5人が本棚に入れています
本棚に追加
男は大切にすると言っちゃった
「先生、わたし、痛いのはイヤ」
「大丈夫、優しくするから」
「本当に?」
「ああ、マリさんを大切にするよ」
中国青島ホテルの一室で背を向ける仕事仲間の羽鳥マリを山辺アキラはそっと抱きしめた。久しぶりに喋る日本語と愛らしい羽鳥の瞳に、山辺の平常心は失われる。
日本人女性と会うのは久しぶり。こんな優しい笑顔をずっと見られるのも久しぶり。有名な青島ビールを飲んだのも久しぶり。いつも任地では安い白酒ばかり、かっ喰らっていて、こういうシチュエーションは久しぶりだった。
山辺は医師だが、医師と言っても名ばかりなもの。赴任先で最先端医療の指導に当たるはずが、中国に来てみるとそこはとんでもない田舎町で限られた資源を工夫し有効に活用することくらいしかできなかった。表向きは医療協力、裏は日中友好と言ったところか。
任地には日本人も西欧人も誰もいない。そこに数年前から山辺は住んでいる。だから久々に会った日本人女性の美しさに魅了された。それは外見だけじゃない。内面から出る柔らかい日本人らしさに惹かれていた。
こういう時、山辺は羽鳥マリじゃなくても日本人女性なら誰でも同じように感じていたに違いない。山辺本人もわかっていた。きっと惚れるという感覚より、ただ目の前にいる女性が日本人であるというだけで良かったということを。
後ろ髪から漂う仄かなシャンプーの香りと、柔らかな人肌に理性を失う。言葉巧みにこの状況を打破したいと、冷静さを装う。
「ずっとわたしを大切にしてくださいね」
「ああ、約束する」
羽鳥マリの顔が山辺を見つめる。上目遣いで見つめる瞳がそっと閉じられる。そんな羽鳥に山辺は顔を寄せ口づけをした。リップの滑らかな感触と、小刻みに震える体。山辺はそれを抑えるように強く抱きしめる。数年ぶりの女の体に我を忘れる。ただひとつ、痛くしないよう馳せる気持ちを抑えてゆっくりねっとり夜の時間を過ごした。
朝になり窓辺から朝日が差し込む。山辺は羽鳥の眩しい白い背中に目が覚めた。女性特有の滑らかな曲線美が朝日を浴びて輝いている。美しいその肌にまた触れたくなるが、ふと昨日の羽鳥の言葉が山辺の頭を巡った。
ーーずっとわたしを大切にしてくださいね。
酔いが醒めた山辺の顔に一抹の不安がよぎる。顔が歪む。女は怖い生き物のように見えてくる。その怖いという感覚を拭うために、近くに置いてあったペットボトルに手を伸ばし、その中にあったミネラルウォーターを一気に飲み干した。
こんな真面目な女が山辺に身を委ねたということは、本気なのかもしれない。三十歳の山辺からすると二十歳前半の羽鳥は眩しかった。
羽鳥マリとは過去に数回しか会ったことないが、おそらくこちらの素性は知られている。この業界で身辺調査は当たり前。もしかしてハメられたのは山辺自身なのかもと、安らかな羽鳥の寝顔に疑念を抱く。
山辺たちは医療ボランティアとして活動しているNGOの同士。羽鳥マリは日本とのパイプ役でたまに中国に来る女だ。若い羽鳥は中国語が話せる事務員として、現地調査から事務手続きを任されている。
今回、山辺アキラと羽鳥マリが会うことになったきっかけ、それは羽鳥のプロジェクトからだった。済南にある施設の子たちに義足をプレゼントするという企画。聞いた時には、よくそんな企画が通ったものだと他人事のように山辺は感心していた。
そんなある日、本部から山辺に電話が入った。
プロジェクトの一環で山辺の存在が浮上したという。たまたま済南の近くの病院で働いていた山辺に白羽の矢が立ったのだと伝えられる。近くと言っても車で3時間以上も距離がある場所なのだが、中国に住んでいるとこの距離は近いと表現される。
