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それは、ホームズが探偵の仕事から、身を引く直前の事件だった。
クリスマスも近づいたある日、僕はホームズのいるベーカー街221Bをおとずれていた。
「どうやら、面白そうな事件が飛び込んで来そうだぞ。
ほら、あそこに見えるのは、きっと僕の依頼人だよ。でなきゃ僕の目は節穴だ」
この時、ホームズは椅子から立って、半分ほど開いたブラインドの間から、ロンドンの街を見下ろしていた。
私もホームズの肩越しから、のぞいてみると、通りの向こう側の歩道に、小柄な女が立っていた。
落ち着きのないためらうような態度でこちらの窓を見上げていたが、意を決した様に道を渡り、呼び鈴の紐を引いた。
やがてノックの音がして、金ボタンの制服を着た給仕の少年が入ってきて
「ミス・メアリー・ファーガスンがおいでです」と、とりついだ。
◇
ミス・メアリーは女と言うより、まだ少女だった。
キレイな水色の瞳の、はっとする様な美しい顔は、ひどく緊張して、怯えた小鳥のように見えた。
ホームズは、その女を部屋に通し、ドアを閉めた。
そしてコートを受け取ると、肘掛け椅子に座るよう促した。
女は、ぎこちない足取りで椅子によると、言われるまま座った。
「ようこそ。私が、シャーロック・ホームズです、こちらは、友人のワトソン。
遠くから列車で来られておつかれでしょう」
「どして、列車で来たわかりますか?」
Hの音の抜ける、フランス訛りの英語で女は言った。
「左の手袋の手のひらに、往復切符の帰りの半券があるのを、みたんですよ。
失礼ですが、“メアリー・ファーガスン”と言う名前は、本名ではないのではありませんか?」
ホームズが言った。
「どうして分かったですか!」
ミス・メアリーは、驚いて叫んだ。
「コートにも、バッグにも、手袋にも、M・Fのイニシャルの刺繍が付いてるのに、どれもサイズが大きすぎる。
特に、靴は大きすぎるのを、つま先に詰め物をして、履いてますね?
歩きがぎこちないし、つま先の折れる位置が、大きさに対して後方過ぎます。
持ち物全てが借り物のようにみえる。
だから、イニシャルに合わせた、別人の名前を名乗っているのかもしれないと思い、お聞きしたのです」
ミス・メアリーは、茫然としていた。
僕はホームズが、前に言っていたことをおもいだした。
「いつの場合でも、人に会ったら、まず手に注意する事だよ、ワトソン君。
次に袖口、ズボンの膝、靴だ。小さな事柄を見落とさないでそれを基に推理すれば、普通の人をビックリさせるような事になるのさ」
「その通りです、私、外出するのに良い服もってません。
この服も靴も、勤め先のホテルの奥様の娘さんの物です。
名前も、娘さんのもの借りてます。私、本当の名前無くしました。
忘れてしまったです」
女の顔がくもった。
「名前を無くしたとは、それはお困りでしょう。お話願えますか」
「私、まだ、英語うまくしゃべれません。聞くの大丈夫。
だから警察の人に、手紙書いてもらいました。読んで下さい」
そう言うと、女は手紙を差し出した。
「サウサンプトンシャーのコベントリー巡査部長の紹介状だ」
ホームズが言った。
「ああ、ソア橋事件の」
「私、相談する人、ありません。だから、ここ来ました。
ホームズさん、困ってる人の相談、乗ってくださる聞いて。
誰よりも、信頼できる聞きました」
女は必死な目で訴えた。
「コベントリー巡査部長が、私の事を大げさに語って、期待を抱かせすぎてるんじゃないかと、気になりますが、とりあえず読ませて頂きます」
一通り読み終わると、ホームズが言った。
「手紙で、大体のところはわかりました。
ですができれば貴女の言葉で、確認させてください。ゆっくりで結構です。
よろしいですか?」
ホームズは、両手の指先を突き合わせた。ホームズが考える時の癖だ。
ミス・メアリーは話し出した。
「私、サウサンプトンの“チェッカーズ”言うホテルで、働いてます。
十七世紀にフランスからきた貴族のため、建てられたとても大きな建物。
階段の石は、フランスから取り寄せた特別だと聞いてます。
玄関はとても古くて、両翼は新しく建て増しして、チューダー式の煙突付いてます。
良いとこです。農場主の旦那様がなくなって、奥様がホテルに直したそうです。
私、今年のイースターの後に、その階段の一番下に倒れてました。
灰まみれのボロボロの服着て、右足にだけ靴履いてたそうです。
