黒いもの

1/2
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 名前を呼ばれて、僕は溜め息をつきながら立ち上がる。これから、健康診断で胃カメラの検査を受けるのだ。何度やっても慣れなくて、しんどい。ただ、いつもと違って、今回は、受けたいという気持ちが強かった。  というのは、最近どうも体調が怪しいからだ。なんだか気分が優れないというか、気持ちが落ち着かない。胃が痛いという訳ではないのだけれど、なんだか何を食べてもおいしいと感じられないし、胃が重い感じなのだ。  部屋に入り、僕は医者に言われるままベッドに横になった。色々な説明を受けながら鼻に液体を入れられる。ツンとする感じがして、それからそれがゆっくりと口の方に流れ込んでくる。医者がカメラを手にし、鼻の中に入れていく。唾液は出すように言われているけれど、つい飲み込んでしまったりする。しばらくして、「え?」という声が聞こえた。涙目で、離れた位置にあるカメラの映像を見ながら、僕もその原因に気付いていた。画面が真っ暗なのだ。  医者が、カメラの管を出し入れするのが分かる。こころなしか、焦っているように感じる。というか実際焦っているのだろう、何も映らないのだから。暫くするとカメラの管が引かれていき、喉のあたりまで来たのを感じた。そしてそれと同時に、カメラの画面が明るくなった。カメラに何かくっついていたのがはがれたのかもしれない。  医者もそう思ったのか、再びカメラが押し込まれていったけれど、胃の方に入っていくと再び画面が真っ暗になる。結局医者も諦めたのか、そのままカメラは引かれていき、鼻から出ていった。  しばらくぐったりしていると、いつもなら、お疲れさま、と声をかけてもらえるのに、今回はそんなこともなく、うがいを指示され、うがいを終えると、医者は深刻そうな顔で、外でお待ちください、とだけ言った。どういうことなのか聞きたかったけれど、聞ける空気ではなかった。  何か重い病気なのだろうか。不安になりながら待っていると、名前を呼ばれ、次はレントゲンを撮ることになった。こちらはしんどくはなかったけれど、とにかく空気が何か重い。撮影を終えた後の医者の表情も、何だか重たかった。  それからしばらくして、今度は診察室に呼ばれた。何か重い病名を告げられるのではないかと不安でいっぱいだった。その不安があまりにも大きすぎたせいか、医者の最初の言葉が、一瞬理解できなかった。けれど医者は確かにこういったのだ。 「あなたには、誰か、嫌いな人がいるのではありませんか?」  今なぜそれを聞くのだろう。それが健康診断と何の関係があるのだろう。いや、関係があるのだろうか。何か精神的な問題みたいな。そして、確かに嫌いな人に思い当たりはある。  その人は、平気で嘘をついたり話をごまかしたりするのだ。過去にお世話になった恩もあるから、関わりは続けていたのだけれど、その人が最近は、あまりにも、自分に都合よく物事を考え、関わる周りの人たちを利用しようとばかりするから、嫌になってきたのだ。そして、我慢していた時間が長い分、嫌な気持ちが心にこびり付いていて、余計に嫌になってしまっている。  嫌いな人は確かにいますが、と答えると、医者はやはり、というようにうんうん頷いて、それから、「落ち着いて聞いてくださいね」と言った。  「あなたの、その人を嫌いだという強い気持ちが、あなたの中を真っ黒にしているのです。だから胃カメラでもレントゲンでも、真っ黒な画像しか撮影できませんでした。軽度であれば、薬などで改善することもできるのですが、あなたの場合は黒いものがこびり付いていて、なかなか治らないでしょう。カウンセリングを受けることをお勧めしますが、基本的にはこれから長く付き合っていかないといけない病気になるでしょう」  その日以来、僕はその黒いものを体の中に入れたまま生きることになった。原因が分かったせいか、体調に関しては以前よりも少しマシになったし、カウンセリングは一度だけしか受けていないけれど、その時に聞いた考え方で、黒いものの黒さを和らげることはできるようになった。やはりこれも原因が分かったからなのかもしれないけれど、自分でもその自分の中の黒いものの黒さがなんとなくわかるようになってきたのだ。  カウンセリングで聞いた考え方というのは、嫌いな人に対してどう対処するかという事だった。人は変わる、恩のある人でも恩を感じ続ける必要はない、いい人がいつまでもいい人だとは限らない。嫌な人の事は嫌な人だと思えばいい。いい方に戻ることを期待してはいけない。距離を置くのが一番良い。というようなものだった。冷静に考えれば当然の事なのに、グダグダと考えすぎていたせいで、そこまで思い至らなかったのだろう。また、都合上その人にはしばしば会わないといけない、SNSなどでも時折その人の発言を目にしなければならない、というのもネックだったのだけれど、それに対しても、壁を作ればいいのだと言われた。僕はそういう事に罪悪感を覚える方だったけれど、専門家からそう言われると、そうしてもいいのだとホッとできた。そう、確かにどんな人でも一人の人なのだという認識は大切だけれど、それはどんな人でも受け入れて関わらなければならないという事ではないのだ。極端な話、人を傷つけて平気そうな顔をしている人を受け入れて仲良くする必要なんてないという事なのだ。  けれど。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!