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切り立った崖の上、柔らかな甘さを含んだ華風の中。飴色の星々がほんのりと微睡み始める午前2時ごろ。誰にとも無く、ただ、一人。静かに唄う声が響き渡る――
――――夜は白に染まり、朝焼けに星は溶けて眠る。今一度、夜の帳が降りた時、僕という星は夜に目覚める――――
一筋の光明すら差さない、純粋かつ無情な漆黒の世界の中。自分の足元すら覚束ないままに、僕はひたすら歩き続けていた。全身に纏わりつくような粘り気のある空気が、咽頭にへばり付いてむせ返るようだ。
「――――ここ、どこだよ……」
心の底から這い出したような感情の発露は、どす黒い混沌の中へと飲み込まれては露と消える。聞こえてくるのは、恐らく舗装されていないであろう大地を踏みしめる己の足音だけだった。言いようのない孤独感に苛まれながら、ただ、ひたすらに歩き続けていた。理由なんて無い。そうする以外に、できることが思いつかないから。
「誰か居ないのかな……」
黒一色の視界に一筋の湿り気が交じる。絞り出すような声は、大気に触れるより先に震えていた。もう、どれくらいの間こうしているのだろうか。虹彩が躍起になって光を取り込もうと足掻いている筈だが、その成果は一向に得られない。この世界は暗闇そのものなのではないかとすら感じられた。終幕を迎えた無人の舞台の中心に立っているようだ。このまま、永劫の孤独の中で、独り潰える日を待つことになるんだろうか。
「誰か……誰か居ませんか……ッ! だれかぁ!!」
不安と、恐怖と、焦燥と。色々な感情が胸に去来する。音も、光も、空気ですらも。その全てが、この世界に僕以外の存在が居ないことを知らせている気がした。今自分が歩いているこの道――道ですら無いかも知れないけれど――の先に、果たして光が見えてくるのだろうか。
「ハァッ……ハァッ…………!」
僕はいつしか走り出していた。先へ、ただひたすらに先へ。ここはどこなのか。何故自分はこんな所にいるのか。これから自分はどうなってしまうのか。何も解らないが、しかし。立ち止まることのほうが怖かった。僕が歩んできたこの道の背後から、得も言われぬ異形のナニかが、獲物を追い立てるジャッカルの如く駆け寄ってきている気がしたから。
「ハァッ……ハァッ…………」
鼓動は弾み、息は切れ、足は鈍り、汗が滴る。どんなに前に進もうとしていても、どんなにこの世界から逃げ出そうとしていても、その全てがまるで無駄なのではないか、そう感じずには居られない。純粋無垢な黒の中で、私欲に塗れ藻掻き足掻いている僕という存在そのものこそが、この場において不純な気がした。
「誰か、助けて……怖いよ…………!」
いっそこのまま、黒く塗りつぶされて溶けてしまえたら。恐れも、焦りも、悲しみも、孤独も、何もかも。全部夜に消えてしまったのなら、どれだけ楽になれるんだろうか。そう、思った時だった。
「つかまって?」
ふわり、と。小さくて、けれど力強く。肉体的にも精神的にも疲弊し切って震える体が持ち上げられた。見渡す限りの漆黒から目を背け、意味もなく瞼を閉じていた僕は、自分が手を握られて居ることに、一瞬気づくことができなかった。迷子の子供を優しく先導するように。悪夢に魘される病人をそっと励ますように。誰かが、僕の手を引いてくれている。
「だいじょうぶ?」
澄み渡った水晶にあどけなさを混ぜ合わせた様な声は、体と心が上げる悲鳴を優しく飲み込んで鎮めてくれるようだった。恐る恐る、瞳の帳を持ち上げた僕が目撃したのは、ただ黒に染まった世界の中に浮かぶ少女の姿だった。薄緑色の入院着に似た装束を纏い、長く伸ばした黒髪の合間から、すみれ色の瞳をパチリと開いて僕のことを見上げている。
「あれ? 聞こえるかな? だいじょーぶー?」
突然のことに呆けている僕が、声が聞こえていないのだと勘違いしたのだろうか。両の手を口元に当てて小さなメガホンを作り、幼さを滲ませるあどけない声をわざとらしく間延びさせて訴えかけてきた。「あぁ、えっと……聞こえてるよ、大丈夫……」と、状況を飲み込めないが故に歯切れの悪い返事になってしまう。
「んっ、そかそか。それなら良かった!」
少女は未だに僕の手を引いてくれている。不安定で不揃いだった歩幅が、先導者のお陰で少しずつ、地に足を付けられているような心持ちで――――
