チェン・リーシュの転機

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チェン・リーシュの転機

 山辺アキラと羽鳥マリが済南(ジーナン)の大学前で仲間を待っている頃、済南では一人アルバイトに精を出す陳麗旭(チェンリーシュ)の姿があった。  ◆  陳麗旭は大学の授業が終わるなり、近くの日本料理店でウェイトレスとして働いている。 「いらっしゃいませ」  お客に対して中国人らしからぬ笑顔をいつも振りまいている。  もともと北京近郊の河北省に暮らしていた陳麗旭は、国際色豊かな環境で育ってきた。中国では珍しく実の妹もいて、一人っ子の友達みたいにわがままではない。姉としての思いやりや気遣いがあり、何事にも頑張る姿勢が世間から評判が良かった。二人姉妹ということで風当たりの強さはあるけど、それは小さい頃から堪えている。  辛い時こそ笑顔でいる。妹の境遇より恵まれているから、ここで弱音を吐いてはいけない。両親に負担はかけられない。生活費くらい自分で稼ぐ。陳麗旭は大学四年生になり、より一層そういう気持ちが強くなっていた。  大学では日本語を専攻している。  もともと幼い頃から日本のアニメやドラマに親しんできたせいもあり、日本人の真似をするようになっていた。それが総じて普通の会話程度なら日本語を喋れるようにまでなる。 「リーシュ、日本人のお客さんの注文、聞いてきてくれ」  店長からいつもそう言われては、笑顔で注文を取りに行く。 「お待たせしました」  一度お辞儀をしてから紙とペンを持ってお客さんの前に立つ。よく来る日系企業のお偉いさんたちだ。比較的ここに来る日本人のお客さんは年配の人たちが多い。たまに日本人の留学生も来るけど、彼らはいつも群がっていてあまり地元の学生とは口をきかない。 「みんなにいつもの山東(シャンドン)定食と松茸の茶碗蒸しを頼む」 「はい、畏まりました。山東定食と松茸の茶碗蒸しを四名様分で」  日本人は何故だか松茸のシーズンになるとよくそれを注文する。中国人はあまり食べないキノコなのに、どうしてなのか不思議でならなかった。 「ついでにビールをジョッキーで四人分」 「はい、畏まりました」  丁寧にお辞儀をしてからその場を離れる。上手く今日も注文が取れたと自画自賛する。  日本人のお客さんは物静かでいつも優しい。日系企業の人たちから中国語の家庭教師を依頼されることもあるけど、みんな心底真面目な人たちだ。一度も身の危険を感じたことはない。お呼ばれして行った家はみんな高級マンションだし、だいたいの人がご結婚されている。教え子も会社に勤めている旦那さんではなくご婦人ばかりだ。  それに比べて地元のお客さんたちは……。  怒鳴り合う声と食べ散らかしていくテーブルの汚さに嫌気がさす。日本人たちのテーブルは掃除しなくてもいいほど綺麗なのに。おつまみで出すヒマワリの種でさえ、残った殻をまとめて小皿に入れてくれる親切だ。決して日本人は足元に散らかして帰ったりしない。  陳麗旭は今まで当たり前だと思っていた生活に、なんだか違和感を覚える。日本人を見ていると誰も彼も皆、きちんとしていてテレビで観る日本人とは違うような気がしてならなかった。アニメに出てくるキャラクターたちとみんな同じ。夢のようなアニメのキャラたちが本当に存在している。 「リーシュまた日本人のお客さんが来たよ」  一緒にアルバイトをしている梁紅(リャンフォン)が傍にやって来て教えてくれた。  そこへやって来たのは比較的若いグループだが学生ではなさそうだ。五人仲良く談笑している。はじめて見る顔に梁紅と陳麗旭が興味を引く。  一人は中国人のような服装をしている。日本人に見えるけど、場慣れしていいるから中国人の通訳さんかもしれない。ちょっとカッコいい。通訳できるから優秀な人なのだろう。  もうひとり側にいる女性は如何にも日本人ぽい独特な服装だ。アニメで見た山ガールなるものか? 可愛いらしい。  そして一番年長者らしき人は細身のスーツ姿だ。その隣にいる方はご婦人だろうか? 仲良く手を繋いでいる。高級そうなワンピースを着ていて、気品漂う美しさがある。  