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1. いい子
りんはいい子でした。
欲しいものを言わない。
他人を傷つけることもない。
泣いている子を見ると、その子の頭を撫で笑顔になります。
りんに頭を撫でられた子は皆、つられたように笑顔になるんです。
まさやにとって、りんは特別な赤ちゃんでした。
りんが幼稚園に行くようになると、まさやは少し淋しい気持ちになりました。
赤ちゃんの頃のように抱っこして、「いい子だね」って、りんの頭を撫でてやりたかったからです。
幼稚園に行き出すと、少しわがままになるかもと思いましたが、行く時も帰る時も、りんは静かについてきました。
小学生になったりんは、少し大人になりました。
「おはようございます、父さん」
おはようございますとおやすみなさい、いただきますとごちそうさま、いってきます、ただいま帰りました。ありがとうございますとごめんなさい。
それらを忘れずに、ちゃんと言えるようになっていました。
何も教えなくても覚えていたのが驚きです。
きっと学校で教わったのでしょう。
「りん、お前は本当にいい子だね」
小五になったりんに、まさやがそう言うと、りんは右眉をくんとあげて、ありがとうございますとお辞儀しました。
赤ちゃんの頃、天使のようにかわいく大きかった瞳が、今では笑うことはありません。
「あの頃はよかったなぁ」
テーブルの上のミカンを食べながら、誰あてでもなく、まさやがつぶやきました。
目の前に座っていたりんはガタッと立ち上がり、その時、テーブルの上にあった夫婦で笑う写真たてが倒れます。その場の空気が凍りました。
「ど、うした……?」
りんは険しい顔をして、「今よりですか?」と低い声を出します。
なんのことか、喋ったことを忘れてしまったまさやに、りんは言います。
「ぼくは、まだあなたの中で赤ちゃんですか?」
何を言い出すんだ、とまさやは思いました。
「誰もそんな」
「じゃあ!」
「……お、おう?」
動揺するまさやを前に、りんは胸に手を当て叫びます。
「もう、いい子だなんて言わないでください!」
そのままドアを開けて、部屋を出ていくりん。
靴箱の音がして、そのままもう一度ドアが開く音がした。
そのあとハッとしたまさやは、りんを探しに靴だけ履いて外に出ます。
でも、探しても探してもりんが見つかりません。
へとへとになったまさやは、公園のベンチでひさびさにタバコを吸いました。
りんが生まれてから、息子のためにとやめていたのに、お守りのように、大事に持っていたからです。
タバコは元は亡き妻のものでした。
「どんなときも一本吸ったら、お前、許してくれたよなぁ……」
どんなに嫌なことがあっても、「一本だけ吸ってくるの」と言って席を外して、戻ってきたら笑顔だったのです。
思い出したら、自分がなさけなく感じて、まさやは手で顔をおおいました。
ふと視線を感じて、顔を上げると、滑り台の上からりんがまさやを見下ろしていました。
「お前!」
慌ててタバコの火を消すと、まさやはまた思い出していました。
(りんが大人になって、生意気なこと言うようになったら教えてあげて)
「ぼくよりタバコ?」
りんにそんなこと言われるとは思わず、自分はりんのなにを見ていたんだと思いました。
きっと、どんなにストレスをためても我慢してきたんだ。
テーブルの上にいつも、幸せそうな笑顔の妻の写真を置いていたから。
「お前のせいじゃない!」
「……なにがですか?」
まさやはなんて返せばいいかわからず、戸惑う。
「ひなが死んだのは……お前のせいじゃない」
そう言って、まさやはりんから目を逸らしてしまう。
「いい機会なので教えてください」
「……なにを?」
不愉快そうに笑って、睨んでくるりんに、まさやはどうしていいかわからない。
「母さんが、どうして死んだかです」
その時、ポトリとタバコが地面に落ちたので、慌ててまさやはそれを拾いました。
「ひなは……」
その続きを言おうとして、唇が震えます。
「……母さんは?」
「お前の笑顔を守りたかった……って」
まさやは外した視線をりんに戻し、呆然とした。
「りん……?」
そこには泣いているりんがいたからだ。
そして、それに気づいていないようで、まさやの驚く顔を見て、ようやく頬を伝う涙に触れる。
「ざまあみろ」
りんからそんな言葉が出てくるとは思わなくて、まさやは口をぱくぱくした。
「ぼくがいい子だなんて言うからです。ぼくはずっと、笑顔の母さんを見ていたから、それを真似してただけ……」
「りん……」
「いい子じゃなきゃ見てくれないなら、ぼくはいらない」