山辺は打ち合わせのため羽鳥マリと上層部に北京で会った。そこで企画書にも目を通した。医師の通常業務に比べれば、取るに足らない計画に了承する。山辺の役目は羽鳥マリの代わり。羽鳥が現地視察に何度も足を運べないから、その手伝いと経過観察をしろと言うものだった。至って単純な仕事だ。
ただこの企画を簡単に快諾したのには羽鳥マリ自身の存在が大きかった。羽鳥の若々しさとプロジェクトにかける想いに、山辺の心は動かされた。この時から山辺は羽鳥を意識していた。
プロジェクトメンバー全員で会うのは今日の午後。済南の大学前で待ち合わせと聞いている。はじめて会う人たちと面識があるのは羽鳥マリだけ。山辺はそんな羽鳥を青島空港まで迎えに行き、済南まで案内する役目だった。
たまたま昨日、ホテルの空きが一室しかなくて二人でそこに泊まり、酔った流れで羽鳥を抱いてしまった。嘘のような出来事に山辺は浸る。久しぶりに交わった人肌に恋しさが残る。
だが起きた羽鳥にそんな余韻は感じられない。ホテルを出るなり、いつもの羽鳥マリに戻っていく。女には男のような余韻や欲がないのか、山辺は不思議そうな顔をする。
ただ山辺のことを「先生」ではなく「山辺さん」と呼んでいいか尋ねてきたことに、初々しさがあった。
◆
青島から済南まで電車で向かう。
「中国の電車ってなんか怖そうですね」
「これも慣れだな」
羽鳥マリはバックパッカーのように大きなリュックを背負い、登山家のような格好をして歩いている。化粧は薄く、あたふたした顔と、ぎこちない喋り方、常にニコニコした感じが、ぱっと見で日本人だとわかる。
中国人と韓国人には笑顔がない。特に韓国人は化粧をバッチリ決めているから区別しやすい。
切符を買うのも乗り物に乗るのも、きちんと順番を守ろうとする羽鳥マリに、「それじゃあ一生乗れないから」と山辺は自分の後ろに並ばせる。そして切符を買うため強引に切符売り場に割り込み、しわしわになったお金をポケットから取り出す。中国では財布など使わない。ぐちゃぐちゃのまま手に持ち、他の客さんと同じように窓口に手を突っ込み電車時間と目的地を告げる。
「柔らかい椅子で大人二枚だ」
笑顔を一切見せない。臆することなく、はっきりと告げる。
「凄いですね」
「ここは日本じゃないからな」
乗車する時も我先にと乗り込む。案の定、自分たちの席にはもう知らない中国人が座っていた。
「そこ、僕たちの席ですけど」
「ここはワシの席じゃ」
老人が座席番号を無視して座っている。
それを見て羽鳥マリが何か言い返そうとしたが、それを山辺が制し、代わりに山辺が中国語で捲し立てた。どかぬなら警察を呼ぶと脅しに似た文句を伝えスマホを取り出す。日本人だと悟られないよう短めの言葉で語気を強め威圧する。するとあっさりどいてくれた。
「あの人、なんなんです?」
「気にするな。よくあることだ」
「マナー無さすぎ」
「これも文化だろ」
「民度低すぎです」
「そんなもんだ。みんながみんなじゃない」
北京や上海くらいしか知らない羽鳥マリにとって、地方都市に向かうのは難易度が高いようだ。あまり日本語でお喋りしていると周りの視線が冷たいので、「黙って外でも眺めてろ」と山辺は静かに言った。
「あー、外はゴミだらけ」
羽鳥はつまらなそうに、外の景色を見ながらぶつぶつ言う。ポケットから日本のグミを出しては口の中に放り込み、山辺にもそれを分けていた。程良い甘味が日本のお菓子らしいと、山辺もそれを味わいつつ羽鳥の口元を見つめる。
「昨日は……」
山辺は昨日の真理を知りたくて尋ねようとしたら、すぐに羽鳥も山辺の目を見て口を開いた。察しのいい羽鳥は真剣な眼差しを向けてくる。
「山辺さん、わたし、あなたの帰国をずっと待っていますから」
羽鳥の頬が赤めく。そっと山辺の手を握る羽鳥の手、山辺を呼ぶ声すべてがもう恋人そのものだった。
最初のコメントを投稿しよう!