。本当、嫌になっちゃう」
私の言葉を聞いて、いつも一緒にいる仲良しグループの子達は合格、と言わんばかりの機嫌の良い笑顔を見せる。次の瞬間には私を置き去りに、親の愚痴に花を咲かせた。
一方、『そうだよね』と言ってしまった私の心はもやもやと曇った。親のことを悪く言ってしまったこと、自分の意見を言えなかったことで、私自身も人間のどす黒さに染まってしまったみたいだ。
自分の中に嫌なものを感じていると、トイレに行っていたグループの子が教室に戻ってくる。彼女は私を見ると、足早にやってきて私に耳打ちした。
「あのさ、白山。ナプキンもらってもいい? 生理きちゃったからさ」
「あ……えっと……持ってきてない……」
「えー。 白山、いつも持ってないじゃん」
「ごめんね……」
仲良しグループの子達は、忘れ物をしたり宿題をやっていなかったりしたとき、真っ先に私を頼ってくる。普段なら助けてあげられるけど、ナプキンだけは無理だ。
「何、どうしたん?」
「白山、アレ持ってないって」
「じゃあ私の貸したげるわ。ちゃんと返せよ」
「うわー、助かる!」
ナプキンを入れた可愛いポーチを出したグループの子を見て、私の心は一層曇る。
私は、まだ初潮がきていない。
私が遅れているのは、初潮だけじゃない。他の友達と比べて、私は胸も薄い。運動も勉強もぱっとしなくて、それを友達に笑われることもあった。それでも私は、このグループから離れられない。このグループから離れたら、私はクラスで一人になってしまうから。
やがてホームルームの時間になって、担任の先生が教室にやってきた。先生は、まだ席に着いていない私たちを見て眉間にしわを寄せる。
「おい、もうホームルーム始めるぞ。席に着きなさい」
「……はーい」
注意されたグループの子達は、顔に不満をありありと出しながら席に着いた。私はすいません、と表情で謝りながら自分の席に戻る。
全員が席に着いたことを確認すると、先生は咳払いをして話し出した。
「えー。前から言っていたことだがな。今日から一ヶ月間、教育実習生がこのクラスに来ることになった。じゃあ、入ってきて」
先生が廊下に声をかけると、すっ……と品良く扉が開いた。
現れた教育実習生を見て、私は息をのむ。
とっても綺麗な、男の人だ。
同学年の男子達とは違う、大人って感じの人。さらさらと流れる黒髪に、切れ長の目。目元に泣き黒子があるから、自然とその目に注目してしまう。着ている黒スーツが醸し出す雰囲気も大人っぽくて……何というか、見てたら恥ずかしくなってくる、それぐらいに綺麗な先生だ。
私は思わず、教育実習の先生から目をそらす。すると、仲良しグループのみんながその人にうっとりと見入っていることに気づいた。
教育実習生は、その綺麗な見た目に負けないくらい、透き通った声で自己紹介をする。
「はじめまして、黒川です。これから一ヶ月間、よろしくお願いします」
黒川先生は、そう言って控えめに微笑んだ。私は思わずくらっとした。何でかは分からなかったけど。これから一ヶ月間、ずっとこんな調子なのか。私は複雑な心境で、黒川先生の自己紹介を聞くのだった。
「ねえねえ、黒川先生めっちゃイケメンじゃない⁉」
「ヤバいよね、大人の色気って言うのかな」
「恋するなら子どもっぽい男子じゃなくって、大人がいいよね」
ホームルームが終わると、仲良しグループの子達は教室の隅にささっと集まった。私も話に置いていかれないよう、慌ててみんなのところに行く。どうやら、みんなは黒川先生のことが気に入ったようだ。私は、黒川先生はどこか……見ちゃいけないような感じがして、恥ずかしいような照れるような、そんな気持ちになってちょっと苦手だ。黒川先生を真っ直ぐ見られない私とは対照に、みんなちらちらと黒川先生を遠巻きに見る。黒川先生は、真面目な女子委員長と話をしていた。いつもきりっとしている委員長も黒川先生を気に入ったのか、普段と比べてどこかハイテンションだ。
「何アイツ。ウザ」
ふと仲良しグループの誰かが、恐ろしいほど低い声で言った。
程なくして、委員長についての黒い噂が学年中を飛び回った。
夜遅く、駅前で中年のサラリーマンと腕を組んで歩いていたらしい。誰がその様子を見て、誰がそんなことを言い出したのかは分からない。だけど、その噂は真面目な委員長を傷つけるには十分だった。彼女は間もなく、学校に来なくなった。
「アイツ、学校来なくなったね」