「なにを……」
「ぼくは欠けているから、父さんは母さんも……いらないんですよね?」
答えられないまさやから目を逸らすと、りんは滑り台の上から強引に飛び降りた。
そのあとよろけたりんを支えようと近寄ったまさやだったが、それを睨まれて身がすくむ。
「ぼくの命で母さんが蘇ればいいのに」
体が動いて、パンッとりんの頬を叩いた。
叩いてしまったあと、まさやは震える瞳で言った。
「お前が苦しんでいるのはわかる。苦しんできたのもわかった。でもな、お前にそんなことを言われるために、俺は育てたんじゃない!」
「じゃあ、なんだって言うんですか?」
「……それは」
すぐに答えられない。そんな自分を、まさやは悔しく思う。
『もう、仕方ないの』
その時、ほわんと優しく包まれた気がした。
でも、その包まれた部分が、ひんやりする。
「母さん……」
「え、え……?」
見えないが、ひんやりとした感覚をまさやは肩に感じた。
『りんはひとりで強くなったんじゃないの。私がずっと見て、育ててきたの』
だから、とひなは続ける。
「え、じゃあ……」
『子供は子供らしくあるべきなの。子供の時だからこそ出来る遊びも、友達もいるんだと思うの』
「それは……」
『なのにまさやくん、「いい子」だって、勝手に思って、放っておいたでしょ。そういうのが少しずつでも、子供は感じるし、淋しい気持ちにもなるの!』
まさやは後悔した。
手のかからない子供なのをいいことに、仕事を増やしたり、書置きとチンするためのご飯、この繰り返しが、きっとりんを傷つけていたんだって。
「……ごめん、りん」
「ぼくは許さない」
頬を撫でようとしたまさやの手を振り払ったりん。
『りんー!』
ひなの声が、りんの方に歩み寄っていく。
「ところで」
『なに……?』
「なんでお前生きて」
『生きて見えるの?』
まさやは首を振った。
「声だけ」
『だよねぇ』
「なんで、どうなって……」
『私が死んだら、りんに移植してって言ったでしょ? 臓器。その時、りんに見えるようになっちゃったみたいなの』
「あ、あー……」
『でも、安心して』
「なにをだ」
「母さん!?」
『透けていってるみたい。私、今度こそ死ぬのかも』
「なんで!」
りんの悲痛な叫び。
まさやは動揺で、その言葉すら出なかったのに。
『これからはね、お互いを勝手に想像せずに、ひとつひとつちゃんと説明して、お互いを支え合って、愛していってなの。歩みよってなの。大切にしてほしいの……』
「でも……」
りんは首を振り、後からまさやも首を振る。
『生きている人は、きっと強くなれるの……。優しくなれるの。ひとりじゃないから』
それきり、ひなの声はなくなって、りんはその場に崩れ落ちた。
それはまるで、赤ん坊の産声のようだとまさやは思った。
ずっと辛かったんだ。りんは。
子供なのに大人扱いされて。
放置されて。
お前はいい子だって、くくりつけられて。
「りん」
りんの肩をつかみ、じっと見つめる。
「……なんですか」
「子供でいい」
「なにを、今さら……」
まさやはりんを胸に抱き寄せた。
「お前がどんな風に変わったっていい。俺は」
「……」
体を離したまさやは、りんの目をちゃんと見た。
「お前をちゃんと見てるから」
顔を赤らめたりんが、目を逸らして、ぼそぼそと呟く。
「ん?」
「じゃあ、悪い子になります」
「いいぞ」
「……なんで……」
「今までは俺が悪い子だった。すまん! ほんと、ごめんな」
「……う」
わしゃわしゃわしゃとりんの少し長い髪をかき混ぜると、まさやは笑った。
それは、ずっとりんがしてきたような偽りの笑顔じゃない。
本当のりんを愛そうと決めた、決意の笑顔だった。
りんは不貞腐れながらもそれを受け入れた。
両手を伸ばして、少し体の離れていたまさやを引き寄せる。
「父さんって、こんなにあたたかかったんですね」
りんがまさやに、純粋なぬくもりを求めたのは、何年ぶりになるだろう。
まさやは嬉しくて哀しくて、ごめんでいっぱいになって、へへって笑った。
「帰ったらお祝いだな!」
「なんのですか!」
「お前の誕生日を、俺とふたりでお祝いだー!」
家に戻ったふたりは帰る途中に買った、ふたり分のケーキでお祝いをした。
テーブルの上には、いつもの3つ分のお皿はない。写真たてもいつの間にかまさやがしまっていて、りんは動揺した。
「これからはふたりで頑張るぞ」
「……はい」
りんのその日の笑顔は忘れまい。
生きた、優しい笑顔だった。
end
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