黒いもの

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 せっかくそうした考え方で落ち着いてきたその生活が、一変してしまった。その人からのメールがきっかけだった。関わりたくなかったのに、無理やりにでも関わらないといけない事になったのだ。断りたかったけれど、断ると、仲のいい人たちに迷惑が掛かってしまう。どうすればいいのか。きっとあの人は、こんなふうにして僕を利用しようとしているのだろう。何故、あんな人一人のために、僕がこんな気持ちにならなくてはいけないのか。その人と距離を置こうとしてもなお、こんなふうになってしまう。そう思うと、僕の中の黒いものが急激に膨れ上がってきた。  むせ返り、僕は深呼吸をして落ち着こうとしたけれど、吐き気がして、深呼吸すらできなくなった。この身体の中で膨れ上がるどす黒いものを何とか吐き出してしまいたいと、僕は立ち上がり、洗面所の方にフラフラと向かう。しかし、それもできず、途中で膝をついた。その衝撃で、僕はそれを吐き出した。  口から、黒いものが流れ出てくる。うめき声も出せず、目から出る涙も止まらず、口から出てくるそれは止まる様子もなく、床を少しずつ真っ黒にしていく。視界がぼんやりとしているけれど、その黒いものはぬめぬめとして、そして目の錯覚なのか、自ら動いているようにも見えた。  どれくらい時間が経ったのか、気が付くと僕は床に倒れていた。重い体を何とか起こす。周りはもう暗くなっていて、一瞬、吐き出したもののせいなのかと思ったけれど、そういった暗さではなかった。立ち上がり、電気を点けると、そこはいつもの僕の部屋だった。そして、床に吐いたはずの黒いものは、どこにもなかった。夢だったのだろうか、とも思ったけれど、よく見るとわずかな黒い汚れは残っていて、だから、あの黒いものは、どこかへ行ってしまったのだと思った。少なくとも僕の中には戻っていないはずだ。だって、なんだか気分はとても楽になっていたからだ。  そしてそんな楽になった気持ちで、改めてその人からのメールを見ると、対処法も楽に思いついた。そのメールは、無視することにした。返事をすると周りに迷惑がかかるけれど、返事を保留すれば、そうはならない。返事が遅いことは、忙しかったから、などと言っておけばいいだろう。それはその人だってよく使う手法だ。罪悪感を覚える必要なんてない。その人がどう反応するかは分からないけれど、まぁとりあえず待っていればいいだろう。後の事は、反応を見て考えればいい。今からこのことで頭を悩ませるなんて時間の無駄だ。  けれどその後、その人からの反応はなかった。何故か、その人と会う事もなくなった。行方不明になったとか、精神を病んでいるとか、いくつか噂を聞いた。こうなると、あれだけ嫌だったのに、同情の気持ちなのか、その人の事をかわいそうだと思ったりさえした。そして何よりうれしく思ったのは、これで僕も落ち着けるだろうという事だった。  それなのに、更にその後、ある別の一つの噂を聞いて、僕の気持ちは不安定になった。それは、その人が、黒いものに怯えて引きこもっている、という噂だった。真偽は分からないけれど、黒いものという言葉で、僕はそれがすぐに、自分の中にあったものだと分かった。そしてそんな具体的な言葉が出てくるという事は、真相である可能性は高いのだろう。  僕の中で、再び黒いものが膨れ上がり始めた。ただ、今度の黒いものは、僕を苦しめたりはしなかった。なぜならそれは、その人に対する、自業自得だ、という嘲りや、天罰が下ったのだという喜びによるものだからだ。それが黒く感じられるのは、それが悪いものだとわかっているからだろう。これはその罪悪感による暗さなのだ。  この黒いものとどう付き合うのか。それが僕の今の課題だ。
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