4 わかった、そうしよう

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4 わかった、そうしよう

 その日私は、体調不良で早退を余儀なくされた。支店長室で意識を失ってしまったのだ。突然倒れた理由について、同僚の間には、営業成績の不振でひどく叱責されたことが原因だという憶測が出回ったらしい。  確かに私は営業成績万年最下位組なので、大変もっともらしい理由づけだろう。  自己嫌悪に陥り寝込んでもおかしくない衝撃的な一日だったが、粉々に砕けかけた私の心を辛うじて繋ぎ止めてくれたのは、コウ君だった。 「香苗(かなえ)、香苗!? ああ、良かった、電話が繋がって」  着信音が鳴ったので、無意識に受電ボタンを押していたらしい。平べったいスマホから、ぼやけた音声が微かに聞こえる。「香苗」と繰り返す必死な声が次第に脳内で意味をなし、私ははっとして音声をスピーカーにした。 「香苗! 倒れたって聞いたけど大丈夫? まだ具合が悪いの?」 「コウ君……」 「ああ、良かった」  半ば放心状態の私の声を耳にして、コウ君は安堵の息を吐く。呼気がマイクに吹きかけられた、ざわざわとした音が私の鼓膜を揺らす。 「香苗、今家にいるよね? とにかくすぐにそっちに行くから」  何度か瞬きをする間、頭の中を整理して、それからゆるゆると首を振る。見えるはずもないというのに。そんなことにすら気づかないほど、私の意識は朦朧としているのだろう。 「コウ君、大変だろうから来てくれなくても」 「何言っているんだ! 良いか、今から電車に乗るから。すぐに向かうから待っていて」  電話の向こう側で、駅のアナウンスが響いている。 「コウ君、仕事は」  けれどすでに電話は切れていて、私の声は、がらんとした一人暮らし用アパートの一室に虚しく反響した。  その音を追うようにして、視線を上げる。乱れることなく針を進める壁掛けの時計、その短針は七を指している。ああ、もう業後の時間だ。 「香苗、いったい何があったんだ。会社で倒れたって聞いたけど、そんなにひどく(なじ)られたの?」  ささやかな大きさのダイニングテーブルを挟んで向かい合い、私はぼんやりとした頭でコウ君の顔を眺めた。  真冬だというのに、額には汗が浮いている。息が荒い。きっと走って来てくれたのだ。 「社員をこんな目に遭わせて、これは完全にパワハラだよ。人事に訴えよう」  それはいけない。だって私は今日、営業成績のことで呼び出された訳ではないのだ。 「香苗は良い子だから、チクるような真似、気が進まないんだと思う。だけどこういうことは出るところ出ないと後々」 「違うの」  私はやっと声を出した。 「違う?」 「うん、実は、問い詰められたの。私と、コウ君の関係を」  時折言葉に詰まりながら、なんとか事情説明をすると、全身から気が抜けて眩暈を覚えた。  コウ君は、テーブルの上で指が白くなるほど固く組んだ手をじっと見つめ、やがて毅然とした態度で顔を上げる。 「皆に言おう。俺達の関係を」  私は絶句して、ただコウ君の顔をまじまじと見た。珍しく、本気で怒っているらしい。 「社内恋愛禁止は明文化されたルールじゃない。暗黙の了解なんだ。別に就業規則とかじゃないし、それならむしろもう、堂々としよう。素直で純粋な香苗にこれ以上嘘を吐かせる訳にはいかないよ」 「私のことは良いの」 「いや、そもそも、社内恋愛禁止だなんて時代遅れだ。糞食らえ」 「でも」  私は胸の奥に巣食う不安を吐き出した。 「コウ君はもうすぐ昇進なのに。私とのことがバレたら、響いちゃう」 「気にするなよそんなもの」 「気にするよ!」  自分の口から飛び出した大音量に驚きつつも、私は言い募る。 「コウ君は優秀なの。然るべき地位に就くべき人で、コウ君自身もそれを望んでいる。それなのに、私が足を引っ張ることになってしまったら、そんなの」  そんな女、コウ君に相応しくない。  たどりついた結論に、絶望が全身を支配する。一瞬にして全てを失ったかのような感覚だ。胸の奥に大きな穴が穿たれて、冷たいものが身体を通り抜けた。 「香苗」  コウ君の瞳が躊躇するように揺れ、やがて、溢れ出ようとする感情を押し隠せないといったような表情で、私の手を取った。 「香苗、君は本当に……どうしてそんなに純粋で、心が綺麗なんだ」  瞼を閉じ一頻(ひとしき)り感動を噛み締めてから、コウ君は言う。 「俺は、何よりも香苗のことが大切だ。だけど、その次に仕事も大切で。だから」  そこで言葉を止めて、意を決した様子で驚くべき言葉を紡ぎ出した。 「結婚しよう。そして、君は仕事を辞めてくれ」 「え?」 「香苗には申し訳ないと思っている。だけど、俺たちが祝福された人生を送るためには、これしかないんだ。香苗が退職すれば、俺たちの関係は社内恋愛ではなくなる。不自然に思われないようにしばらく時間を空けなくちゃいけないだろうけど、ゆくゆくは同僚にも祝福されながら結婚することができる」  苦労させないように養うから、と続けるコウ君の顔を夢見心地に見つめながら、私は思考を巡らせる。全く()ってコウ君の言う通りだ。  私は仕事やこの会社に執着がないのだし、むしろお金さえあれば辞めたいのだと、何度も何度も口にしてきた。  コウ君も、それを覚えているからこそこうした提案をしてくれているのだろう。  静かな歓喜が湧き上がる。  コウ君はいつでも私のことを理解してくれていて、私の苦しみが少ない最善の方法を提案してくれて。だから今回のことも、彼が判断を誤るはずはない。  私は頷いて、同意を示した。 「うん、わかった。そうしよう」
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