ある日の放課後。誰もいなくなった教室でグループで集まっていると、一人がそう言った。その言葉を聞いて、また別の一人が嫌らしく笑う。
「あー、あれでしょ? パパ活してるって噂が流れたから」
「……あの噂、本当だったのかな」
私はあの真面目な委員長が本当にそんなことをしてるとは思えなくて、ぽつりと本音を口に出してしまった。それを聞いたグループの子達は顔を見合わせ、けらけらと笑い始める。
「え……みんな、どうしたの?」
私が驚いて聞くと、みんなは笑い涙を拭きながらこう答えた。
「もー、白山ってやっぱ変! 嘘に決まってるじゃん、あんな噂」
「そうそう、それにしても、みんなも馬鹿だよね。こんなにあっさり信じちゃうなんて」
「でもさ、おかげでアイツ学校来なくなったじゃん。アイツ、黒川先生にベタベタし過ぎ」
「ど、どういうこと……?」
嫌な予感がして、心臓がどくどくとうるさい音を立て始める。
そんなはずない。そんなこと、あっていいはずがない。
でも、私の願いはあっさりとへし折られる。
「だから、あの噂は作り話なんだって。私らでさ、委員長が嫌がりそうなこと考えたんだよね」
「けっこう上手くいったよね」
そう言って、みんなは友情を確かめ合うように笑い合った。
ああ、何てひどい。
あの噂の黒幕は、この子達だった。
私は何も言えなくて、作り笑いも出来なくて、固まってしまった。
これだけのこと、何でもないことのようにグループの一人が話題を変える。
「あっ! 今日中に提出するノート、まだ出してなかった!」
「やばっ、私も」
「ねえ白山、私たちのノート、職員室に持って行ってよ」
「え……えっと……」
私は答えられない。彼女たちは私の答えなんか求めていなかったのか、目の前にノートをどさっと置いた。
「じゃあ、私ら帰るわ。あとよろしく~」
「ちゃんと出して帰れよ~」
みんなが、私を置いて帰っていく。私は追いかけられない。
最後の一人が、すれ違いざまにこう言った。
「噂のこと、言うんじゃねえぞ。言ったらどうなるか、分かってるな」
恐ろしいほど低い声。次の瞬間声色はコロッと変わって、「待ってよ~」と甲高いものになった。
私は、教室に一人取り残される。
「……ノート。ノート、出しに行かなきゃ」
何も考えられなくて、考えたくなくて、どれくらいの時間が経っただろう。ようやく体が動くようになった私は、彼女たちに言われた通りにノートを持って職員室へと向かった。
もういっそ、全部先生に話してしまおうか。
道中、そんな考えがよぎった。でも、あの低い声がすぐに蘇って、そんな思考すら許されないような気がしてくる。私は頭を振って、余計なことを考えないようにした。このノートを提出して、家に帰る。私に出来るのはそれだけだ。そうするつもりだったのに。
「あれ、白山さん?」
背後から声をかけられる。頭の中がいっぱいいっぱいで、後ろに人がいることすら気づかなかったらしい。そしてこの綺麗な声。私は怖々と振り向いた。黒川先生だ。
「あ……」
「もう、みんな帰ったと思ってたよ。遅くまで大変だね、どうしたの?」
どうしよう、こんなところ、グループの誰かに見られたら。
私は怖くなって、また動けなくなってしまう。
「それは、今日提出するノートだね。……あれ、白山さんのノートじゃない。……何かあったの?」
何とかして話をすぐ切り上げないと。
でも、何て言えばいいんだろう。駄目だ、目の前がどんどん暗くなっていく。視線が下に下がっていく。
「白山さん」
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「白山さん」
ふと、目の前から声がした。はっとなって視線をあげると、黒川先生が目線を私に合わせてかがんでいた。綺麗な、優しい顔が目の前に広がる。私はどきっとした。
「何かあったなら、教えてほしいな。僕はまだ実習生だけど、先生だ。生徒の力になりたいんだよ」
そう言って、黒川先生は微笑む。私は気が抜けたような、骨抜きにされたような、訳が分からなくなって。胸に抱えていたノートをばさばさと落とし、顔を覆ってわんわんと泣いた。
気づけば、私は全部を黒川先生に話していた。グループの子達にコンプレックスがあること、都合良く扱われていること、それでもグループを離れられないこと……あの黒い噂のこと。黒川先生は、泣きながら話す私を見守ってくれていた。最後まで話し終えて、私は黒川先生に聞く。
