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策士
間違いを訂正するために、龍一はまず寮長のもとへ向かった。廊下を歩いていると、寮長室の前に人がいるのを見つける。赤いネクタイをつけていることから、1年の生徒と見受けられた。
龍一は自然な動作でその生徒の後ろに並ぶ。そうして静かに順番待ちをしていると、その気配に気づいた生徒が振り返り、
「⋯⋯ひっ!」
龍一を見て半歩飛び退いた。
「驚かせるつもりはなかった、すまない。私も寮長に用があるんだ。だがちゃんと君の後に済ませるので心配しないでくれ」
だからすぐに謝罪したのだが、
「ぇ⋯えっと、あ⋯⋯」
「?どうした、何故顔を赤く──」
「ご、ごめんなさいぃっっ!!!!」
「は⋯おいまてっ」
ぴゅーっと走り去った生徒の背を唖然と見つめる。
どういうことだ⋯?何故逃げる、何故謝った⋯?
は、まさか⋯⋯
龍一は1つの可能性に気づき、ショックを受けた。
「はぁいいらっしゃい、ちゃんとゴムは持ってき───」
「寮長」
「ん、え、あれ?なんで君が? おかしいな確か1年の子じゃ⋯」
「私の顔は⋯怯えるほど恐ろしいのでしょうか?」
「え、なに、なんの話? 顔?まあ整ってるしね、真顔だとちょっとあれだけど…別に怯えるほど恐くはないんじゃないかな…⋯…え、なんの話?」
「そうですか」
ちょうど寮長が出てきたので尋ねたところ、違うようで安心した。では尚更、何故走り去ってしまったのだろうか。分からないが、龍一はとにかく今起こったことを報告すべきだと判断した。
「先程ここに1年生がいました。寮長に用があったようですが、私が来た頃に突然走り去ってしまいました。何か急用でも思い出したのかもしれません」
「あぁ、そう⋯」
煮え切らない返事をする寮長の格好は、先日と同じくまるで敵襲にあったかのようにはだけていた。ファッションというものに疎い龍一でも流石にこれには疑問を抱き、尋ねてみる。
「不躾な質問で申し訳ないのですが、なぜそんなにも服装が乱れているのですか? 」
純粋な顔で問う龍一に、寮長は目を瞬かせた後、ゆっくりと笑った。
「気になるかい?」
「はい。何者かに襲われたように見えますので」
「そう⋯ならば教えてあげよう。 ところで龍一くんは僕に何か用があったのだよね?」
「⋯はい」
⋯教えてあげると言ったそばから話題が変わった。詮索すべきではなかったか。
流れるような動きで、寮長の指が龍一の手首に絡まる。
「じゃあ中で聞くよ。入りなさい」
「はい? いえ、そんなに長くはかかりません。こちらで大丈夫です」
確認を済ませたら帰りますので。
そう首を振る龍一の対応に、寮長の眉が下がった。
「実はさっきの1年生は僕に相談したいことがあると言っていてね、それでお茶をいれて待っていたんだよ。だけど⋯何があったのか、その予定も今無くなってしまった。 まだ冷めてはいないだろうけど、さすがに僕だけじゃあの量のお茶を全て飲みきれない。かといって捨てるわけにもいかないだろう。 だから時間があるなら話をするついでに、龍一くんに飲んで行って欲しいと思うんだ。 ⋯あぁ、もちろん無理にとは言わないよ」
強引に迫らず、選択肢を与えながらゆっくりと善意を刺激する。これは少ない交流の中で龍一の性格を見抜き、龍一を籠絡する為に最もいい方法だと理解した彼の、計算尽くの態度であった。敢えて"捨てる"という文言を入れたことが、それを如実に表している。
しかし、そんな寮長の考えなどつゆほども知らない龍一は、まんまとその策に嵌ってしまうのだ。
「わかりました。ではお言葉に甘えさせて頂きます」
「あぁ⋯良かった。これでお茶を無駄にしなくて済むよ」
さぁどうぞ、と寮長に連れられるままに中へ入れば、独特の甘い匂いが龍一の鼻腔をくすぐった。
「お茶を温め直して来るよ。そこに座っていて」
「⋯失礼します」
ソファに腰掛け、ゆったりと辺りを見回す。
そこは黒とベージュを基調とした、シンプルで落ち着きのある部屋だった。広さも、龍一達の学生寮と同じか、それより少し広いくらいだ。
ただ変わっているところがあるとすれば、いわゆるリビングや居間と呼ばれるこの場所に、やけに大きなベッドが存在感を放って置かれているところだろうか。
「お待たせ。 ん?何か気になるところでもあったかい?」
湯気の立ったお茶を手にした寮長に、龍一は首を振った。
「いえ、何もありません」
「それはつまり、なんの面白みもない部屋だったと言うことかな?」
「そういうわけでは⋯」
「はは、冗談だよ」
そうは言っても、寮長の自虐のような冗談を何とか否定出来やしないかと、生真面目に考えてしまうのが龍一の性分である。
「⋯あ。そういえば、部屋に入った時から、この甘い香りが気になっておりました」
「あぁこれかい? これはお香だよ」
「お香⋯⋯⋯⋯お焼香のことでしょうか」
「うん違うよ? なんだろうね、分かりやすく言うとアロマかな。リラックス効果があるんだ。 龍一くんは使ったことは無い?」
「ないです」
「へぇ、香水とかも?」
「全くありません」
「そうなの? なら不思議だ。 何もしてないのにね⋯?
どうして君は───こんなにいい匂いがするのかな」
いつの間にか隣に座っていた寮長は、龍一の腰に片手を添え、耳の後ろで囁いた。そのまま下りた首筋へほのかに息がかかる。
「あの⋯」
「うん、なんだか安心する香りだ。ずっと嗅いでいたいような⋯⋯」
「⋯⋯」
「はぁ⋯⋯」
「っ!」
かけられた吐息の生暖かさに思わず龍一がビクリと肩を跳ねさせたところで、寮長はパッと顔を離した。
「ごめんね、つい懐かしい感じがして。 気を悪くしたかな?」
「いや⋯いえ⋯⋯ただ、少し擽ったかっただけです。私こそ、すみません」
「ふふふ、なんで龍一くんが謝るんだい」
少し熱を持った首元に触れる。
あれっぽっちの擽りであれほど反応を示してしまうとは。
龍一は己の忍耐力のなさに恥ずかしくなった。そういった類の稽古も取り入れるべきか、などと考えるほどに。
「だいぶ時間が経ってしまったな⋯。そろそろ龍一くんの用件を聞こうか」
「⋯はい、こちらの⋯⋯」
ようやく本題に入ると、その後も何度か撫でられる程度の接触はあれど、最初の反省を生かした龍一は特に動揺することなく話をすることが出来た。
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