失われる記憶

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今日も滑り込む、配信者「桜」の枠。 可愛い声に丁寧な気遣い。 それらをすべて無にする、ボケた発言。 本人は「カワカテ」だって言い張ってるけど、 どうがんばっても「オモカテ」だ。 そんな推しの配信のために、この時間はいつも空けている。 「くろたん、いらっしゃい。 ねぇ、そうめんって、何をのせて食べる? おすすめの食べ方があったら教えて。 ウタは、ネギ?いいね、定番だね。 伊集院はツナに麺つゆとごま油?へぇ!今度試してみる。 紅天小町さん、初めまして! よかったら、コメントしてね。 …あれ?『今までにも何度か来てる』? 『アイコンも名前も、ずっと変えてない』? うわー、ごめんなさい!」 いつもリスナーに丁寧な対応をする桜にしては、めずらしい。 でも、もともとボケた一面を持つ彼女のこと。 「なんか最近、ミスが多くて。 失礼があったら、ごめんね! …『いつものことでしょ』って、なんでだよぉ!」 「伊集院、ハートありがとう。 ねぇ伊集院は、そうめんは好き?何をのせて食べる?」 いつもと変わらない、居心地のいい空間。 リスナーに満遍なく話題を振っては、コメントにひとつずつ答えていく。 伊集院さんはさっき「そうめんには、ツナに麺つゆとごま油」と 答えてたけど、きっと食いしん坊な桜のことだ。 さらに別のレシピを聞き出そうとしてるのかも。 そう。この時は、まだ誰も気づいていなかったのだ。 「先月、今の部屋に引っ越して来たんだけどね」 桜が軽やかに喋りだす。 「友達と通話してたら『後ろから男性の声が聞こえる』って言ってきて。 テレビもつけてないし、私一人なのに、 『はっきり聞こえた』って、全然信じてもらえなくて。 そのうち友達ともだんだん話がかみ合わなくなって… 『もしかして酔ってる?』って聞いても、酔ってないって言うし。 通話を切ったあとも、なんだか怖くて、電気付けたまま寝たの!」 枠では桜を心配する声や、 友人の言動を考察するコメントで溢れている。 「で、朝になってから聞いたら、 『めっちゃ酔っぱらってたわ』だって! こっちは怖い思いをしたのに、ひどいよね?」 うん。それは怖いし、友人もひどい。 けど、その友人が聞いたという「男性の声」は、 本当に酔っぱらいの空耳、だったのだろうか。 そんなリスナーの疑問を吹き飛ばしたのは、 桜の強烈なハーコメだった。 「くろたん、ハートありがとう。ちゅううう(リップ音)」 突然のリップ音に、盛り上がるリスナーたち。 『リップ音!俺にもそのハーコメでお願い』 『大サービスじゃん』『いつもとキャラ違うくない?』 しかしコメント欄に対する桜の反応は、 リスナーが期待していたものではなかった。 「…いったい何の話をしているの?」 熱を帯びていたコメント欄が、一瞬止まったように見えた。 「…ねぇ、どうしたのみんな。 私、リップ音なんて出してないよ…?」 あんなにはっきり聞こえたのに。 リスナーが一生懸命説明すればするほど、 桜との会話にズレが生まれていく。 「ごめん…言った言わないとか、覚えてないとか… 全然そんなつもりじゃないのに…みんな、ごめんね」 すると華やかなエフェクトが、画面を埋め尽くした。 桜を元気づけるかのように、 リスナーたちが有料アイテムを投げ始めたのだ。 「『これなら桜の記憶に残るかも!』…って、やだな。 そんなことしなくても、みんなのこと忘れたりしないってば!」 やっぱり桜には、バカなことを言って笑っていてほしい。 この時間を共有している、リスナーの気持ちはひとつだった。 「じゃあ、そろそろ点呼するね。 くろたん、今日は来てくれてありがとう! たくさんのコメント、楽しかったです」 「ウタは…最後まで枠にいてくれてありがとう」 「伊集院さん…いや、伊集院…あれ? いつもなんて呼んでいたんだっけ…」 桜の記憶は、静かにゆっくりと失われていた。 かみ合わない話題、繰り返される言葉、抜け落ちていく関係性… リスナーが異変を感じたときには、もう遅かった。 先月桜が引っ越してきた部屋には、主がいた。 見えない、触れない、だけどそこに確実に「居る」存在。 最初は、ただの同居人だった。 しかし多くのリスナーと配信で繋がり、 充実した毎日を送る桜の姿を見ていると、 次第に、彼女を独占したい執着心が芽生えてきた。 通話に男性の声を乗せ、配信にリップ音を流す。 桜には気づかれないように細工することなど、造作もない。 こうして桜の認識と現実とのズレが大きくなり、 不安や恐怖、深い悲しみを感じるたびに、 彼女の記憶は、ひとつ、またひとつと主に奪われていく。 桜はこの部屋で、主の仕掛けた罠に嵌っていることに気づかないまま、 記憶を手放し続けていくことだろう。 現世との繋がりが、いつか完全に絶たれるその日まで。 そう、それはこんなふうに。 「今日は桜の『初配信』に来てくれて、ありがとう。 はじめましてでしたが、たくさんお話できて、楽しかったです!」 記憶を失った桜に、リスナーのコメントが届くことは、もうない。
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