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「製造の工程で白は全部塩が持っていっちまうらしいですから、こいつに白はないそうです」
男は残念がったが、その言葉で得心がいった。
「そうだ! それだ! 何もどうでも絵の具の白でないといけない道理はないはずだ。塩でいいのだよ、塩で! というより寧ろ、白は塩なのだ! 塩が白なのだ! 」
男は目を丸くして驚いてから、
「こりゃあ驚いた! なるほど、そうでございましたか。
先生、ありがとうございます。
その言葉で、手前も目から鱗が落ちました。
早速、浜松に帰りまして、盛り塩を、いや、それが駄目なら家中に塩を撒いたり、塩水の風呂に浸かってみたり、いえ何、思いつく限りのありとあらゆる方法でもって、手前の身体に巣食ったこの黒を追い出してやりますよ」
そう言って涙を流して喜んだ。
生きている間に女房に再び会えるかもしれないという希望が湧いてきたと、そう言った。
「お礼のかわりと言っちゃ何ですが、ご迷惑でなければ、この絵の具、引き取っていただけませんでしょうか? いえ、手前にはもう必要のない代物でございますから。勿論お代は頂戴いたしません」
嘘か真か分からぬが、聞けばそれだけ高額なものを、言われる儘に丸ごとただで貰う事に抵抗がないわけではなかった。だが遂に私の驚異的な好奇心は、羞恥心をも凌駕してしまったのだ。
妻も子もおらず、さしたる身分もない孤独の身の私から、深海の闇はこれ以上の何を奪うと言うのだろうか。
私の前から消えてなくなるのは一体何であるのか。
闇が消し去るのは何も、目に見える光が映し出すものだけではない。
── 心の闇、希望の光 ──
反吐が出そうなこそばゆい言葉だが。
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