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いえ先生、女房は決してそんな女じゃございません。
決してそんな、薄情な女じゃあないんです。
そいつあ、とんだ見当違いてえもんだ。
第一が、平生は大人しい気障ではございますがね、一度火が着いちまったら歯止めはきかねぇ、私に啖呵の一つも切ってから出ていくくれえの芯の通った女でございましたから。それが何にも言わずに黙って消えちまったんだ。
それが不思議な事なんですがね、家の女房見なかったかってんで方々聞き回ったんでございますが、
── 何、あんたの嬶なら毎日店にいるじゃあないか
ってみんな口を揃えてそう言うんでございます。
── それが証拠に今もほら、店先をご覧よ、あすこでニコニコお前さんに手を振ってるじゃあないか
って。
それからも、あちこちで、昨日あんたの嬶に銭湯で会っただの、子供が奥方から飴玉を貰ったお礼だのって話を聞くんですが、家に帰っても誰あれもいない。
手前にゃからっきし見えねえんでございます。
女房の方で手前が見えてるのかは、今となっては確かめようがございませんが、いえ、きっと女房には手前の姿がしっかり見えていたに違いない。
そう思えてならねえんです。それがまた意地らしい。
輪をかけて残酷じゃございませんか。
幸いなことに失明したりする事はありませんでしたがね、これはもしかするとそれよりも尚残酷だ。
目の前の女房の姿が、自分にだけ見えていない。
あれは、あの絵の具は、そういう代物なんでございますよ。
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