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雨は早く上がる。娘の予言は本当だったらしい。
この時私は、娘が言っていた“雨上がりに何が起きるのか”と言う話をすっかり忘れていた。鞄と犬のリードをひっつかみ、職場をあとにする。
「わうわう、わうわう!」
「ああもう、待っててって!」
娘に会いたくて仕方ないらしい愛犬は、ワウワウと吠えながら走っていく。保育園は、私の家の職場から極めて近い場所にある。今思うと、職場から徒歩圏内の位置の保育園に入れて貰えたのは極めて幸運だったと言える。
「紗里ちゃん、迎えにきたわよ!」
私の言葉は、犬の吠える声にかき消された。灰色の犬が、既に靴を履いて待っていた娘にとびつく。犬の背を撫でながら、彼女は私を見た。
「わんわん」
「そうね、わんわんと一緒にお迎えよ」
「うん」
彼女は何故か私を見、犬を見て少し首を傾げていた。しかし、私が行きましょう、と言うと大人しく頷いてついてくる。今日は、夫も九時頃には帰れると言っていた。システムトラブルに区切りがついたということらしい。
右手に娘、左手にリードを握って駅に向かって歩く。雨上がりの爽やかな夕方の風。雨が降ったせいか、昨日に比べるとだいぶ涼しい。水たまりを踏みながら、商店街を歩いていく。
「ママ」
彼女は少し困ったように私に告げた。
「わんわん」
「そうね、わんわんね。わんわんがどうかした?」
「……わんわん」
なんて言ったらいいのかわからない。そういう様子で、彼女はひたすらわんわん、わんわんと繰り返した。
Suicaにチャージをして、改札を通り、最寄り駅まで行く。改札を出たところでついに、娘が足を止めて歩くのを拒否し始めた。
「やっぱりだめ」
一体、何が不安なのだろう。犬はどんどん先に行きたがっている。引っ張られるリードをどうにか握り続けながら、私は紗里を叱った。
「こら、変なところで立ち止まらないの!迷惑でしょう?」
娘は泣きだした。泣きながら、はっきりとこう言ったのだ。
「うち、ぺっとかえない!ママいってた、いってたもん!」
リードを、離していた。
ずっと引っ張っていた犬が急に足を止めて、じっとこちらを振り返ってくる。
そうだ、どうしておかしいと思わなかったのか。うちは、ペット禁止のマンション。犬なって飼っていたはずがない。
そもそも雨が上がる前、職場に向かうまで、私は犬なんて連れていなかった。犬はいつ、どうやって、私の意識の中に入り込んできたのか。犬を連れて電車に乗った時さえ、違和感を覚えないなんて、そんなこと。
「ちくしょう」
灰色の、名前もわからない犬は、真っ黒な眼で言ったのだった。
「あと少しだったってのに」
結局、あれがなんだったのかは今でもわからない。
ただ、今でも雨が上がった時には、“ナニカ”が増えていないか気にするようにはしている。
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