左足の靴は、探したけど有りませんでした。これがその靴です」
そういうと、ミス・メアリーは、バッグから靴を片方だけ取り出した。
カーマイン・レッドの小さなハイヒールの革靴で、白貂の毛皮の縁取りがついていた。
「頭から血出てて、気がついた時名前もなにもわからず、フランス語しかしゃべれませんでした。着ていた服はあんまりボロボロのなので、捨てられてました。
その時奥様は、“まるで私のひいお祖母様の着ていた様な型の古い服だった”といってました。
奥さま、フランス語話すので、お側で働かせてもらって、ミス・メアリーの名前もらいました。奥様の亡くなられたお嬢様の名前です。
服も、お嬢様のもらいました。可愛がってもらいました。英語少し話せるようになってから、ホテルで働きだしました」
「新聞の尋ね人の広告は出してみましたか?」
「出しました、いろんなとこに。でも、返事ありません。
どこからも捜索願い出てないと、警察の人言ってました」
「広告を見ても、誰も連絡してこなかったし、新しい手がかりも発見されない。それで、コベントリー巡査部長の奴、ホームズに丸投げしたわけだ」
僕は、合点がいった。
「私、一生懸命やりました。みんな、働き者だといってくれました。
夏になり、奥様の息子さん、大学から帰てきました。ホテル手伝うしました。
私たち仲良くなりました。プロポーズされました。
でも奥様、私のこと誰かわからない馬の骨いいました。つり合わないから、ダメだと。
二人、喧嘩しました。ホテルのみんなも、嫌な目で私見ます。私どしたら良いですか」
ミス・メアリーは、とうとう泣き出してしまった。
「同じ屋根の下にいて、ほかに頼るものが無い女性を追い詰めるとはひどいな」
「しっかりして、貴女は何も悪くない。結婚は当人同士の問題です。
お互いの気持ちさえ本物なら…」
僕は、励まそうと一生懸命だった。
「違うです、奥さんの息子さんとても良い人。
でも私、他に好きな人います」
ミス・メアリーは、言い切った。
「それは誰です?」
ホームズが聞いた。
「階段で、私追いかけてきた人」
「でも、何も覚えてないんでしょう?」
「名前思い出せません。でも本当です。
あの夜、二人で踊りました。心が一つになりました。
でも時計が鳴って、帰る約束の時間を思い出して、私慌てて家に帰ろうとした。
あの人は私を追ってきて、私、階段で何かに足をとられて、滑って落ちたです。
気がついたら、ホテルの階段のとこで倒れてました。覚えてるのそれだけです。
でも私、嘘つく嫌です。プロポーズ断りました。
でも息子さん諦めてくれません。クリスマス、息子さんまた帰ってきます。
どうすれば良いですか」
きつく握った手が震えていた。
彼女のつらい立場は、容易に想像がついた。僕は言葉を無くした。
「私のせいで、奥様も、ホテルも、変な感じなりました。
私、自分が不幸の原因になるような所、いたくないです。でも、どこ行けばいいですか? 本当の名前知らない。私、自分をどやって探すですか?」
女はまた泣き出した。
ホームズは、長い腕を差し伸べて女の手を優しくたたいた。
ホームズが同情に溢れた態度を取るのは、めったに見た事がない。
「絶望の淵にある淑女に助けを求められたら、紳士たるもの、全力を尽くすのみですよ。良かったら、その靴を預からせてもらえますか?
あいにく、他にも事件を抱えてまして、すぐというわけにはいかないかも知れませんが、心当たりを当たってみます。待っていて下さい」
ミス・メアリーは、なんども御礼を言って、サウサンプトンへ帰って行った。
◇
「あんな若くてきれいな娘さんが、気の毒に。なんとか助けてやりたいねえ」
「ワトソン君は、相変わらず、美人に弱いな」
「だって、せっかく運命の相手に出会えたのに、門限を守ろうと焦って、階段でころんで、なにもかも忘れちまうなんて、ついてないにもほどがあるよ。
しかし、なぜ捜索願が出てないのかなぁ。君には見当がついてるのか、ホームズ」
「うん。僕は何通りもの場合を考えている。
その一つは、この靴底についてるコールタールだ。
その前に踊っていたと言ってたから、その時はついてなかったはず。
となると、転んだ階段に塗られていたんだと思う」
「それじゃ彼女は、命を狙われてたって言うのかい?」
「可能性は高いな。それに彼女を追ってきた男が、彼女の思い人でない違う男なら、そいつに突き飛ばされたのかもしれない」
「おい、それじゃまた、いつ何時狙われるかも知れないじゃないか!
