4人が本棚に入れています
本棚に追加
仕事帰りに買ってきたスーパーの袋をローテーブルの上に置いたままの私は、ベッドの上でうつ伏せになったまま動けないでいる。
屍のようだ。水槽から飛び出た金魚が生きる術を失ったみたいな。
だけれど私の頭の中では断続的に思考が行われているから、やっぱり生を実感せざるを得ない。
──私は何をしているのだろう。
浮き上がった疑問にあっという間に涙腺が緩みそうになって、それだけは阻止しないといけないと思い、僅かに残された体力と気力によって、自身の体をベッドから引き離す。立ち上がった私は、放置されたスーパーの袋の中からカップ焼きそばを取り出して、深々とため息を吐く。
木曜日の夜は、憂鬱を一層とさせる。まだ明日があるから気は張り続けているし、対して週末は時間を持て余している。
二十八歳、独身。どうしてこっち側に来てしまったのだろうと、私が勝手に決め込んできた境界線が今となっては忌まわしい。
せっかく立ち上がったのに、私はもう一度ベッドに引き戻される。かろうじて寝転がることはせずとも、一度着地したここは座り込むにも丁度良いのだ。今までもこうして思考してきた。特に、四ヶ月前に樹と別れてからは幾度も。
長谷川樹とは、職場から少し離れた場所にある個人経営のコーヒーショップの店内で出会った。私も彼も、客だった。
当時二十七歳だった私は決まって金曜日の夜、ご褒美と称してこの店のカフェモカを飲むために赴いた。チェーンのコーヒーショップで飲むカフェモカとは違って、香ばしくも甘酸っぱさを感じるコーヒーの新しい味覚と出会い、虜になった。そこに乗せられた生クリームと、海外メーカーの物だと言うチョコレートソースの濃厚さに、疲労感はすっかり溶けていった。
カウンター席に座ってオーナーと話すようになった頃、私から二つ離れた席に長谷川樹は座った。あちらの方も常連さんなんですよ、とオーナーは私と彼をまるで引き合わせるようにして伝えた。
オーナーの気遣いを中心とした会話が始まって、私と彼は極めて自然に目を合わせて笑い、いつしかオーナーが一時場を離れても二人だけで会話を始めるような仲になっていった。
閉店間際まで会話が弾み、二人同時に店を出た時、「改札まで送ります」と律儀に言った彼とは、その日に連絡先を交換した。改札を進んで電車に乗り込んですぐ、遠慮する間もなくLINEが届いていた。「よければまた今度、話しましょう」と。とてもスムーズな展開だった。
別のコーヒーショップやカフェダイニング、静かな居酒屋やバーにも行って、食事を数回重ねた頃、「付き合ってください」と、九歳年上の彼はこの先の未来も含めて宣言するような真っ直ぐな声で言った。頷かないわけがなかった。
樹は、毎週金曜日の夜に私の住むアパートに泊まりにきた。どうしても仕事に追われているときは、遅くとも土曜日の昼までには来るようにしてくれていた。
彼のマメな気遣いに愛されているという実感が湧いて、当時の私は何も悩みなんて無かったと思う。あったとしても、週末に樹が全て忘れさせてくれた。
平日は毎日LINEをして、電話もそれなりにしていたから、寂しいなんて感情とはほぼ無縁に近かった。きっとこの人が私を幸せにしてくれるだなんて、傲慢ささえ抱えるほどに。
二十歳の時から一人暮らしをしていると、樹は言った。楽しいという気持ちも高じて、彼にとっての料理とは自然とする行為の一つであったらしく、私の家に来ては狭いキッチンに二人並んで、あらゆるものを作ってきた。
彼が最もこだわっていたのは、味噌汁だ。真っ黒な四角い物体を袋から取り出している姿を見たとき、私は「それ何?」と眉間を寄せた。彼は、え? と目を見開いたあと、「昆布だよ。真昆布」と言った。
「え、それ入れるの?」
「うん。粉末のと全然違うから」
面倒じゃないの? と喉から出そうになった言葉を飲み込んで、私は彼が真昆布を鍋に入れて、じっくりと火をかけている様子を黙って見続けた。
昆布を湯から引き上げるタイミングというのが大事らしく、彼は隣に私が居るのをまるで忘れているかのように、目の前の真っ黒なこの物体に没頭した。
そして昆布から慎重に出汁を取ったこの味噌汁は、私の中で間違いなく人生で一番美味しい味噌汁となったのだ。その日から味噌汁は、樹の担当となった。
半同棲という聞き心地の良い言葉に完全に酔いしれていた頃、私はずっと我慢してきた期待を言葉に乗せた。夜ご飯を食べ終えて、二人で缶ビール片手にチーズとナッツを摘んでテレビを見ていたときだ。少しだけ、彼に近寄って肩が触れ合いそうな距離感まで持って行って、
「私はずっと、一緒に居れたら良いなあって思ってる」
間があって、私は少しだけ不安がよぎって、彼の横顔をちらりと覗くように僅かに首を動かした。
