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丁度、こんな暑い盛りの事でございました。
外ではかき氷やらわらび餅を売り歩く行商の売り声が遠くの方で聞こえます。
そんな時は、風鈴だけが世の中の涼を独り占めしたみたいに ── 凛 ── と得意気に揺れるんでございますよ。
手前はその頃、まだ遠州は浜松の在でございましたが、親から引き継いだ豆腐屋をやって、夫婦二人、子供もおらずに何とかかんとか細々と暮らしておりました。
暑い日は豆腐はよく売れる。
食欲がない時にゃ、おろし生姜と葱なんか乗っけて、醤油をぶっかけたのをささっと掻き込むのに限ります。
店の女房の方でも、売り歩いてた私の方でも珍しく昼前にはすっかり売り切っちまいまして、一心地つこうってんで、畳の上でゴロゴロしておりました。
そんな中、全く唐突の大雨でございます。
通りには猫の子一匹歩いちゃいない。
雨の飛沫は辺り一面を霞ませちまって、外の様子ははっきりと見る事ができない。
気付けば真夏だってのにボロの外套を羽織って、大きな革の鞄を提げた、身の丈六尺からある大男が店先にムクっと立ってるんですから、全く以て手前共も驚いたの驚かないのでございました。
さて、男は、己は遥々熊野からこの浜松へ、一月前から行商に来ておる『絵の具売り』だと申しました。
『絵の具売り』などと言う行商は初めて耳にする言葉でございましたがね ── まあ、世の中に絵の具があるのだから、そう言う商売もあるのだろうよ ── ぐらいに思って聞いておりました。
ですがね、先生、当時手前は豆腐屋でございますよ? その辺の事あ忘れて貰っちゃあ困るんだ。
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