ウサギとカメ

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入社して数年が経った頃、亀田が所属する部署で大きなトラブルが起きた。お得意先の会社を怒らせ、炎上し、ちょっとやそっとじゃその火は消えそうになかった。誰かが責任を取らなければいけないのは当然であり、それが立場の弱い亀田に押し付けられたのも仕方がないことなのかもしれない。 それが、彼の責任ではないことは、違う部署の俺ですら明らかに分かったが、そのことに対して文句を言える人間は、俺を含めてこの会社に誰もいなかった。 「異動することになったよ」 自動販売機の前で会った亀田は、微笑みながら、そう言った。その目にいつもの強さはなく、悲しい色をしていた。 「異動?」 彼はゆっくりとうなずく。 「うん。お客様相談室、だって」 俺は言葉を失った。お客様相談室、それは、この会社の「墓場」と呼ばれるところであり、仕事ができない人間や、不祥事を起こした人間が行くところだ。罪のない彼は、失敗の責任を押しつけられただけでなく、墓場送りとなったのだ。 「おい、亀田」 俺の言葉に、「うん?」ととぼけたような声を出す。 「この会社を辞めろ」 しばらく沈黙が続く。亀田の視線が、わずかに下を向く。 「この会社にいても、お前に未来はない。よそに行け」 亀田は入社してすぐの頃こそ上司に怒られてばかりだったが、地道に成果を出し、最近では部署内でも頼られる人間になっていた。そんな人間が、窓際社員の成れの果てみたいな部署に行くことは、間違っている。 「僕はこの会社に恩がある。だから、辞めないよ」 彼はまっすぐにこちらを見る。その視線の強さに、俺はひるむ。 この男はどこまでバカなんだ。自分を貶めた会社に恩があるだなんて、とても言えることじゃない。 「俺は知ってるぞ。お前の仕事の丁寧さも、真面目さもな。こんな会社から出て、輝ける場所に行け。負けっぱなしの人生は、もういいだろ」 語気が強くなっていることに気付いたが、止められなかった。心臓が、いつもより大きく鼓動している。 「ありがとう。でもね、僕はやめないよ。確かに僕は、負けっぱなしの人生だし、ここにいたら負け続けるかもしれない」 でもね。亀田は、ニッと笑ってこう言った。 「何に負けたとしても、僕は自分にだけは負けないよ」 俺はもう、何も言うことができなかった。
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