プロローグ

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プロローグ

主人公の松岡裕二は1948年(昭和23年)生まれ。 いわゆる「団塊世代」のど真ん中に当たる。今でも最も人口が多い年齢層。 その松岡裕二の記憶は、父の実家である浅草鳥越にある商家の敷地内にある社員寮の一室から始まっている。1952年(昭和27年)の頃のことであった。 この年の日本は、敗戦国の疲弊した経済から脱するため、金融政策の第一歩として「国際通貨基金」と「世界銀行」に加盟する。 前々年からの「朝鮮戦争」の勃発による戦時特需もあって、我が国は敗戦の苦境を脱する体力はまだないものの、俄かに希望と活気が溢れだしていた頃。 裕二の父の松岡庄作は、アクセサリー、装身具、雑貨などを扱う大店(問屋)の六男の末弟。ただ兄3人が病死や戦死する中で、実質的には三男と言えたが末っ子であったため我儘で苦労知らずの人間。 その大店の敷地内に庄作と妻、子供の裕二が横浜市から転がり込んで来て、家族3人で居候をしていた。 少年の生まれは、横浜市西区藤棚町。 その後には、実母の実家である同市の神奈川区子安町に祖母と4人で暮らす。 両親のそもそもの結婚の経緯は、従軍看護婦をしていた実母と学徒出陣後に退役していた父とが、引き揚げの内航船の中で知り合って結ばれたもの。 従って、庄作はまだN大学の学生であり、就労の経験のない若者だった。 二人はいわゆる<できちゃった婚>で、裕二が生まれた後に正式の婚姻届けを行っている。 翻って、松岡本家の社員寮の一室において離婚を強制的に迫る父は、それを頑として拒む正妻をその大きな素手で殴りかかっていた。 妻は、すぐさま畳に崩れて倒れこむ。 さらに大男の父が襲いかかろうとしたとき、幼稚園児であった息子の裕二は、室内用の箒(ほうき)の長い柄を振りかざして懸命に父を背後から叩いた。 この幼子の意外な挙動に驚いたのか、父は妻への暴力を止めて部屋から出て行った。 まもなく裕二の両親は別居し、息子の祐二は父親に強引に連れられて、台東区根岸に住んでいた愛人宅の小さな借家に移り住んだ。 そこは竹やぶに囲まれた別荘風の佇まい。 下町の根岸には、文人や噺家が住んで江戸時代の名残がある文化的な香りがする下町の風情がある。 父の庄作はそこで愛人と婚約を結び、息子の祐二は、実質的に継母となった若い女性に育てられることになる。 但し、父と愛人との「婚約」や「結婚」は正式のものではなく、実態として夫婦生活を送っていたもの。 つまり裕二の母と父は離婚が成立しておらず、法律的には夫婦ではなかった。 この事実を裕二が知るのは、交通事故で瀕死の重傷を負った後の20歳の頃。 この背景には、裕二の実母が父との離婚を拒み続けていたため、離婚が成立していなかった事実があった。 まさに実母と継母との女の戦いが、数年以上も続いていたのである。 当時幼子の裕二には当然のこと、そういった実情と法律的な背景があったことは全く知らない。 従って、実質的に父と愛人の3人暮らしが始まって以来、裕二は継母となった田辺順子を新しい母として「お母さん」と呼んでいた。 順子が産みの母親でないことは自覚していたが、ただ実母の顔やその声もうろ覚えの状態にあった。 その母の顔は当時の女優の<小暮実千代>に似た面影だけが、うっすらと頭の片隅にあっただけだった。 その後の父の庄作は、祖父から暖簾分けとして開業資金をもらい、深川清澄町に新居を兼ねた装身具店を開業する。 そして1955年(昭和30年)4月、祐二は深川の白河小学校に入学する。 その直後、この地で継母の順子は女の子を産んだ。 それを契機にして、祐二は両親からのけものにされ始める。 元々、彼は発達障害があったためか、日常生活の行動が緩慢でいつも鼻水を垂らしていた。 性格は無口でおとなしい。体も大男の父に似ず、小柄で痩せこけていた。 食事や入浴などで粗相を起こすと、父と継母から罵声を浴びせられて折檻を受けた。 やがて、早々と装身具店の「松岡工房」は倒産。 放漫経営のうえに、店員に店の金を持ち逃げされた。 それを皮切りにして、その後の祐二は小学校を6度も転校することになる。 当然、その度に引っ越しをしていたから、松岡一家は、まさに絵に描いたような「引っ越し貧乏」を地で行く窮乏生活を繰り返す。 その中で稼ぎのない自分への怒りも手伝って、庄作の精神は病んでいった。 妻や子供に対する暴力だけでなく、親戚、知人、友人、勤務先など接する人々に危害を加え、警察沙汰になることも度々。 住んでいた近隣とのトラブルも、転居を繰り返す要因の一つ。 さらに、いつしかアルコール中毒症にもなっていた。 転居先は、東京近郊を転々とした。 東京では台東区の浅草鳥越を皮切りに、根岸、江東区清澄町、都下北多摩軍の国分寺町、西多摩郡の福生町、千葉県では市川市の北方(ぼっけ)、鬼高、船橋市本郷などと、引っ越しと祐二の転校が続く。 これらの転居が連続した理由は、父の仕事の関係だった。 一般的な転職や転勤ではなく、そのほとんどは仕事につかず明日食べる米が米櫃(こめびつ)の底をつくと、祖父や兄弟の縁故を頼って働きだすというパターンであった。 その結果、祐二の家族はどん底の貧乏暮らしを強いられていた。 継母の実家を含め、親戚などから借金することは日常茶飯事。 父は双方の親戚から、怠け者の暴力男として嫌われていた。
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