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半年後には店も閉めちまって、何を思ったか覚えちゃいませんが、フラッと家を出たっきり、一度も帰っちゃあおりません。
思えば女房は今でも、あの家で手前の帰りを待っているのかもしれませんねえ。
***
「で、何かい? アンタ、それから流れ流れて、物乞いみたいな暮らしをしながら、その時の絵の具をこうして売りに歩いていると、そう言うわけなのかい? 」
男はボロを纏って蝿が集り、前は何時風呂に入ったのか、体の臭いは大変なものだった。
もう七年も件の絵の具を売り歩いているそうだが、話す事にしたって、とてもまともに人から取り合って貰えるようなものではないから、未だにどれも買い手が付かずにすっかり男の手元に残っているのだ。
「ちゃんと最後まで話しを聞いて下さったのは、先生が初めてでございます。それだけでもう、手前は満足でございます」
とは言え、ここまで聞いてただで帰すわけにもいくまい。
いや、さっき初めて出会った浮浪の男に、そこまで義理立てする事もないのかもしれないが、目の前のこの男がどうのと言うよりも、私はその絵の具にどうしようもなく興味があったのだ。
「で、幾らなんだい? その絵の具ってのは」
値段を訊ねると、男は驚いたような顔で暫く私の顔をじっと見つめてから、怯えるような上目遣いで
「もう七年も前に買った物の事でございますから、元値とは申しますまい。
ここは一つ、みんなで七円と五十銭でいかがでございやしょう? 」
と答えた。
なるほど、この絵の具の特性や元値を知っている者からすれば、然程高いとも思えない。寧ろ良い所を突いてくる。
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