「そうだね、俺もそう思うよ」
膨らまし続けた期待をとうとう爆発させそうになった手前、樹は言葉を続けた。
「だけど俺はさ、結婚があんまり良いとは思ってないんだよね」
嘘でしょう、と冷えていく心のまま私は床を見続けていて、樹がまるで用意していたように「ごめんね、もっと最初から言うべきだった」と冷静に現実を告げた。
それからも彼は変わらず優しかったし、別れを匂わせることは一度もなかったけれども、これ以上彼に近寄っては駄目だ、私は自分が描いてきた人生設計を今からでも取り戻すべく行動に移さなくてはいけない。葛藤の末、一年を超えること無く、私は吐き出すように言葉も涙も溢しながら、この部屋で別れを告げた。樹の目にも涙はあったけれども、仕方がないという感情の方が感じて取れた。きっと今までにも、別の人と似た経験をしたかのような雰囲気を持って。
いけない、と今度こそ思い切り、私はベッドから立ち上がってポットに水を注ぎ、スイッチを入れる。たったの一分程でお湯が出来上がるから、一人暮らしの私には欠かせない。
カップ焼きそばの蓋を開けて具を麺の上に放り込んだとき、ふと、冷蔵庫の中が気になった。
今月は仕事が大詰めでほとんどキッチンには立っていないけれども、先日の日曜日に念のためにと玉ねぎとにんじんを買っていたことを思い出す。
冷蔵庫を開けるとほぼすっからかんだ。だからこそ玉ねぎとにんじんが誇張して見えて、そうしてそういえば乾燥ワカメもあったなと気がつく。
まるで連想ゲームのように冷蔵庫の隣のキッチン棚を開けて、あ、と小声を出す。
使いかけの真昆布に、未開封の利尻昆布の袋。樹が置いて行ったものだ。久しぶりにまじまじと四角い物体を見つめる。何にも染まらない、ただの真っ黒な塊。だけれどこれが、美味しくなる魔法の素だ。
──私は何をしているのだろう。
作ろうとしていたカップ焼きそばを一旦中断して、片手鍋に水を張り、利尻昆布の封を開ける。キッチンペーパーで昆布の表面についた汚れを拭き取り、すっと水の中へと滑らせ入れた。そうして、火をつける。弱めにだ。ポツポツと小さな気泡が出るまでじっと待つんだよと、樹の声が記憶の中から聞こえてくる。何度もその手元を見てきたから、行程は全て覚えている。
昆布を持ち上げるまでの間、じいっと見つめながらも頭の中は思考が巡り続ける。
二十八歳。どこに向かっていくのだろう。
すっかり結婚するものなのだろうと思い込んでいた。そうしていないと、不安で仕方がなかったから。あまりにも呆気ない幕の閉じ方だったなと、昆布に少しずつ気泡が現れていくのを見届けては思う。記憶が蘇って、感情が真っ黒に染まりそうになる。期待させておいて、って。自分が勝手に、彼の年齢に期待していた癖に。
二十代前半に思い描いていた人生設計は、どんなに遅くとも二十八歳までには結婚し、どんなに遅くとも三十歳までに第一子を授かるというものだった。
けれども二ヶ月後に私は、二十九歳になる。結婚よりも婚約よりも同棲よりももっと手前の、相手が居ない。
私はまた誰かを愛して、誰かに愛される未来があるのだろうか。人と共に住む、を体現することが出来るのだろうか。
思考の渦に囚われかけていた刹那、昆布の周りの気泡が増し、湯が沸騰しそうになりかけていることに気がついた。私は慌てて火を止めて、菜箸を手に昆布を救済する。湯が熱くなりすぎてぬめりが出ると良くないから、その前に引き上げるんだよと、再び樹の声が蘇った。
出来上がった出汁は、上品な香りで満ちている。利尻昆布は京都料理に合うのだと言っていた。澄み切った色が美しいとも。
私はそのまま、切った玉ねぎとにんじん、豆腐に乾燥ワカメを加え、味噌を溶かした。彼が一番お気に入りと言っていた無添加の味噌だ。麹の粒がたっぷりと入っている。
火を止めて、椀に一杯を装う。立ち上る湯気に空腹を覚えて、私は一口、その場で含んだ。優しい、というのが第一印象だった。そして、丁寧に作る一杯はこんなにも美味しいものなのかと、久しぶりの味に懐かしさを覚える。
──優しい。そう、彼も優しかったのだ。
仕事終わり、自分だって疲れているだろうに夜な夜な作ってくれた日が何度あっただろうか。
たった一杯の味噌汁。だけれども、そこに少しの手間を加えれば、回復薬となる。
カップ焼きそばと合わせるなんてデコボコな食卓だけれども、それだって良い。無いよりは、有ったほうが断然に良い。
もう一口と口に含んだ時、涙が右頬を伝った。そうして思う。……私だって、たまには美味しい味噌汁を作ろうと。自分の体のことだけを考えて、私はゆっくりと味わうように飲み込んだ。優しくて温かくて、それだけでもう、充分だった。
最初のコメントを投稿しよう!