すぐ、コベントリー巡査部長に、彼女をガードするように言わなきゃ」
ホームズは椅子の中で体を丸めると、体をゆすり出した。
機嫌のいい時の癖だった。
「なんだよ、からかったのか!」
「ゴメン、君があんまり心配するから、つい。
大丈夫、イースターから八ヶ月も経つのに、彼女は無事だろう? 安心していいよ。
ただ可能性の一つとして、私は彼女の落ちた階段はそのホテルの階段ではなく、別の階段で、その後誰かにそこから運ばれて来たんじゃないかと思ってる。
コベントリーの手紙にも、階段にコールタールの痕跡はどこにも無かったと、書いてあったからね」
「しかし、なんでそんな事する必要があるんだい?」
「それは、調べてみないとわからない。
だから、可能性の一つ、何通りもの場合があると言ったんだよ。
私の考えが全部間違ってることもある。
完全に推理を組み立てるにはあと一つ、二つ、手がかりになる新しい情報が必要だ。
取りあえずは、この靴の出所を当たってみるつもりだ」
「こんな靴片方だけで、なにがわかるって言うんだい?」
「ワトソン君、靴一つからどれだけ素晴らしい推理が出来るか、君にはわからないだろうね。
見てごらん、つま先とヒールの、この独特のカーマイン・レッドは、コチニールという染料で染めてある。
これは、エンジムシと呼ばれる、特殊なサボテンに寄生する虫から取れる染料で、産地はメキシコのオクサカ地方にかぎられている、大変高価な物だ。
そして、アーミン模様の白貂の毛皮(*注1)が、縁取りに使われている。王家の式典などによく使われる、高価なものだ」
「すると、あのお嬢さんは名家の出身なのかい?
なのに、誰も探してないなんて。ますます訳アリだね」
「そこなんだが、ワトソン君、あのお嬢さんは、この靴を右足に履いていたと言ってたね」
「そうだよ、左のほうは、探しても無かったと言ってた」
「では今、この片方だけの靴をみて、右足の靴か、左足の靴かわかるかい?」
「そんなの、形を見ればわかるに決まって……あれ?完全な左右対称になってる!」
「その通り。靴というのはローマの時代から、右足なら、左サイドにアーチをつけて、親指の付け根のところが張り出す様につくられてる。
足というのはそういう形をしているんだからね。
ところがヨーロッパの歴史の中で、一度だけこういう靴が、作られた時期があるんだよ。
十七世紀、ルイ十四世の時代だ。
ハイヒールの登場とともに、靴は歩くためのものでなく、ファッションアイテムとして、美しく見せびらかすものになり、履き心地なんて、二の次になってしまった。
だから靴屋が左右別々の靴型を作った上、ハイヒールまで作るのは面倒すぎるので、手間を省くためこうなったらしい。
ヨーロッパで再び左右別々の靴をみるには、十九世紀の後半まで待たなくてはならなかった。
そんな古いタイプの靴なのに、これはどう見ても真新しい。
材料も特殊だし、作れる人間は多くはない。
ヒールの付け根の所に“d”のイニシャルも入っているし、僕はイギリス中の作れそうな靴屋に問い合わせてみるつもりだ。
この靴がどこで作られたかハッキリすればそこから、なんらかの手がかりはつかめるはずさ」
◇
「わわわ、なんだこりゃあ」
それから数日後、往診の帰りにホームズのところに顔を出した僕は、思わず叫んだ。
部屋中、煙だらけだったからだ。
バーナーの青い炎の上で、ビーカーの中身が沸騰している。
ホームズは、化学実験の真最中だった。僕は慌てて窓を開けた。
「ああ、ワトソンか。実験に夢中になって気がつかなかった。
今受けてる仕事に必要な急ぎの薬物の実験なんだよ。
雪が入るから、早く閉めてくれ。何か用かい?」
