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それからシャワーを浴びて、シャツに腕を通した私は掛け時計を見て目を少しばかり見開いた。冬であればまだ夜明け前である。夏は一日が長い。
用事もない私はとりあえず外を散歩することにした。あたりに何があるわけではない。ぎらついた日の下を目的地も決めずに足を進めていく。
道中で幾人かに会った。顔が完全に路に向くほど腰の曲がった爺さんが柄杓を手に水を撒く。飴玉ほどの汗を額に浮かべて犬に引っ張られている婦人、遥か彼方の景色を小さなスケッチブックに見事に写す老紳士。会話こそしないが、会釈と朝の挨拶を口にすれば向こうも顔をこちらへ向け、「良い一日を」と言ったきり各々元の行動を再開する。この町ではあいさつ代わりの言葉らしい。相手を引き留めず、ただ今日の幸を願うその動作一つ一つが新鮮で、ごく自然のことのように思えた。
浜辺に着いた頃には軽く息も上がり、雑巾を絞るかのごとく額や首筋から汗が垂れていた。持ってきたタオルで拭けども留まる気配はない。
適当な場所に腰を下ろし、私は眼前の景色を眺めることにした。波は穏やかでリズムを刻みながら打ち寄せ、そして引いていく。遠くに見える海は弧を描いており空との区別がつかない。少し視線を上にすれば二羽のカモメが羽を広げて悠々と飛んでいる。朝飯でも調達するのか、それとも引越しをするのか、はたまた私の様に散歩をしているのか。段々形が分からなくなり、黒い点になるまで答えの出ないことをしばし考えていた。
どれくらい座っていただろうか。気づけば背中から轟音とともに車が走り去り、店に明かりが灯り、海水に飛び込み嬌声を上げる若者も現れた。いつもの一日がようやく始まった。
私はおもむろに立ち上がり、砂を払って帰路へ向かおうとした。その時ふとシャツの背中を引っ張られた。首を巡らせれば三つほどの男児が立っていた。上半身裸でズボンだけ履いた男児の腹は陶器のように見事な曲線を描いている。
はい、と差し伸べられた手の下に平を向けると彼の手から貝殻が四五ほど零れ落ちた。形も色も様々な何の変哲もない貝殻である。くれるのかと問えば、言葉の代わりに全身の三分の一ほどの頭を大きく前へ倒した。おそらく私にもこのようなときがあったのだろうが、子供のいない私から見た彼は別の生き物のように感じた。男児は何やらもちもちとして感情の塊だ。今は新たな貝殻を探すために私のことは一切記憶から排除して小さな手を砂に突っ込んでいる。すぐに男児の親が飛んできて彼をひょいと捕まえて私に何度も謝ってきたが、私はすぐにかぶりを振った。
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