黒は漸次侵食せり

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 こう言うモノあ、考え一つだ。  今こうして先生にお(はなし)して聞かせる事が出来ますのも、二十五円と言うような銭を支払ってこそってもんです。  博打や酒で身上(しんしょう)(つぶ)したなんて話は沢山(たくさん)あるが、そんなもなあ自己満足の武勇伝でございます。凡そ『そうでございますか、ふーん』で片付けられちまう。小さな話だ。  そこへ行きますと海水を遠心分離した絵の具なんてなあ、夢があるじゃございませんか。たとえ騙されるにしたって、騙されがいがあるってもんでござんしょう?  向こうも流石に商売だ。売ったら売ったきりってなあ、雑な仕事は致しません。  私の目の前に瓶を五本ちゃんと並べて、使用上の注意という、その口上を述べ始めた。  聞けば、中でも特にこの深海の黒って奴だけは、使う時にお気をつけあそばされませと、こう言うんです。  何でも、この黒だけは、どういう理由(わけ)か蓋を開けた途端に常温で揮発して、あっという間に光の中に溶け込んじまうそうで。  現し世(うつしよ)が闇に溶け込むんじゃぁない、闇の方からこっちの世界へ(へえ)り込んで来るのでございます。  ですから使用の際には、必ず窓をお開けになって、夜ならまだよろしいが、昼間に開封されるなら特に、マスクと眼鏡を()めてからになさって下さいと、至って真剣な眼差しで、真っ直ぐに私を見ながらはっきりとそう申したのです。
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