12人が本棚に入れています
本棚に追加
玄関を開けると見慣れた景色が広がる。いつもより少しだけ広い部屋。ふう、と小さくため息をついて私は靴を脱いで手を洗って、うがいをした。真奈の言いつけは守らないと、と思い私は冷蔵庫を開けた。作り置きのきんぴらと蒸し鶏があったので小皿に取り分けて食べた。あんまり味はしなかった。
なにか飲みたい気分だったので再び冷蔵庫を開けた。さっきは気が付かなかないふりをしたけど冷蔵庫の脇にあるトニックウォータ―に手を伸ばした。宅飲みの際に余っていたジンで割ったらジントニックになるな。うん、もういいや。一人で納得しながら私はグラスを棚から取り出した。製氷機から氷を取り出してグラスに入れた。氷の入ったグラスにジンを多めに注ぐと氷が崩れてカランと音がする。マドラーを使ってジンをかき混ぜて冷やす。トニックウォーターをグラスの内側に沿わせて丁寧に注ぐ。こうすると炭酸が抜けにくい。慣れたものだった。
リビングでテレビもつけずにただジントニックを口につけた。ジンのすっきりしたアルコ―ルと、甘苦いトニックウォーターの風味が口に広がる。その時、ふわっと刺激された味覚が鋭く記憶を呼び起こした。
●●と初めて会った時に飲んだのもジントニックだった。ちょっぴり背伸びがしたくて初めてバーに行ったときに何を飲んでいいのかわからなった際に、彼がおすすめしてくれた。そのときどれだけ彼が頼りにみえただろう。
●●が泊りに来た際に私の家で適当にサブスクリプションで見た恋愛映画はあまりに陳腐なものだった。長い沈黙のあと
「どうでしたか」
と彼から聞かれたときに少し考えたあとに
「つまらなかったです」
と答えたときに
「僕もそう思いました」
と言ってくれたときにどれだけ嬉しかったことか。そのとき飲んでいたのもジントニックだった。
●●が連絡もせずに酔っぱらって私の家に上がりこんだときはさすがに私も怒った。残業なのかな。浮気してないかな。事故にあっていないかな。あの時、どれほど不安だったか。そのとき飲んでいたのもジントニックだった。
●●は結局、その日浮気していたと本当とわかったときはどれほど悲しかったか。問い詰めた際に彼が飲んでいたのもジントニックだった。ごめんと謝る彼を許せたらどれほどよかっただろう。
「大輝くん……」
気が付くと彼の名前を口にすることができていた。ああ、そうだった。ときめきも、喜びも、不安も、怒りも。全部なかったことにされたような気がしたんだ。別れようなんて一言で。煌びやかに色めく思い出たちも、どうして「別れた」なんて事実一つで黒く染まってしまっていたんだろう。一つ一つが私の大切な宝物だったのに。
私はそれから4杯ほどジントニックを飲んだ。楽しかった思い出も辛かった思い出を一つづつ噛みしめるように。空になったグラスを片づける際にトニックウォーターの空き瓶が目に入る。あっけなく終わった恋だった。それでもたしかに魔法のような炭酸水が恋をしていたことを思い出させる。甘く。切なく。愛おしく。失恋よりもほろ苦く。
最初のコメントを投稿しよう!