「ッ!? そ、空!? う、浮いて……ッ!?」
様々な恐怖心から開放された自由な心で辺りを見渡してみて、気がついた。ほんのりと、世界に輪郭が齎されていることに。天を劈くような針葉樹のシルエットの群れが。荒々しくも雄々しい無数のクレバスに流れる墨色の液体が。どこかで見たことが有るようで、どこにも存在しないような、空想的で御伽チックな建造物群が。僕と少女の“足元”に、どこまでも広がっているのが見えた。
「落ちっ……えっ……なにっ――」
人の声とぬくもりに、落ち着き始めた心臓が暴れ始める。未だ握られたままの手に力が籠もる。必死に足を動かして存在しない大地を蹴ろうとする僕は、夢幻の力を失った天馬のように惨めで不格好だっただろうか。
「くすっ……ふふふっ、あははは!」
少女は、けらけらと鈴を転がしながら、空いている手を僕の腰元に回してその体温を伝えてくる。焦燥感に冷え固まった体は、少女から与えられた灯火で再び緩やかに溶かされていく。
「だいじょうぶ! 落ち着いて?」
スーハー、スーハー、と。大げさなくらいの深呼吸のジェスチャーを僕に見せてくる。釣られるように、僕も大きく息を吸っては吐いてを繰り返した。静寂の中に漂うひんやりとした空気を取り込み、肺に溜まっていた空気を世界に送り出す。
少女に促されるままに、ゆっくりと右足を踏み出す。両親に見守られながら、必死につかまり立ちをする幼児の心持ちがよくわかった。なにもないはずの空間から、僕の右足はしっかりとした感触を受け止める。おっかなびっくりなのはそのままに、今度は左足を、そうして、更に右足を――――気がつけば、虚空を歩むことへの違和感は拭われていた。幾分冷静さを取り戻した頭に、幾つかの疑問がぽつぽつと浮かび上がる。
「えっと…………キミは誰?」
それから、僕と美星(みほし)ちゃんは『ヨルの国』を歩いて回っていた。空を歩いて渡れる僕たちは、この広い世界のどこにだって行けるようだった。美星ちゃんは「陽(よう)介(すけ)を案内してあげる!」と意気込んで、僕の手を引き駆け出した。その足取りは水面を滑る白鳥のように軽く、その笑みはハロウィンのかぼちゃみたいに悪戯っぽかった。
東に位置する広大で艶やかな森林には、綺麗な毛並みを持った動物たちが暮らすケナの町がある。後ろ足で立ち、前足を器用に扱ってカバンを手にし、人間のように歩いて居る彼らはとても友好的で、カロの実を幾つか分けてもらった。彼らにとっては大層なごちそうらしく、たっぷりと詰まった果汁は柑橘のように爽やかで、果肉はクルミのようにほろほろと割れる様だった。
南に向かえば、光沢の有る墨色の海がどこまでも広がっていた。美星ちゃんは慣れたように、砂浜から真直ぐ歩みを進めてその身を沈めていく。当然、その手を引かれる僕もまた、同じ様にズブズブと波打つ液状の夜に飲み込まれていった。必死になって息を止めている僕を、案内人はけらけらと笑いながら深呼吸してみせた。自分が呼吸できることに気がついたのは、それからしばらく経ってからだった。
海の中には、淡く発光する巻き貝の様な物質で造られたウルムの城下町があった。体長は有に10mを超える青膚のサメ王が城下町を守っていて、時折海流を超えてやってくるタコ足の侵略者に手を焼いているという話を聞かせてくれた。彼らのために何かしてみたくなった僕と美星ちゃんは、侵略者と対峙する赤膚のサメ王子と協力して、大きな二枚貝の砦を岩礁に作ってみせた。海流が変化した影響もあり、侵略者達が城下町までたどり着くことは無くなった。
海から上がり、濡れた体を乾かそうと、僕たちは西方の乾燥地帯を訪れた。カラリとしたつむじ風がびゅぅびゅぅと吹くこの地には、ガイナと呼ばれる移動集落がいくつも点在しているらしい。浅黒い肌と屈強な筋肉を持ち合わせた彼らは、自分たちのガイナを守るために、他のそれらとは基本的に接触を避ける傾向があるそうだ。空気の乾いたこの土地では、飲み水を求めた諍いが後を耐えないらしい。
僕たちが訪れたガイナでは、深刻な水不足に頭を悩ませていた。近場には水が滾々と湧き出すオアシスが有るらしいのだが、巨大な竜巻が発生して近づけなくなったのだという。これを聞いた美星ちゃんが意気揚々と飛び出し、竜巻に巻き上げられたときは流石に肝を冷やした。大慌てで枯れた空に駆け出して、嵐の中を漂う彼女の手を捕まえると、僕が自力で飛んだことを、ただただ喜んでいた。彼女に手を引かれずに、自分の意志で、自分の力だけで空へと駆け出したのは、このときが初めてだった。