「用ってほどじゃないけど、ミス・メアリーの事が、気になってね。
良い返事は来たかい?」
ホームズはピペット管を瓶に差し込み、一滴、ビーカーに入れた。再び煙が立ち昇る。
「残念ながら、イギリスの靴屋は全てダメだった。
そこで、フランスにも問い合わせてみた。
リヨンの近く、フランス靴職人のメッカで、靴の博物館のあるドローム県のロマンだ。しかし、ここにも該当する靴を作ったものは、いなかった。
でも、フランスの国境付近にあるドイツの“アンデルさんの靴屋”の八代目の店なら、作れそうだと情報が入ったので、そこからの返事を待ってるところさ」
「そうか、見つかるといいなぁ」
「みつかるさ。クリスマスには、奇跡が付き物だからね。
もっとも明日はもう、大晦日だけど」
「忙しいようだから、今日は帰るよ。新年にはうちに来るかい?」
「今の仕事が落ち着いたらいくよ、もう少しかかりそうだ。」
僕は、雪の降る中帰った。
「さてと……」
振り向いて、ホームズは驚いた。
年配のご婦人が一人立っていたのだ。
「あら失礼! ノックした方が良かったようね。
心配ごとで気が急いてたの、御免なさい。んん! やだ、なあにこれ?」
ご婦人は咳き込みだした。
ホームズが窓を開けようと行きかけると、その前に部屋の窓が勝手に開いて、突風とともに、部屋の煙が一掃された。
「やれやれ、これでやっと口が開けられるわ。座ってもよろしい?」
ご婦人は、返事もまたずに肘掛け椅子に腰を下ろすと、同時に窓が、かってに閉まった。
どこにでもいる、普通のおばさんに見えた。違うのは着ている服だった。靴はつま先がクルリと巻いていて、魔法使いの様なフードのついた紫のマントを、赤いリボンで止めている。
銀髪に包まれた、ふっくら丸い顔の中で、いたずらっ子の様に瞳が輝いている。
「お名前をうかがってもよろしいですか?」
ホームズは突然の来訪者に聞いた。
「本名は言えません。でも、みんなに“名付け親さん”と、呼ばれてます。
今日は、私の名付けの娘のことで来ましたの。
貴方は、これと同じ靴を片方、持ってますでしょ?」
そう言うと、マントのポケットから取り出したのは、ミス・メアリーの靴だった。
「どこでそれを手に入れたんです!」
ホームズは二つのそっくりな靴を並べた。
二つとも、靴底には、コールタールが乾いて付いていた。
「どこも何も、これは私がアンデルさんに作らせて、あの娘にあげたものですよ。
あの娘ったら靴片方残して、行方がわからなくなってしまって。
貴方が八代目に、問い合わせしてくれたので、やっとここにたどり着いたんです。
あの子は今どこにいますの? 連れて帰りますから。
隠したり、嘘をついてはダメですよ。嘘つきは天国に行けませんからね」
「サウサンプトンです。でも、今から連絡しても、つくのは、明日になりますが」
「良かった。では明日の夜、あの娘を迎えに参ります。時計が十二時を打つ前に。
待ち合わせとしては遅すぎますけど、私達の様な者はどうしても力が出やすい時間と、出にくい時間がありますの。ごめんあそばせ」
そう言うと、名付け親さんは出て行こうとしたが、ドアの前で振り返った。
「ホームズさん、あの娘を見つけてくれた報酬は、何がよろしいかしら?」
「貴方が、この仕事に見合うと思うもので結構です。
実のところ、僕のした事と言えば、靴の事を手紙で問い合わせただけですから」
「紳士でいらっしゃる。そこがイギリス人の良いところですわ。
では、八代目に何かステキなプレゼントを送るよう、言っておきます」
そう言うと、名付け親さんはドアを開けて出て行った。
追いかけてホームズが、ドアを開けると、もう姿はなかった。