「私、これからどうすればいいのかな。黒川先生」
黒川先生は、「そうだねえ……」と顎に手を当てる。慎重に答えを考えてくれているみたいだ。学校でそんな風に扱われた事なんてなくって、私はまた泣きそうになってしまう。
「……まず、噂のことはこっちに任せて。白山さんに害が及ばないように動くよ。あとは、友達との関係で困っている。そうだね?」
黒川先生に質問されて、私はこくん、と頷く。
黒川先生は私の答えを受けて、こんなことを話し出した。
「実はね。僕も中学生の頃、友達と呼べる人がいなくて、嫌われ者だった」
「ええっ」
こんなに綺麗な人なのに。
私は驚いて、思わず声を上げた。その様子を見て、黒川先生はははっと笑う。
「クラスを仕切っていた女子を振ったら、女子全員を敵に回しちゃってね。男子達からは最初から嫌われてた」
「そんなの、ひどいです……」
すっかり緩んだ涙腺から、また涙が出てくる。
そんな私を見て、黒川先生は慌てたように手を振った。
「いやいや、昔の話だからもういいんだ。クラスに誰も味方がいなかったとき、僕はどうしたと思う?」
「……どうしたんですか?」
難しいことが考えられなくなった私に、黒川先生は小悪魔的な笑みでこう言った。
「とにかく勉強したのさ。クラスメイトが合格できないような高校に行くためにね」
「どういう、ことですか?」
私はその答えの真意がよく分からなくて、黒川先生に質問する。
「自分に合う環境を探しに行く、ということだよ。ここが合わないなら、他の場所に行けばいい。ここの誰も追いつけないような場所に。世界はね、白山さんが思っている何倍も広いんだよ」
「で、でも私、勉強できない……」
それができたのは、黒川先生が昔から凄い人だったからに違いない。
私は勉強もできないし、運動もできない。そのせいでからかわれることだってあった。そんなこと、できるわけがない。
そう言って俯いた私に、黒川先生は鋭く問いかける。
「じゃあ、ずっとこの泥沼に身を任せるかい?」
低い声。だけど、不思議だ。この声は恐ろしくない。言い方は鋭いけれど、そこにあるのは悪意じゃなくて、優しさだ。
「い、嫌です……!」
私は意を決して答える。私の答えに、黒川先生は微笑んだ。
「偉いね。この学校の先生達は、みんな素敵な人だよ。きっと、白山さんに力を貸してくれる」
頑張って。
黒川先生は、笑顔でそう言った。私だけに向けられた、綺麗で優しい笑顔。
私は、きっとこの出来事を一生忘れないだろう。そんな確信があった。
それからというもの、私は必死に勉強に励んだ。休憩時間は教科書を広げるようになったし、放課後は先生達に補習をしてもらった。私の変わりようにグループの女子達は怪訝な顔をしたけど、噂の件がバレたわけではなかったから追及はしてこなかった。正直どうなるか怖かったから、ほっとした。クラスでは孤立してしまったけれど、勉強しやすい環境になったと思えば悪くない。
そして季節は過ぎ去って、中学三年生の冬。私は偏差値の高い高校に合格した。おかげで、中学校の同級生とは卒業式を最後に縁が切れる。私の高校合格を、先生達や家族は心からお祝いしてくれた。私は嬉しくて、誇らしくて、同時に寂しかった。黒川先生に、高校合格を伝える術がないからだ。
どんなに寂しくて心残りがあっても、卒業の日はやってくる。長い長い卒業式の最中、私は下腹部に痛みを覚えた。式が終わってトイレに駆け込むと、下着に黒く酸化した経血がついていることに気づいた。
(今思えば、黒川先生が初恋だったな……)
「……白山先生?」
思い出にふけっていると、女子生徒が声をかけてくる。
いけないいけない、目の前の生徒を放り出してしまった。
私は彼女に微笑む。
「ごめんごめん。少し、昔のことを思い出してた。実はね。私も中学生の頃……」
黒川先生、お元気ですか。
私は今、『白山先生』になっています。あのとき貴方が私に道を示してくれたから、今がある。黒川先生が今どこにいるかは分からないけど、私が『白山先生』である限り、いつかきっと会えるでしょう。そのときには、私が頑張った話、たくさん聞いてください。
私も貴方が伝えてくれたことを、次の世代に繋いでいきますから。
思春期の黒 完
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