なんとかオアシスにたどり着いた僕たちは、預かった容器に目一杯の水を蓄えた。明るい薄紅色の水を一口含んでみると、ほんのりとした渋みの内に、柔らかい甘さを残した、上等な玉露のような味が舌に広がった。僕たちはお互いに両手いっぱいの容器を抱えて空を歩き、幾つものガイナに水を配って回った。水不足に苦しんでいるのは、最初に訪れた地だけではなかった。困った時にはお互いに助け合える可能性に、各地のガイナ首長達は辿り着けるだろうか。
あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。ヨルの国を観光した僕たちは、最後に遥か北のヴルールキ山の頂きを訪れた。専門家ではないが、標高は実に1万mはくだらない気がする。どこまでも雄大な青白い霊峰からは、はっきりと輪郭を顕にしたヨルの国の隅から隅までを、ひと目で見渡せるような気分だった。僕と美星ちゃんは、ほんのりと温かい淡雪の絨毯に二人並んで腰を下ろし、どこまでも広がる漆黒の空に煌めく、飴色の星々を見上げていた。
「どうだった? すてきな所でしょ?」
「うん、とても。不思議な世界だね、ヨルの国は。」
「そうなの? 私はずぅっとここに居るから、不思議なのかどうかは、良くわからないや」
「うーん、僕が知ってる世界とは、全然違うと思うよ」
「陽介の世界?」
「そう、僕が居た世界。その景色とは、どれもこれも、全然違う。夢と、不思議とが満ち溢れた、御伽話の中に居るみたいだ」
「そうなんだ」
「陽介は、どうしてヨルの国に来たの?」
「それは、わからないんだ。気がついたら、ここに居て」
「そうなんだ。帰りたくはないの?」
「ない、かな」
「えぇー! なんで!?」
「あんまり、いい場所じゃないから、かな」
「陽介は、ヨルの国に来る前は何をしていたの?」
「そうだなぁ、夢を見てた、かな」
「夢?」
「文章を書くのが趣味でね。ちょっとした小説をインターネットに投稿してたかな」
「すてきだね」
「ありがとう。実は、すごく熱心に読んでくれる人も居たんだ。生まれつき目が不自由な娘さんが気に入ったんだって、優しいお母さんだったんだけどね」
「読み聞かせてあげてたんだね」
「そうみたい。ただ、しばらくしてから、どれだけ新しいものを投稿しても、反応が無くなっちゃったんだ。飽きられたのかな」
「そっか」
「ねぇ、今度は陽介の世界のことも教えて?」
「まず、こんなに素敵な夢が広がっている場所ではないかな」
「そうなの?」
「そうだよ。人は空を飛べないし、海の中で息を吸うこともできない。動物とは会話なんてできないし、こんなに綺麗な夜空も」
「夜空も?」
「いや、夜空は、同じくらい綺麗だったかも」
「おんなじなのは、夜空だけ?」
「どういうこと?」
「私、聞いたことあるもん。人は空も飛べるし、海にも潜れるし、動物とだって仲良くお喋りできるって」
「まぁ、見方を変えればそうかも知れないけどさ。飛行機っていう鉄の塊に乗り込んだら空は飛べるし、潜水服を着れば海の底だって潜れるけど。動物にも、愛情を注いで一緒に過ごすことも珍しくはない、かも」
「うーん? お母さんから聞いたのとはちょっと違うなぁ」
「お母さんから? そういえば、美星ちゃんはここで一人暮らししてるの?」
「そうだよ。お母さんたちは、違う世界にいるの」
「それは」
「あははっ、気にしないで? 説明するのはちょっと難しいけど」
「うーん?」
「あのね、陽介に一つだけお願いがあるんだ」
「いいよ。僕にできることなら、だけど。こんなに素敵な世界を案内してもらったんだもの。なにかお返しがしたい」
「ほんと? それじゃあね」
「代わりに行ってきてほしい場所があるの」
僕は、美星ちゃんに手を引かれるがまま歩き続けた。優雅な曲線を描く鈍色の谷底を。幾重にも並び立つ荘厳な濃紺色の針葉樹林の中を。増水し激しくうねる唐竹色の濁流の脇を。ベタリ、と。些か気味の悪い感触が足裏に伝わってきた。気づけば、ありとあらゆる全ての輪郭が溶け落ち、純粋無垢な混沌の黒が纏わりついてくる。僕はこの感覚に覚えがあった。ヨルの国に迷い込んだその時に、僕が彷徨っていた、あの暗闇だ。
「美星ちゃん……?」