階段を降りる足音はしなかったし、階段には、さっき帰ったワトソンの雪に濡れた足跡しか付いていなかった。
◇
「ねえワトソン君、こっちに座って僕の話をきいてくれないか。
どうしたらいいか、わからなくなった。
それで君にも、これから起こることを見てもらうために呼んだんだよ」
大晦日の夜に突然呼び出され、ベイカー街へやってきた僕に、ホームズはそういった。
かなり苛立っていた。ホームズは手がかりがない時は、はっきりそう言う。
むっつりしている時は、手がかりはあるが正しいものかどうか完全に言い切れない時だ。
「ワトソン君、君は僕のやり方をよく知っているだろう。
僕は、あらゆる方面から調査を進めた。
その結果、思ってもみなかった経緯で、証拠を発見した」
そう言うと、ちゃんと、ふたつそろったあの赤い皮の靴を差し出した。
「どこで見つけたんだ?」
「あの子の名付け親と名乗る婦人が、昨日持ってきた。
今夜の十二時に、ミス・メアリーを迎えに来ると言ってた。
彼女は今、下にいて、ハドソン夫人が相手をしくれている」
「そうか、身内が見つかったのか。良かったなあ」
「しかし、その言葉をうのみにして良いものか。かなり胡乱な御婦人で…」
「ま、失礼ね。あの子に会えば私の素性は、すぐわかりますわよ」
「ええ?」
突然室内に現れた名付け親に、僕は肝をつぶした。
「ノックをお忘れですよ」ホームズがやんわり注意した。
「あらやだ、また忘れちゃった。年かしらねえ……
ところで、あの娘はどこ? 私、約束に遅れませんでしたでしょ?」
「ええ、十二時十五分前。今お連れします。
ワトソン君、下に行って呼んできてくれないか?」
ため息混じりにホームズはそう言った。
慌てて僕は階下に降りて、ミス・メアリーを連れてきた。
「サンドリヨン!良かった、無事だったのね」
しかし、ミス・メアリーは困ったような顔をして、立ち尽くしている。
「どうしたの?貴女のフェアリー・ゴットマザー(妖精の名付け親)を忘れちゃったの?」
「フ、フェアリー・ゴッドマザー?」
僕の声は裏返っていた。
「そうなんです。この娘さんは、階段で転んで頭を打って、それ以前のことは名前も、何も覚えていないんですよ」
ホームズが答えた。
「まあっ! だから名前をいくら呼んでも返事がなかったのね。
どれ、傷口を見せてごらん。ああヒドイわ、すぐ治すわね」
名付け親さんは、しまっていた杖を出すと、ミス・メアリーの頭の上で、一振りした。
「妖精の名付け親さん!」
途端に、ミス・メアリーは水色の瞳を輝かせて、叫んだ。
「思い出したのね、良かった」
二人は、抱き合って喜んだ。
「Merce,mille fois, Honsieur Holmes.」(本当に、本当にありがとう。ホームズさん)
ミス・メアリーは、完璧なフランス語で、礼を言った。
「C’est normal」(当然の事をしたまでです)
ホームズもフランス語で答えた。
「さあ、帰りましょう。王子様が、お待ちかねよ」
「妖精さん、約束の時間を守れなくて、ごめんなさい。
私があんなに慌てなかったら、転んだりしなかったのに。
そうしたら、こんな騒ぎにはならなかったわ」
「しかたないわよ、ハイヒールなんて、履いたことなかったんだものね。
それにいくらあなたを行かせたくないからって、階段にコールタールを塗るなんて、王子もやり過ぎよ。
そのせいで、あなたは行方不明。
八代目のアンデルさんが教えてくれなかったら、本当に大変な事になるとこだったのよ。
さあさあ泣かないで、靴を履きかえて。
あら、どうしてそんなペタンとしたスカートをはいてるの?
