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「なあ、悠。もうギターは弾かないのか」
「あー…そういえば…」
「俺結構好きだったんだよな、お前の演奏聞くの。お隣さんももうとっくに避難したんだろ、確か」
「お隣さんどころかこのマンションの人全部出ていったけどな…どっこいしょ」
出ていったところで避難先に食糧も、居場所もあるのかわからないのに。
それでも人間は普通ならば助かりたい、と思うのが普通だろう。
あんな世界を断絶するかのような黒に染まった後、自分の意識はどうなるのだとか、そもそも自我を保っていられるのだろうかとか、守るべき人や、幼い子供がいるならば尚更の事。
「久しぶりだから…笑うなよ、トチっても」
クローゼットの手前に置かれていたギター。
埃はそれほど被っていなかった。
誇りはあるのだ、これでも。
「笑うわけないだろ、聞かせてくれよ」
趣味でギターを弾き始めたのは高校生の頃だった。
きっかけはよくある、格好良さへの憧れだったけれどもそれは案外長く続いた。
大学生になって一人暮らしを始めるにあたって、周りの騒音として迷惑にならないか不安でなかなか弾ける機会は無かったけれども、長く続いた趣味というのは自分の心の中で大きな支えとなっていたのだ。
「悠、やっぱギターでやっていけば良かったのに。折角綺麗な目してんのにさ」
「何お前、口説いてる?」
「ちげぇよ、その長い前髪切れって言いたいんだよ。お前のツラならバズるだろ、それか俺がバズらせてやればよかった?」
拓人は一般的にいうイケメンだった。
僕は微塵も興味がわかなかった動画配信のSNSだって、おすすめ欄に彼が出てくるほどなのだ。
やることなす事全部が流行って、色んな広告の案件をもらい、色んな音楽に合わせて踊ったり商品の紹介をしたりする…
それがどれほどすごいことかを熱弁されたことは一度や二度ではなかったけど、僕の友達がみんなから好かれているというのはなんとなく気持ちがいいと思った。
「バカ言え、もう遅いよ…」
静かな音色が流れていく。
拓人は微笑んで、弾き終わるまでそれ以上言葉を発さなかった。
彼と友達になったのは確か高校生の頃だったように思う、あの頃の彼はまだ黒髪だった。
それが今では青になって、緑っぽくなって、染め直そうと考えていたところにこんなことになって。
拓人曰く、通っていた美容室の担当の人はとっくにいなくなっていたのだと。
劇的な青色に染まった時はそりゃもう驚いたのだけれど、少し色落ちした青は空の色によく似ていて、僕は好きだ。
「なぁ、悠は家族のとこにいかないのか」
「今更帰ったって、邪魔になるだけだろ」
拓人から氷の入った麦茶のコップを手渡され中身を飲み干す。
一人暮らしに至るまでいろんな助力はしてくれたと思うけれど、今はありがとう、その一言で片付くような間柄でもある。
「拓人は僕なんかで良かったの、お前ならもっとさ…可愛い子とか、選べたじゃん。インフルエンサー?とかなんとかなんだろ?」
「そりゃそうだけどさ、やっぱ落ち着くっていうか。気使わずに…最後の時、あーあ、終わっちゃったなってすっぱり諦められるのは…やっぱお前の隣かなって思ったわけよ」
「なんじゃそりゃ」
僕が吹き出すのと共に、からりと氷が音を立てた。
外では蝉が鳴いている。
そう言えば去年からこの夏はありえないくらいの暑さで、それはもう人が死ぬような夏で、テレビで言っていた異常気象とやらはこの殺人的な暑さのことだったのだろうかと思うほど。
こんだけ暑くなった地球を、一度やり直すためにあの黒はやってきたんじゃないかと思った。
「悠、多分さ…この家もあと二日とか、そこらへんで黒に沈んでいくよ。本当に逃げなくていいのかな、俺たち」
「逃げたって、少しばかりの絶望が伸びるだけだ」
「ははっ、お前やっぱり才能あるよ、俺がプロデュースしてやれば良かった」
そう言って拓人は笑っていたけれど、その目が悲しみに沈んでいるのを僕は見逃さなかった。
だからと言って抱きしめるのもなんだか違う気がして、彼をじっと見つめた。
すっかり誰もいなくなってしまったこの世界で、残りの食糧があとわずかなのも、黒が訪れなくたって自分たちに残された時間はもうあと少しな事も。
拓人も僕も、馬鹿じゃないからわかっているんだ。
「悠」
「何さ」
「普通にいけば夜寝て、明日が来てさ。…でもそんなの来なくたっていいと思うんだよ、俺。今ここでお前と終われたら、って思うんだ」
「拓人らしくないな」
「怖いんだよ」
窓を背にした拓人の、空のような髪の毛の青が、少し透けた向こうからきらりと光った太陽の光で輝いていた。
彼は万人に好かれた。
そして誰からも疎まれた。
軽々しく振る舞って、最後の時を隣で過ごさせてくれる人間なんて、最早僕しかいなかったのかもしれない。
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