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5 壊れた人形のように放心して
「今度、ご家族への挨拶日程を決めよう。それから香苗の理想に適う式場を探すんだ。出張中は忙しくてあまり連絡できないけど、しばらくしたら……そう、年明けくらいには具体的な話ができる予定だよ」
だから少し待っていて欲しい。いつもの真摯な眼差しで、コウ君は言った。
結婚して、残りの人生の全ての時間をこの人と過ごすのだから、数週間の孤独など何ということもない。私は天にも昇る思いでプロポーズを受け入れて、いそいそと退職届を書いた。
翌朝、支店長室の机に封筒を置き、何食わない顔で日々の業務に戻る。
本当はすぐにでも辞めたいくらいだけれど、就業規則で退職は一か月以上前に申し出ることになっているのだ。
純粋で常識的な越智香苗は、そんな基本的な規則を破る人間ではない。社内恋愛禁止は暗黙の了解であり、別に就業規則に明記されてはいない。もちろん暗黙の了解に反する行為は隠すべきことだけれど、退職規定は、入社時に判を押した書類にきっちり書かれているのだから、しっかりと守らなければならないのだ。
そうして年が明け、無事に退職の日が訪れる。
気づけば、プロポーズの夜から今日まで、コウ君とはほとんど言葉を交わしていなかった。
出張が頻繁にあるようだし、多忙を極めている様子は、隣の部署ながら垣間見えた。私は良い子なのだから、そして妻になるのだから、我がままを言って困らせることはあってはならない。
だから私は待った。ひたすら待った。そうして退職から一週間経った時、何気なく開いたSNSに、目を疑うような投稿を見た。
——溝沼の結婚式、素敵だった!
アカウントの主は、大学時代の知人の兄だ。彼のことをフォローしている訳でもなく、その投稿を見つけたのは、たまたまオススメ投稿として表示されたから。
それにしても溝沼。比較的珍しい苗字だと思う。少なくとも私の人生において、溝沼姓を持つ知人はコウ君だけだ。でもまさか、コウ君のはずがない。
だって、結婚式? 私はまだ式を挙げていない。籍も入れていないし、それどころかしばらく音信普通ではないか。つまり?
じわり、と全身が汗ばんだ。
ほんの一瞬だけ脳裏を過った嫌な予感を、首を横に振り打ち消そうとした。けれど不快な汗は止まらない。私は震える指を動かして、知人の兄のSNS経由でアカウントをたどって行った。そして。
——昨日、都内の式場で結婚式を執り行いました。今日まで僕たちを見守ってくださった皆様、本当にありがとうございます。妻の恵と共に、温かく幸福な……。
アカウント名は「KOH」だった。私のアカウントからは詳細な投稿歴は見ることができないけれど、プロフィール写真はコウ君に似た横顔の男性と、ウェディングドレス姿の女性の幸せそうなツーショット。
でもこれは、コウ君のアカウントではない。だって私が知っているアカウント名は「M .KOICHI」であり、フォロワーは気心知れた友人だけだと聞いていた。「プライベートまで職場の人と繋がるのは疲れるからね。だから俺のアカウントは、家族と幼馴染と香苗にしか教えていないんだよ」と、コウ君ははにかんで言っていた。
その全てが嘘だっただなんてこと、あり得ない信じられない世界が引っ繰り返っても時空が歪んでもそのようなことが起こり得る可能性は皆無なのだけれど、でもそれならば。
手元の四角い機器に浮かび上がる幸せそうなウェディングドレス姿の女性は誰なのかいやそれよりも背が高くて人好きのする表情で幸福の絶頂にあるような横顔の彼は私が大好きなコウ君にそっくりでつまりこれは。
私はパラレルワールドに迷い込んだのだろうか、それとも。
コウ君に騙されたのだろうか。
その言葉が全身に馴染むと同時に、コウ君の言動の思惑が透けて見え始める。
私にプロポーズをしたのは、寿を理由に退職を促すためだ。退職を促したのは、社内恋愛の末の不倫を隠し通すため。私が社員でなくなってしまえば、連絡さえ絶てば縁が切れる。仮に、社内の誰かに不倫を暴露したとしても、そもそも不倫相手である私は訴えを起こす側ではなく、罪を追及される側。何よりも、「純粋な香苗」が、わざわざ退職済みの会社に乗り込んで行き、恋人を告発するなんてなりふり構わないこと、できるはずがない。
そうして手のひらで踊らされた私は愚かにも、何もかもを失ったのだ。 明日から、どうやって生きていけば良いのだろう。
全てを理解した私は、しばらく壊れた人形のように放心して、白い壁紙に走る小さな傷をぼんやりと見つめた。
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