膨らんでないスカートなんて最低。
本当この時代の服って、女を美しく見せるっていうセンスに欠けてるのね」
おばさんの杖の一振りで、サンドリヨンの着ていた服が、瞳の水色と同じ色の、ふんわり膨らんだドレスに変わった。
何か、型を入れて膨らませているらしい。
「さ、これで最新モードよ。ホームズさん、ではこれで失礼しますわ。お見送りは結構よ」
二人はドアを開けて、出て行った。
「あの、ちょっと待って下さい、今のはいったい……」
慌てて僕が、後を追ってドアを開けると、もう誰もいなかった。
「どこへ消えたんだ、階段を降りる足音もしなかったぞ。
結局あの娘は、誰だったんだ?」
「名前を呼んでたろう。サンドリヨン……つまりシンデレラだよ」
「はああ? あのおとぎ話の? だって、シンデレラの靴はガラスの靴のはずだよ」
「それなんだが……世界で初めてシンデレラの話を書いたのは、フランスのルイ十四世に仕えてたシャルル・ペロー(1628~1703)だ。当然フランス語で書かれてた。
ところが、フランス語の“verre”(皮)は“vair”(ガラス)と発音が同じだったので、間違ったらしいんだ。
ペローは昔からあった話を、聞き取って物語にまとめただけで、原作者と言うわけじゃない。
もとの言い伝えを忠実に再現する事に努めた、ドイツのグリム童話では、落とした靴は“黄金”と書かれていたし、王子がはかりごとをして、階段にベタベタのコールタールを塗ったとも書かれていたよ。
もっとも、ガラスでも黄金でも、踊りにくいのは同じだけどね」
「現代と中世、現実と、とんでもない空想とが入り混じっている。
あり得ないよ、妖精の名付け親なんて!」
「では今見た事をどう説明する? 昔から、私には一つの信条がある。
『あり得ないものを消していけば、最後に残ったものが、どんなに信じられないような事であっても、真実に違いない』という事だ。
しかし、“妖精の名付け親”なんてものがあり得ないものである以上、どう考えたら良い? おまけに、それを認めさえすれば、全ては辻褄が合ってしまう」
「冗談じゃない、十七世紀の人間が、どうやって1902年のロンドンに来るんだよ!
リップ・バン・ウィンクルみたいにか」(*注2)
「タイムマシンという手もある」(*注3)
「空想科学小説と、現実を一緒にするなんて、君らしくないぞ、正気か!」
「正直、おかしくなってる。こんな事が現実であるなら、完全なる科学の敗北だ。
私は、かねてからの念願だった引退をして、蜜蜂でもかうよ」
「やめてくれよ、そんな理由で、引退なんてあんまりだ」
「ああでも……究極まで進んだ科学は、魔法と変わらないと言うからね。
今の電話や、蒸気機関車を見たら、昔の人は“魔法”だと思ったろう。
百年未来なら、あんな事も普通になってるかもしれない。
それに、モリアーティ教授なら、タイムマシンくらい作ったかもしれないな。
彼が死んでくれていて、本当に良かったよ。
科学は時に、人を不幸にする発明をするからね。
それに、今は全てを許し恵みを与えるクリスマスの季節。
目くじら立てるのもヤボだ。おかげで退屈しのぎにはなった。いささか疲れたけどね」
その時、時計がボーンボーンと十二時を鳴らし、新年のおとずれを告げた。
そして、その音が鳴り終わると、給仕の少年が荷物を届けに着た。
差出人は、“八代目アンデルさんの靴屋”。
切手は貼られておらず、“新年になったら届けて下さい”と書かれてあった。
拝啓、シャーロック・ホームズ様 。
この手紙が届く頃には、我らの妖精の名付け親が、全て丸くおさめている事と思います。貴方様が、初代アンデルさん作の、赤い皮靴の事を問い合わせて下さったおかげです。心より感謝いたします。
妖精の名付け親に、ホームズ様に何か気のきいた品を御礼に差し上げるよう、言いつかりました。
考えた末、当家の二代めが秘蔵していた、“時戻しの水薬”と“時進みの水薬”のふた瓶を贈ります。大変高価なもので、二代目はこの薬の代価として、人生の半分をタダ働きしたといわれています。
もう残り少なくなっておりますが、ホームズ様は化学分析が趣味と、妖精の名付け親が申しておりますので、この様な珍しいものなら喜ばれるかと思い、御送りしたしだいです。
ただ、何分にも二百年も前の話。青と赤の瓶のどちらがどちらの薬なのか、分からなくなってしまいました。取り扱いにはご注意頂きますように。
分析の結果が出たあかつきには、御一報いただければ、幸いです。
敬具
「ど……どうする、ホームズ」
「ワトソン君、今関わっている仕事が終わり次第、私は引退する」
2019年3月脱稿
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(*注1)白貂はイタチの仲間。冬の白い毛をベースに、尻尾の先の黒い毛を、飛び出たドットようにあしらった模様。
(*注2)アメリカの作家、アーヴィングの書いた小説。山で小人達と一晩遊んで家に帰ると100年が過ぎていた。アメリカ版、浦島太郎。
(*注3)イギリスのH・Gウェルズの小説。1895年作品。
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