パーン・パニックス

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 なんと、レジカウンターの裏側に隠れた店員に向かって「虎」が迫り来ているのである。 地震が起こり、瓦礫の街となりつつあるとは言えここは街中。 何故にこんなところに虎がいるというのだろうか。震災時には動物園から猛獣が逃げたという話がつきもので、大体がデマだ。過去の震災でも誰が言ったかも分からないデマが流れSNSを中心に右往左往したと言う。 しかし、今コンビニの中で店員に迫りくるのは正真正銘本物の虎。体高はレジ程度、鼻先から尻尾の先の全長は二メートルを超えるかもしれない。虎としては小型であるが、人間からみれば大柄な猛獣である。 あんな虎に襲われようものなら、普通の人間なんて数分で僅かな肉片がこびり付いた白骨死体と化するだろう。蓮人はただのサラリーマン、虎と戦えるようなスーパーマンではない。 店員には申し訳ないと思いながら、回れ右のコッソリ脱兎。その一歩を踏み出した瞬間、蓮人はガラスを踏みつけてしまった。 パリン……!  その音を聞いた瞬間、虎は耳をピンと立てる。 そして、ぐいーっと(おもむろ)に蓮人の方へと振り向いた。標的(エサ)が自分から蓮人に移ったと考えたのか、店員は自分が助かったという安堵感と、身も知らぬ誰か(蓮人)に対する罪悪感がせめぎ合う中、腰を抜かしてしまう。  虎は唸り声を上げ、威嚇の咆哮を上げる。鼻詰まりの牛を思わせる虎の咆哮が耳に入ってきた瞬間、蓮人は全身を震わせる。まだヒトが進化前の真猿類だった時期に猫型の食肉目に捕食されてきた仲間達(そせん)の記憶が進化の過程で累々と繋げてきたDNAの遺伝情報にでも残っており、それが震えを起こすとでもいうのだろうか。 虎に限らず獅子や豹のような巨大食肉目の声を聞くだけでヒトが恐怖心を覚えるのは不思議なものである。  動物園の鉄檻や強化ガラスを挟まずに虎と対峙するのは生まれて初めてのこと。おそらくは最初で最後であろう経験を前に蓮人は意味のわからないことを宣ってしまった。 「その声は、我が友、李徴子ではないか?」 蓮人はパニックを起こし、素っ頓狂にも中学時代に国語の時間で朗読を行った山月記のセリフを口走ってしまう。虎は暫しの沈黙の後、ゆっくりゆっくりと迫りくる。 迫りくる虎を前に蓮人は後退りをするが、恐怖で体が震えながらのもので足が縺れて尻餅をついてしまう。 「如何にも自分は隴西(ろうせい)の李徴である」という理性的な答えは返ってくる筈もなく、虎は恐怖で震えさせる程の猛々しい咆哮を上げた。 それから、口を大きく開き二本足で立ち上がり両腕(りょうかいな)の先端に輝く鋭い鉤爪を出して蓮人に向かって振りかぶる。 これから血に染まると予約の入れられた乳白色の刃が空を引き裂いていく。
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