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翌日。持ってきたと思っていたペンケースを教室に忘れてきてしまったらしい。不気味な感覚にとらわれながら、私は急いで教室に取りにいく。
誰もいない、と思っていた教室に一つの影があった。
「夕凪くん……」
どうして、と考える間もなく私のペンケースは彼の机の上に置かれていた。いつの間に紛失している奇妙な出来事はいまだ繰り返されたままだ。私が信じられない光景に固まって動けないでいると、夕凪くんは私の方へと振り返る。
「どういうこと」
「なにが?」
「また俺の机の上に西野さんのペンケースがあった。西野さん、置いた?」
私は間違いなく、置いていない。ふたたび見えぬ何かの糸を感じる、心臓が凍る思いだった。どうして……と思うがそれは声にならず、とにかくペンケースを受け取りに夕凪くんへと近寄る。どう誤魔化そうかと思ったが、素直に申し出ようと試みた。
「本当に知らないの。ここ最近、こういう変なことばかりあって」
そこまでいうと突如、真横から伸びてきた腕に絡みとられ大きくよろめく。何が起こったかわからないままに、教室の壁が私の背に当たる。両手を壁に押し付けられ、不意に上を見上げた。
「ゆ、夕凪くん……?」
「こういうことをするなら、なんで昨日、俺じゃなくてアイツを選んだの? それも西野さんなりのアプローチ方法ってこと?」
「違うわ! 夕凪くんのこと好きじゃない、ってきちんと伝えたじゃない……どうしてそうなるの⁉」
差し込んだ影が私の顔にかかる。
「そう、そうだったね。昨日いってた……西野さんは好きな人がいるんだっけ……? でも、それすらもよくわからなくなってきたな。もし本当だったら、俺がちょっと自意識過剰すぎたかもしれない」
自虐的に笑う夕凪くんをまじまじと眺める。「でもそうなら」と端正な顔が近づいてくる。逃れようと顔を背けると、今度は耳たぶに触れるように唇が当てられた。
「西野さんは俺のことが嫌いなんだ。なんだろう、今……すごく傷ついたよ。……俺は西野さんが好きかもしれないのに」
その言葉は脳に溶け込み、全身に駆け巡った。かあっと私の身体ごと熱くなる。私は目を背けたまま続けた。
「……嫌いじゃなくて、異性としてみていない、っていいたいだけ。夕凪くんが傷つくことなんてないよ。それに、おかしいよ。どうして急に私のこと好きなんて――……」
「その好きな人、って昨日の山田?」
話が遮られ、言葉に詰まる。好きな人がいることは――つい口にしてしまった嘘だけれども、今の状況では否定しづらい。
「……そもそも、夕凪くんは女嫌いじゃなかったの?」
「俺もそう思っていたけど……昨日、山田と一緒に行く姿を見てから、そうじゃないかもって」
耳たぶを甘く噛まれ、私は声にならない悲鳴をあげる。思わず顔を夕凪くんの方へと向けた。じっと私を見つめる夕凪くんは、とても愉しそうな表情をしている。
「……ねえ、西野さん。俺と付き合おうか」
「やめておく」
即座に否定すると、夕凪くんはより低い口調へと転じた。
「あいつ――山田がそんなに気になる? あいつがいるから俺と付き合えないってこと?」
「違うわ! 山田くんは関係ない」
焦りが募り、そこまでいったところで廊下側から「山田!」と誰かが呼ぶ声が聞こえた。ドアにはめられた小さな窓から覗き見ると、そこには山田くんがいた。なんてタイミングでいるのだろう。偶然というか奇跡に近い感じは、やはりその『赤い糸』の効果なのだろうか。彼は教室内にいる私たちにまだ気づいていないが、もし叫んで私たちに気づいたらこの状況を打破してくれるかもしれない。その赤い糸の力とやらで。
ほっと息をつき、「山田くん」とそう叫ぼうか、と思った時のことだ。
「んっ……⁉」
とつぜん唇が奪われる。軽く優しく触れるようだった唇が離れ、理解できずに言葉を失った。夕凪くん何を、といおうとすると再び今度は深く口づけをされる。
心臓が強く脈打ち、ぞわりと粟立ちとたんに息が苦しくなる。言葉を発しようとするたびに何度も深く口づけをされ、意識が遠のく。ようやく離れたと思った時には山田くんの姿はどこにも見えなかった。
「――西野さん、俺より山田の方が好きだってこと?」
涙を浮かべ肩で荒い息をしていた私は、とにかく息を整えるのに必死だ。そういわれるものの、夕凪くんの顔をしっかりと見ることができない。
「どっち?」
視線を下に向けたままで私は首をなんとか横に振る。このままでは頭がおかしくなりそうだ。
「それなら別にいいじゃない。じゃあ、俺以外の男がこの世からいなくなれば付き合ってもいいってこと?」
「なにが……、なんでそうなるの……」
ぼんやりとした私の首元に唇が落とされる。なにも声にならず、避けるために動くと今度は甘噛みへと変わる。そうして、一噛みした夕凪くんは嗜虐的に笑った。
「真由、って呼んでいい?」
嫌だ、といおうとすると再び深く口づけをされる。まるで話を聞いてくれていない。否定の言葉をきこうともしない。ようやく離してくれたが、拒否は許さないとばかりに親指を私の唇に強く押し当ててきた。
「呼ばせないなら、許可をくれるまでずっとキスするけど? ねえ、真由。俺たちは付き合ってる、ってことでいいよね?」
その言葉に、こくこくと私は頷くしかなかった。昼休憩の終わりを告げる予鈴が鳴った。もうすぐ授業が始まる――助かった、これで解放される。夕凪くんは私の目元の涙をぬぐい、また一度だけ確認するようにキスをした。
「じゃあ一緒に行こうか、真由」
耳元で甘く優しく名前を呼ばれ、身じろぎをする。
どうして、どうしてこうなってしまったのだろう。本当にそんなつもりではなかったのに。私はどこで間違ったのだろう。二人で遅れて授業を出たことによって、私たちはクラスメイトたちに冷やかされる結果となった。
家に帰り、アプリを起動する。注意事項を再び読み直した。赤い糸の相手がすでにそばにいれば、黒い糸の相手は手出しができなくなり――……?
文字をさらに読み直す。
ただし黒い糸の相手の興味を一度でも引いてしまうと、そのまま相手の黒い糸があなたと相手に絡まりあいます……
そして、この続きの注意事項が増えていた。この間の確認時には、この言葉はなかったハズだ。なんで今頃になって。
『引けば引くほどに深くて濃い黒の糸は変貌し、絡まり合いその黒い糸は切れることは二度とありません。無理に切ろうとすれば黒い糸はあなたの首へと絡まります』
ここまで読み終わり私の手からスマホがすべり落ちる。遅かったのかもしれない、かえって私の行動はすべて夕凪くんの気を引いてしまったのかもしれない。深くて重い濃厚な愛情、そしてなによりもとても強く黒い糸で縛り付けられているような。
夕焼けの部屋でひとり、私はアプリを起動して、決定ボタンを押してみた。画面に表示される、それは想像通りの結果だった。
『赤い糸の相手はいません』と。
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