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7 私なんて、どこにでもいる普通の人間ですよ
「香苗ちゃん、起きて起きて!」
薄っすらと目を開く。水滴やら揚げ物の滓やらが散らばる薄汚いテーブルが、妙に近い。目を動かせば、すぐそこに私の腕があり、その先には誰かが食べた枝豆の殻がこんもりとお皿に乗っていた。
「香苗ちゃん!」
肩を軽く叩かれる。元職場の先輩だ。
促されるまま、上体を起こす。どうやら、居酒屋で酔ってしまい、テーブルに突っ伏して眠っていたらしい。
「あの、私……」
「何かうなされていたけど大丈夫? 具合が悪いの?」
私は何度か瞬きをして、記憶を呼び覚ます。
つい先ほどまで、恋人に裏切られ、仕事すら失った絶望に打ちひしがれていた。けれど今、周囲で焼き鳥を頬張っているのも、ビールを飲んで顔を赤らめているのも、全員同僚だ。つまり、退職したというのは現実ではなかったのだろうか。
「人見さん、私、いつから寝てしまっていましたか? せっかくの会なのに、みなさんに失礼をしてしまって」
「何言ってんの」
大らかな笑い声が返ってくる。
「香苗ちゃんがお酒苦手なのは知っているし、別に今日は肩肘張った会じゃないんだから」
「私と人見さんと……チームのみんなでご飯、でしたっけ」
「そうだったんだけどね、香苗ちゃんが眠っている間に驚きのゲストが来てくださったんだよ」
隣の席に座る先輩、人見さんがおどけた仕草で両腕を軽く伸ばし、両手をひらひらとさせた。紹介された人物は余裕に満ちた苦笑を浮かべている。彼の、いつもと同じ、真摯な印象の黒い瞳と視線が重なった。
「コ」
思わず名前を呼びかけ、慌てて口を閉ざす。反射的に自制ができたのは、普段から職場では「溝沼さん」と呼ぶようにしていたからだ。
若干、挙動不審気味になった私に違和感を覚えた様子もなく、コウ君は目尻の皺を深めて爽やかに言った。
「越智さんだね、はじめまして。同級生と飲んでいたら、たまたま君たちの姿が見えて。お言葉に甘えてお邪魔させてもらっているんだ」
私は辛うじて挨拶を返し、閉口する。はじめまして?
それから、思い至る。この場面には、以前も出くわしたことがある。
奈落の底に突き落とされる約九か月前。何気ない飲み会の途中で、本来ならば交友を深める機会なんてないコウ君……溝沼紘一さんと出会った。
彼は隣の部署でチームリーダーを務めている。年齢は、新卒入社三年目の私の三歳上であり、将来を期待されている若手の一人だ。そんな有名人、コウ君。私は以前から彼を知っていたけれど、向こうは私のことなんて認識していなかったに違いない。
その証拠に、今のところ私に対して特別な興味はなさそうで、以前からの知り合いだという人見さんと楽し気に会話をしている。もしかすると、このまま永遠に二人の運命は交わらないのかもしれない。
では、コウ君に裏切られた時に感じた絶望は、幻覚だったのだろうか。
時が巻き戻ったにしろ、先ほどまでのコウ君との関係が夢だったにしろ、深く関わらなければ、裏切りに心打ち砕かれることも職を失うことも、きっとない。そうやって納得しようとしたのだけれど、お腹の中にじわじわと湧いて来るどす黒い何かが、「本当にそれで良いのか」と問いかけてくる気がした。
これで良い。だってこれ以上、何ができるというのか。
人見さんとコウ君がにこやかに会話を交わす様子を、現実感のない靄がかかった思考のまま目で追った。
夢か現か、判然としない。けれど、世界の終末が訪れたかのような絶望の海で溺れる私にとって、そんなものはどちらでも構わない。
ピンクのジェルネイルに飾られた人見さんの指が、ビールに伸ばされた。持ち上げたジョッキの中には、斑に泡の浮いた黄金色の液体がほんの僅かだけしか残っていない。
「あ、人見さん、メニュー見ますか?」
人見さんとコウ君は、ぴたりと会話を止めてこちらを見る。束の間、時が停止したかのような空白に、私は首を傾ける。何かおかしなことを言っただろうか。
コウ君が少し目を見開いて私に視線を注いでいる。彼の興味が初めて私に向かった瞬間だ。
「ああ、もう香苗ちゃん!」
一瞬の間が空いた後、人見さんが豪快に笑って私の手からメニューを受け取る。
「具合悪い時にまで気を遣わなくて良いのに。でもありがと」
私ははにかんで、手元に視線を落とす。
後輩なのだから、先輩には常に敬意を払い、気兼ねなく飲食できるように気遣うべきだ。私はそういうことが自然とできる、ちゃんとした若者なのだから。
「越智さんってさ」
コウ君がテーブルに腕を突いて少し身を乗り出した。私は顔を上げて、その視線を受け止めた。
「すごく良い子なんだね」
黒い瞳がいつもと同じ真摯な色を帯びている……いや、違う。これは。
——純粋ってレベルを超えてんだよな。むしろ馬鹿?
脳裏に、四角い画面の中に浮かび上がっていた悪意溢れる言葉が蘇る。全身が打たれたかのように強張り、束の間呼吸が止まる。
もう一度初対面をやり直して気づいた。コウ君は最初から、私のことを好ましく思ってなどいなかったのだ。「良い子だね」は「馬鹿だね」と同じような響きを宿していて、少し咎めるような目をした人見さんもそのことに気づいていた。それなのに、当時の私は、その言葉を素直に受け取って、静かに湧き上がる喜びに浸っていた。
コウ君の言う通りだ。
私は馬鹿。純粋も良い子も、辞書で調べれば好意的な意味を持つけれど、私に向けられればそれはもう、褒め言葉ではない。私はみんなから、軽んじられ、哀れまれている。
お腹の底に渦巻いていた黒く混濁した何かが凝固して、私の心を覆い尽くした。濃密な漆黒に包まれた私はもう、純粋な馬鹿ではない。
私は薄く唇を開き、口角を上げ、とびきりの笑顔を浮かべた。
「そんなことないです。私なんて、どこにでもいる普通の人間ですよ」
馬鹿ではない私は馬鹿を演じ、彼に復讐をする。
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