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第9話 天使の輪っか
「まあ、自業自得は正しいと思うが、君を振った女性が、汚れたところなんか一つもなかったとは言い切れんぞ。
昔話になるが、私の母親は、おっとりとした優しい貞淑な女性だった。幼い私は、母がみたままの人だと信じていた。
ところが母は、私のバイオリンの家庭教師と不倫をしていたんだ。
で、私と兄のマイクロフトは学んだ訳だ『女は信用ならん』。
以来私とマイクロフトは独身主義を貫いてる」
「そして“女嫌いのホームズさん”が誕生したんだ。浮気されてお父さん、怒ったろうね」
「怒ったとも。父は銃で母を撃ち殺し、自分も頭を撃って死んだ。私の目の前で」
「それはまた……ゴメン、茶化したりして」
「いいさ、本当のことだ。以来私は基本女を信用しない。
信用するなら私のジョン・ワトソン君みたいな男友達をお勧めするよ。
善良でありながら、悪の誘惑は断固としてはねつける。
申し分のない聞き手であり、洞察力のある人間なら、インチキだとすぐ見破るちょっとした悪戯にも、楽しく反応してくれるいい奴だ」
「ジョン・ワトソンの五代目みたいに?」
「そうだな、彼はいい。誠実が服着て歩いてる感じだ。
ワトソン君の子孫なら信用できる。彼の家の家訓は『忠誠こそ栄誉なり』だからな」
「でも、女に簡単に騙されそうだよ」
「たしかに、私のワトソン君も三回結婚した。だが騙されることはあっても、騙すことはない。だから本当の友達を作りたいなら、ああいうのを選ぶべきだ」
「あいつホームズさんを手に入れなくて正解だった、良い人すぎて使えない。
そうそう、マッチ返しとくよ」
そう言って、ひょいと私に投げてよこしたマッチの箱の柄は、確かに家を出る時、私がポケットに入れていたものだった。
「いつのまに。そうか、あのぶつかった時か!」
「言ったろう、手癖が悪いって。あいつが、あんなに気にしてたホームズさんがどんな人か知りたくて、話すきっかけが欲しかったんだ。ゴメンね」
全然気づかなかった、油断も隙もない。やはりモリアーティなのだ。
「私もヤキが回ったな」
ため息をつくと、ポカリと煙草で輪っかを作った。
「あ、それ教えて! 俺できないんだ」
「本当に習いたいのか? 負け犬男が作ってたのに」
「うん教えて、お願い。本当は、ずっとできるようになりたかったんだ」
袖まで引っ張り出した、まるで子供だ。こんな風に女に媚を売って生きてきたのかもな。
「いいか、息は止めて口いっぱいに煙を溜める。軽く口を開けると煙が漏れ出すくらいだ。多いほど作りやすくなる。Oの発音の形に唇をとがらせて、おおきくひらき――」
「変な顔」
モリアーティが吹き出した。
「うるさい! 続けるぞ。大きく口を開き、一瞬だけ喉を開き、溜まった煙の中心に息を通す。その時咳き込む感じで、素早く少量の煙を口から押し出す。そのあいだ唇は動かしちゃダメだ。やってみろ」
「うん、まず煙を溜めて――ゲホ、ゴホ、うえっ」
「ああ、息を吸うととそうなる。やってる時は基本息は止めて、吐くだけ」
「うん、頑張る。ゲホッ」
モリアーティはそう言うと、やり続けた。そんな一生懸命な彼をみながら私は考えていた。
私が女性を避けてきたのは、父の様に女を信じて裏切られるのが怖かったからなのだ。
ワトソン君はそれを乗り越えて三回結婚して今は幸せだ。
傷つくのを恐れていては、本当の幸せは手に入らないのかもしれない。
それでも私は今の人生を選んだことに悔いはない。
だがモリアーティはどうだろう? これから先の自分の人生に悔いはないのだろうか。
「やった、できた!」
夜空に向かって、モリアーティの作った特大の煙草の輪がゆっくり登っていった。その輪を壊さないように、彼はそっと下に潜ると立ち上がった。頭の上に煙草の輪が雲のようにかかった。
「ほら、天使の輪っかだよ」
「確かに」
思わず一緒に上を向いて笑ってしまった。
こんなふうに、煙草を吸いながら笑い合える相手は、彼にはいなかったのだ。
可哀想に……私はきっとそんな顔をしてしまったと思う。
「そんな哀れむような目で見るなよ。殺したくなるじゃないか」
煙草を持っていた手に、いつのまにか銃が握られていた。ウェブリーMk l・中折れ式リボルバー。銃口がピタリと私に向けられていた。
「君はあの滝に落ちる時、銃を持っていたのか! なぜ使わなかったんだ?」
「あんたが持ってなかったからだよ。
言ったろ? アイツ、本気の相手にはズルが出来ないんだよ。
変なとこ純粋なんだ。馬鹿だよね、銃一丁でカタがつくのに」
しまった、私としたことが。何という取り返しの効かないミスをしたんだ!
