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定時で仕事をあがって洋さんのお店に直行する。もう大分通っているのに、お店に入るときは少しの緊張感がある。
「お、おつかれさまです!」
「おぅ、お疲れ。お前いつになったら吃らずに入ってくんの?」
「だって、入るときは緊張するんですよ」
私が入ると外のOpenの表示をcloseにしに洋さんが歩いてく。横を通るとふわっと香るたばこの匂い。そんなに好きな匂いではないけれど、香りも洋さんを形作る一つのものだと思うと嫌いではない。
「あの、毎回言うんですけど、別に私が来てもお店閉めなくていいんですよ?洋さんレッスン料受取ってくれなくなったし…そんなのお客さんじゃないんだから」
お客さんじゃない。自らこう言って、私は彼になんと言ってほしいのだろう。
「いいって言ってんだろ。お前に教えるの楽しいんだよ。最近マンネリ化してた音楽への気持ちが再沸騰する感じで新しい曲だって書けたんだ。お前のおかげだよ。さっ、奥行くぞ」
「はい……」
寡黙な人に見えていた彼は、慣れると案外饒舌な人だ。自分のバンドは解散してしまったが、プロのミュージシャンのバックでサポートメンバーをやっているらしく、ツアーを一緒に回る時はこの店に彼は居らず、他の人に任せているらしい。
「宿題に出してたとこやってみせて」
「はい」
彼に自分だけが見られている緊張と、最初弦を抑える時はどうしても指が震える。音に乗ってしまえば大丈夫なのに。この上がりは彼の前だけのようで、家で練習する時は大丈夫だ。
「やっぱり一音目が震えるのな」
「家で練習する時は大丈夫なんですけど…」
「誰かが見てると緊張するのか。俺一人の前くらいそろそろ慣れろよ」
あなただから慣れないんですよの言葉は飲みこみ「そうですね」と上っ面だけの言葉を紡ぐ。
私の課題曲を彼が弾いてみせてくれる。口には咥えたばこ。そんな姿が様になってしまう。今日も長い髪を無雑作に一つに括っているだけなのに最高にカッコいいと思ってしまうのは、私が完全に彼に堕ちてしまったからだろう。
こんな下心はバレちゃいけない。ある程度弾けるようになったら距離を置かねば。
「なぁ…そんな熱っぽい視線感じたら嫌でも勘づくけど?」
「えっ…」
「誘ってんのかって言ってんの」
「そんな……」
つもりはないと言う言葉は遮られ、たばこの匂いのする唇で塞がれた。こんな事されたら洋さんが遊びだろうとこの気持ちを隠せなくなる…。
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