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夫は今日、帰りが深夜になるかもしれないと言っていた。自社サーバーで大規模なトラブルが発生し、エンジニア総出で対応に当たっているらしい。
システムエンジニアと言う仕事も大変だ。ひょっとしたら帰れないかもしれないので、その場合は翌朝の娘の送迎も君にに頼まなければならない、と申し訳なさそうに電話で言っていた。仕事ならば仕方ないことである。共働きとはいえ、私の方は時短のパート。シフト制だし、こちらの方が自由がきく立場なのは確かなのだから。
何より、彼が私と娘のために頑張って働いてくれているのはわかっている。むしろ、徹夜して無茶をしないでくれるといいのだけれど、と言う方が心配だった。私は今年で三十五、夫も三十一になる。三十代はまだまだ若いというかもしれないが、人間三十路を越えると無理はできなくなるものなのだ。
「紗里ちゃん、家に帰ったらまず洗濯物畳まないといけないから、手伝ってね」
「うん!さり、せんたくものする!」
「いい子ね、ありがとう」
彼女の手を握って、一緒に駅の方へと向かう。途中、スーパーで総菜と牛乳、卵だけは買った。夫が今日、晩御飯はいらないと言ってきている。二人しかいないなら、わざわざ料理を作るほどのこともないだろう。
「そういえば、紗里ちゃん」
夕焼けに染まった、線路沿いの道を歩いていく。フェンスの向こう、電車が通り過ぎたところで娘に声をかけた。
「紗里ちゃんって、雨は好き?」
「う、う?」
「ママはね、あんまり雨が好きじゃないのよね。洗濯物をお外に干していけなくなるし……雨が降っていると、気持ちが暗くなっちゃうような気がして。紗里ちゃんは、雨が降っていても元気?」
「うん、さりはあめふってても、げんき!はれがすきだけど、あめもきらいじゃないよ。あめふってたら、おへやでリオちゃんたちとおえかきするもん」
「そう、賢いのね」
雨が降っていたら、外で遊ぶことはできない。それでも我儘言うことなく、部屋でできる遊びをする。そう言う風に柔軟に考えられるようになったのは素晴らしいことだろう。少なくとも去年か一昨年までの彼女ならば、雨だろうとなんだろうと外で遊ぶと騒いできかなかったはずだ。母親として、その成長にちょっぴり感動してしまう。
「今日、保育士の先生に聞いたんだけどね?」
この流れなら、尋ねても問題あるまい。
「雨といっしょにくる、っていうのはどういうことなの?何がくるの?」
「んーっと……」
彼女はまだ、あまり語彙が豊富ではない。少し悩んだ末、あのね、と続ける。
「いろんなもの」
「いろんなもの?」
「うん。ニンゲンじゃないもの。ニンゲンにみえるけど、ニンゲンじゃないの。トリにみててもトリじゃないし、わんこにみえてもわんこじゃないの。あのね、よくわかんないものがね、いっぱいあめといっしょにくるんだけどね。そういうのは、みんなにまぎれるために、ニンゲンやトリのふりをするんだよ」
雨に紛れて、やってくるもの。
多分、その正体が何なのかは、彼女にもわかっていないのだろう。ただ。
「そういうの、さりにはみえるけど、ママやパパにはみえないみたい。でもね」
彼女は特に不安そうでも、怖がる様子もなく。あっけらかんと言ったのだった。
「あめがあがったら、ママにもみえるかも」
「……そ、そうなんだ」
雨が上がったら、何が見えるというのか。なんだか不気味だった。彼女の言うこと全てを鵜呑みにしているつもりもないが、完全否定もできないから困っているというのが現状なのだ。
というのも、私は幼い頃からお化けの類が大嫌いだった。娘の手前、遊園地のお化け屋敷に入りたくないと言えなくて何度頭を抱えたか。
――多分、大したことじゃないわ、きっとそうよ。
私はスーパーの袋を抱え直して思ったのだった。
そう、夜。彼女がリビングで一人ソファーに座り、窓の方をじっと見ていた時も。
「あめといっしょに、くるって」
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