最後の一人は留学生みたいな人。キョロキョロと落ち着かない感じが、はじめて観光に来た日本人みたい。  梁紅から見ても陳麗旭の心の内がわかるくらい、興味津々な顔をしている。だからそっと陳麗旭の背中を押して注文を取りに行くように促した。 「いらっしゃいませ、ご注文決まりましたらお声掛けください」  陳麗旭が笑顔でメニューを配る。陳麗旭の言葉に留学生みたいな人と通訳さんみたいな人が「日本語上手いねー」と褒めちぎってくる。「まだまだです」と照れている陳麗旭に、「あなた、そこの大学の学生さん?」と山ガールから質問を受けた。 「はい、そうですけど」と普通に陳麗旭が応えると、何やら五人がひそひそと会話をし始めた。日本人が静かにお喋りをしていると陰で悪口でも言われている気分で居心地が悪い。だからこの場を離れようとした。 「ここのおススメって何ですか?」  あ、離れられない。  今度はスーツ姿の男が眼鏡をちょっと上げて尋ねてくる。 「おススメは山東定食です」 「山東定食?」 「はい。日本の天ぷらや刺身と、山東省名物の水餃子をセットにした定食です」 「じゃあそれ五つとビールで」 「え、うちは松茸と紹興酒も欲しいなー」  スーツ姿の男にワンピースのご婦人がメニューを見せながら寄る。胸元を寄せて男の腕にくっつく。また松茸かと陳麗旭から苦笑いが漏れる。 「じゃあ松茸の茶碗蒸し五つと紹興酒も追加で一本頼む」 「畏まりました。ビールはジョッキーでいいですか?」 「いや瓶で。紹興酒のグラスと分けて用意してくれ」 「畏まりました」  丁寧にお辞儀をする。またやり切れたと自信を持つ。  すぐに料理を運び、彼らの食べっぷりを遠くから眺めていた。こんな若い人たちでもテーブルマナーが出来ている。誰も散らかしたりしない。留学生さんみたいな人と山ガールはヒマワリの種を食べたことがないらしく、通訳さんみたいな人に食べ方を教わっている。なんだかとても楽しそう。  若い日本人たちが食べ終わると、お皿たちを綺麗に重ねて片付けやすいように並べてくれていた。そして「お会計を」と頼まれたので急いで領収書を持って陳麗旭が行くと、通訳さんみたいな人に日本語で話かけられた。 「僕たちはこういう者なんですが」  突然名刺を受け取った陳麗旭は目を丸くする。学生の身分で、あまりそういう経験がなかったから、店長を呼んだ方がいいものかと迷ってしまった。  店長に言うにも何て言えばいいのかわからないから一先ず名刺に目をやる。するとそこにはNGO法人医療専門チーム、山辺アキラと記されていた。 「シャンビェン、アキラ?」 「やまべあきら……と読みます」 「山辺さん」 「はい。突然で申し訳ないですが、急遽通訳できる人を探していまして」 「通訳?」 「僕と羽鳥の中国語では限界がありまして、どうにもこうにも」 「今はアルバイト中なので、ちょっと無理ですけど」 「いや、今じゃないんだ。明日なんだけど……」  陳麗旭は明日の用事を頭の中で巡らせる。明日は休みで特に用はない。幼馴染の男、周東昇(ジョウドンシェン)に買い物を誘わられていたけど、お金がないからと断った。梁紅が暇なら一緒に遊ぼうかとも思っていたところだが、こういうチャンスはめったにない。 「明日なら大丈夫です。時間は何時でしょうか?」 「十時に大学の前で」 「畏まりました」  ついに通訳デビューの時が来た。それが嬉しくて陳麗旭の心は跳ねだす。浮足立つ。 「僕は医師で何でも屋さん。スーツの人が形成外科医の久保先生で、その隣が奥さんで看護師の加奈さん、登山家みたいな女の子が事務の羽鳥さんで、一番若いのが義肢装具士の宮本くん」 「私は陳麗旭(チェンリーシュ)と申します。日本語で言うとチンレイキョクでしょうか? 宜しくお願いします」 「チェンリーシュでいいよ。名前変える必要ないから。こちらこそよろしく、チェンさん」 「はい」  山辺アキラがすっと手を伸ばし握手を求めてきたので、陳麗旭は慌てて手を伸ばして握手を交わした。強く握られる掌が、夢でないことを実感させる。
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