黒は漸次侵食せり

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 昼間の海水ですと青が、夜の海水ですと黒が、天気によっても色は変わる。嵐の日なんぞは鉛色のが採れますし、澱んだ岩礁の海水なんかでやりますと珍しい、緑なんかも採れるんでございます。  お勧めは、深海の海水から採れた黒でして、それはとても人が潜って採ってこれるような所の水ではございませんので、何かの間違いで網に掛かった深海魚が堪らず断末魔に吹き出す海水を、(すこ)おしずつ貯めたものを。それからでないと、あの黒は抽出できないんでございますから、全くもって、相当に希少な色と言う他ございません。  熊野と言やあ八咫烏(やたがらす)。  黒は熊野の専売特許ってえ理由(わけ)で ── などと、男は真に上手いこと抜かしやがる。  それ聞いて手前も、やめときゃいいのに、その気になっちまって、 「お前、ここの近所は何処(どこ)と何処とを回ったかね? 」 なんて聞いちまった。一旦こうなっちまうと、もう引き返せねえ性分でございまして、 「何、まだ午前中でございますから、お宅様が正真正銘いの一番、一軒目でございやす」 これでもう、手前はすっかり気をよくしちまいました。  何、先生にはお分かりいただけないかも知れませんがね、最前(さいぜん)にも申しました通り、手前という人間は至ってそう言う性分なんでございますよ。 「ならお前、この後はこのご近所で他の何処へも、売りに歩いてはいけないよ」 と、ここまで言っちまいました。 「それは一体どういう了見でそんな無体なことを仰いますか? あっしだって商売だ。ましてやそれでは、親方に叱られちまいます。それだけはどうかご勘弁を願います」 男が困って哀願するのを、手前は笑って聞いておりました。
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