時が止まり、満月の光が凍りついた。
しかし、何故かモリアーティは、銃を下ろすと、私の膝の上に置いたのだ。
「煙草の礼だよ、明日使うといい。もう1人のモリアーティも、これと同じものを持ってるはずだから」
そう言うと、背を向けて帰ろうとした。
「銃を持っている人間に背中を向けていいのか?」
「ホームズさんは背中を撃ったりしないでしょ」
そう言うと、スタスタと行ってしまった。
どっと冷や汗が吹き出した。全く、今日は何回びしょ濡れになる日なんだ。
冷えると、腰に悪いのに……満月のなか、私のくしゃみが響き渡った。
しばらくして部屋に戻ると、干し草の上でマザーと五代目が毛布に包まって眠っている。
五代目から少し離れて、モリアーティが壁の方を向いて寝ていた。
五代目の頭にくっついて兎娘も眠っている。
ドワーフ達も、暖炉の前で三人一緒に丸まっていた。
部屋は暖かく、平和で静かだった。
ふと、暖炉の灯りに照らされた五代目の耳が目についた。
耳翼の詰まったところ、上辺の緩い曲がり、内軟骨の旋回の仕方――その形はワトソン君にそっくりだった。
「女に優しいところといい、『血は水より濃い』か」
五代目と、モリアーティの隙間に横になりながら、そんな言葉が口から漏れた。
ドワーフの棲家の入り口穴に満月が掛かる。明日はいよいよお城に突入だ。
◇
「おい、これ絶対着なきゃならないのか? まともに動けないんだが」
私はボヤいた。
「仕方ないでしょ、相手は銃を持ってるんですよ。
モリアーティ教授の狙いは、ホームズさんの命。防弾チョッキ代わりです。
若いモリアーティ君が教えてくれて本当によかった」
鎧の着付けを手伝っていた五代目が言った。確かにガードにはなるが重い、腰にくる。
「ホームズさん、カッコイイわよ。本物の騎士だわ」
とマザー。人ごとだと思って……こっちは歩くのが精一杯なのに。
「おい、この手じゃ、銃のトリガーに指が入らないぞ、右手だけでも外さないか?」
「ダメです、最初にその手を狙われて撃たれますよ」
「そうだな。君は銃を撃てるのか?」
「射撃場で打ったことはありますが、下手なんですよね……当てる自信ありません」
「持ってるだけで威嚇にはなる。万が一私に当たっても鎧があるから大丈夫だ。しかし、『時進みの水薬』をかけられたら、鎧でも防げないな」
「その時には、こっちも『時戻しの水薬』を使います。ちゃんと、青い瓶に満タンにして持ってきました。
鎧は16世紀のものですから大丈夫です。頑張って囮になって下さいね。
その間に僕とマザーは、サンドリヨンとビオラちゃんのお婆さんの方を確保しますから。
盾は僕とマザーが使わせてもらいます。
僕たちが戦ってる間にモリアーティ君は裏口から入って、お爺さんのモリアーティ教授に触って下さい。それで多分元に戻れます」
「俺としては、元に戻りたくないけど」
とモリアーティ。そりゃあそうだろう。
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