たまらず、僕は彼女の名を呼んでいた。胸がキリキリと締め付けられていくような、この感覚。何故だろうか。僕はこの痛みを知っている。そんな気がした。
「だいじょうぶ」
震え始めそうになる僕の手に、ほんの少しだけ、優しい力が添えられる。それだけで、全身を包み込むような気だるい悪寒が抜け落ちていく。あのときとは違う、確かなぬくもりが其処にある。誰かが、側に居てくれる。それが、たまらなく嬉しいことだと感じた。
やがて、僕を先導する少女の歩みが止まる。遥か天を仰ぐ彼女の横顔は、墨を滲ませた描画版の上に写し取られた、精巧な人形を思わせた。
「ここだよ。この上にある景色を見てきてほしいの」
何も、見えなかった。彼女の視線を追いかけてみても。其処に有るのは、純粋な闇の塊だ。ズキリ、と。脳の裏側から、心の奥底から、強烈な不快感を滲ませる痛みが駆け抜ける。小さく呻き、震えだす全身を抱え、膝を折り、打ちのめされた赤子のように、蹲ることしかできなくなる。
「いや、だ…………だって、この先、は」
僕の中に、存在しないはずの記憶が過る。否、忘れようとしていた記憶、という方が正しいだろうか。遥か先の大陸まで見渡せるような絶景の空の下、僕の世界を愛してくれた、名もなき小さな墓標に愚かしい懺悔を交わしていた。そうだよ、僕は、たしか――――
「こわい?」
「こわいよ、独りになるのは」
「独りじゃないよ?」
「どういう、こと?」
「『僕は、自分が見たものを自分の言葉で表現することが大好きだった。趣味が興じて、作家になろうと志した。でも、僕には無理だったみたいでさ。感受性が強いのは悪い点ではないが、文章としては曖昧で説得力に欠ける、コレではただの幼稚な妄想だ、なんて言われちゃって。僕の言葉なんて、僕という存在なんて、誰にも必要とされないんだろうって思えちゃったんだ』」
「えっ……それって」
「『夜は白に染まり、朝焼けに星は溶けて眠る。今一度、夜の帳が降りた時、僕という星は夜に目覚める』。私は、陽介の見る世界を、もっと聞きたい。聞かせてほしい
幼稚な妄想なんかじゃない。説得力なんて必要ない。私は、陽介が教えてくれた世界が好き。この言葉のお陰で、私は幸せなヨルに生まれることができたから
私も一緒に行く。だから、独りじゃないよ。陽が登って空が白めば、星は溶けてしまうけれど。遙か未来に、いつか必ず夜が来るから
――――つかまって?」
「いやぁ、今回もいい文章をありがとうございます、星(ほし)陽(のひ)先生! 何と言っても、この雲海を楽しげに泳ぐ少女の描写が美しい!」
「そう言っていただけると光栄です、編集長さん」
「あれから随分と経ちますが、お体の方は、もう?」
「えぇ、まぁ。お心遣い、痛み入ります」
「いえいえ、とんでもない! ところで、一つ、お伺いしても?」
「なんでしょう?」
「その、以前にもまして創造性の豊かな作風へとシフトされましたよね? あぁ、その。それが悪いわけではなく、むしろとても素晴らしい方向性だと考えております。その、良いきっかけなどがお有りだったのでしょうか?」
「そう、ですね。僕が見る世界をありのままに残したい。そう思ったんです。改名も、そう言った決意の現れですね」
「なるほど、素晴らしいお考えだと思います。先生はきっと、我々というレンズには決して覗き得ない世界をご覧でしょう。ぜひこれからも、皆にその片鱗を共有していただきたい」
「もちろん、そのつもりですよ」
切り立った崖の上、柔らかな甘さを含んだ華風の中。飴色の星々がほんのりと微睡み始める午前2時ごろ。僕は、無数に認めた草稿という名の世界を詰め込んだカバンを背に、露草でほんのりと冷ややかな青草の絨毯に一人腰掛ける。先客が備えた一輪花の花弁が一つ、キミの笑みのようにふわりと舞い上がった。
――さて、今日はどんな世界のお話をしようか――
一つ、また一つ、と。僕がこちらで見た世界を、キミに届ける。今はまだ、夜を迎えるには早すぎるけれど。いつの日か、顔を赤らめ、大地へと沈み、キミが暮らす国を訪れる日が来た時に。もう一度、僕が見てきた世界から夢見たキミが描いた無数の世界を、どこまでも、どこまでも、案内してもらうために。
――――夜は白に染まり、朝焼けに星は溶けて眠る。今一度、夜の帳が降りた時、僕という星は夜に目覚める――――
――――キミが住む、ヨルに。
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