黒は漸次侵食せり

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「でなけりゃ旦那、聞いた話では、裸眼で蓋を取った途端に目が(くら)まされちまって、それきり目の前は何処まで行っても唯の暗闇。そんな事が実際あったそうで」  それ聞いて、実のところ手前も多少は怖気(おじけ)づいてはおりました。絵の具の瓶の蓋を取ったってだけで目が見えなくなるなんてのは、全く道理が分からねえ。割に合わねえ。  それこそ、其奴の周りの光に闇が溶けちまったのか、其奴自身が闇に飲み込まれちまったのか、まあ、どちらにしても結果は同じ事でございますがね。  けれども人間てのあ、やるなと言われりゃやっちまう、見るなと言われりゃ見たくなる性分でございます。それあ、先生だって身に覚えのない事ではございますまい。  そう、開けちまったんでございますよ、その瓶の蓋を。  そりゃあ男が帰ってからも、絵の具の事が気になって仕方がないんですから。  その日は一晩、何とか(こら)えましたがね、豆腐屋ってのは朝が早い商売だ。世間様より昼間が(なげ)えんだ。  いつものように女房と一生懸命豆腐を売る振りをして、頭ん中ではその事ばっかり考えちまう。  昼飯をかっこんで、さあ、その直ぐ後の事でございました。  さて、男の言う事も聞かずにマスクも眼鏡も何もなしに蓋を取ってみたんですがね、それが、何も変わりはありませんでした。えぇ、本当に(なん)にも。  目の前の物は至ってしっかり見えている。でもね、先生、人間の見えるとか見えないってのは、どうやらそう言う事ではないらしいんだ。  と言うのも、昼寝をした後でそろそろ夕刻になろうかって時分にね、買い物に行ってた女房が未だ帰らねえ事に気が付いた。
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