10 ずっとずっと、自分の足先を見て歩いた

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10 ずっとずっと、自分の足先を見て歩いた

越智(おち)、ちょっと……」  支店長室の扉が薄く開き、皺深い手のひらが私を手招きしている。  二度目ともなれば、驚きも感じない。私は、隣の席の人見(ひとみ)さんから促されるより前に席を立ち、支店長室へと足を進める。  ぱたり、と音を立てて扉が閉まり、やがて、重厚な革製の椅子に腰掛けた支店長が、重い口を開いた。 「越智が、社内恋愛をしているという噂があるのだが」  できるだけ表情を動かさないようにしようと思っていた。けれど無理だった。私はほくそ笑みそうになるのを必死で堪え、意識して声を震わせた。 「そんなの、悪意のある嘘です」 「私もそう信じたいが、見たという人がいるのだよ」 「誰ですか、そんな出鱈目を言うのは」  支店長は答えない。私は全身を震わせて、落ち着きなく両手を揉んだ。眼鏡の奥で、支店長の目がすっと細まる。 「越智、悪いことは言わない。だから正直に認めなさい。今ならまだ何とかしてやれる」 「ただの誹謗中傷です」 「溝沼(みぞぬま)。チームマネージャーの溝沼紘一(こういち)。そうなのだろう?」  呼吸が止まる。意識して息を吸い込んだ途端、喉の奥で小さな笑い声が漏れそうになり、必死に押さえ込んだ。 「実のところ、これがただの社内恋愛ならば、少しくらい目を瞑ることもできる。だが、ここまで大事になっているのは溝沼が」  支店長はそこで言葉を止める。  今ならば、その先に続く言葉を想像できる。ここまで大事になっているのは、コウ君が先日籍を入れて、既婚者になったからだ。  社内恋愛禁止は単なる暗黙の了解。就業規則に明記されてはいない。けれど不倫となれば話は別だ。  沈黙の(とばり)が下りる。私は少し大袈裟過ぎるほどに動揺した仕草で躊躇を表し、支店長の顔色を窺った。  あまりの怯えように哀れみを覚えたのだろうか、支店長は少し表情を緩めた。 「心配しなくて良い。正直に言ってみなさい」 「はい。わかりました」  私は素直に頷いて、ポケットからスマホを取り出した。怪訝そうな視線が返って来る。私はスマホを操作した。 「何を」 「支店長にお聞きいただきたいんです。ずっと、恥ずかしくて、怖くて……誰にも言えなかったことです。私、脅されているんです。溝沼さんに」  スマホから、音割れした男女の声が発せられた。 『実は俺さ、越智さんのことすごく気に入ったんだけど』 『わ、私なんかのどこを』 『そういう、自己肯定感が低いところとか。何というか守ってあげたくなる』 『とにかく、だめ。やめてください……』 『俺のことが嫌?』 『そうじゃなくて』 『じゃあ良いでしょ……』  ばさり、とシーツが擦れる音がして、録音はそこで途切れる。  支店長は茫然と、震える私とスマホを見つめている。私は哀れな被害者の顔を装い言った。 「脅されたんです。この時のことを言いふらされたくなければ、誰にも何も言わず、ただ従えと」  私は決意を込めた表情で顔を上げる。 「だから、私は溝沼さんと恋愛なんてしていません。弱みを握られて、無理矢理……。写真だってあります」  見ますか? と訊けば、私以上に蒼白な顔をした支店長は首を横に振り、革の椅子に沈み込んで額を抱えた。 「もうわかった。結構だ。辛いことを話させてすまなかった。あとは溝沼から話を聞く」  私は拍子抜けする思いで、強面(こわもて)を見上げた。この人、案外騙されやすい人間だったのか。いつもは鬼の形相で支店内を闊歩しているけれど、意外と純粋で良い人で……馬鹿だ。 「仕事に戻れるか?」 「はい」  気遣わし気な声が降って来る。私は深々とお辞儀をして、俯いたまま支店長室を出る。にやけた頬を認められてしまわないように、ずっとずっと、自分の足先を見て歩いた。
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