はじめに

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はじめに

当『手編みのネクタイ』は、前作の『星屑の聖橋』の二次創作作品。 相違点は、結末を悲哀からハッピー・エンディングに大きく転換。 双方とも、筆者の青春時代の実体験をベースにする創作小説で舞台は昭和の時代。 但し、「昭和」と一口に言っても、その64年間に及ぶ構造は大きく異なっている。 それは、3段階に大別できる。 ①太平洋戦争以前の軍国主義の時代、 ②敗戦によって焦土化した国土の経済復興に傾注した時代、 ③人口増加、技術革新などによる高度成長によって、生活水準が欧米並みに高まった時代。 さて主人公の裕二と亮子は、1948年(昭和23年)の生まれで、所謂「団塊(だんかい)世代」のど真ん中に当たり、我が国で最も人口が多い世代。 つまり当小説の舞台は、終戦後の上記②の昭和時代になる。 多くの子供達が栄養失調で欠食児童という実態の中で「貧乏人は麦を食え!」と時の総理大臣が唱えていた。 その庶民の生活は、スマホもまだポケベルすら普及していなかった環境下にあり、当時の生活や文化に違和感を抱く読者が多いかもしれない。 例えば当時の物価を振り返ると、りんご、豆腐、キャラメル、マッチは20円、固形石鹸30円、入浴料10円、たばこ15円、映画55円、運動靴280円などで、初任給は巡査1800円、公務員2,300円などとなっていた。 やがて、その後に欧米文化と科学技術が流入すると<三種の神器>と言われたテレビ、洗濯機、電気釜に加えて自家用車などが普及する。こうしたことで当小説は、戦後日本における団塊世代の恋愛模様を基軸にて展開してゆく。 こうしたことから、団塊世代の次にはバブル世代、ミレニアル世代、X世代、Y世代と変遷し、現在の若者のα世代へと変化している。 相次ぐ技術革新によって、若者達の新聞、テレビ、車離れが進むとともに、IT化やデジタル化が急加速し、その青春期における恋愛模様は大きく変幻している。 翻って、主人公の家庭は当時の一般家庭と比較すると、それよりも格段に貧しく、少年は通学よりも家事を強いられ、その家庭生活や学校生活は異常な状態にあった。 具体的には、貧乏暮らしと家庭内暴力(折檻)、継子虐め(差別)などである。 また義務教育下でありながらも、一度として親から登校や勉強を命じられることもなかった。こうした全く自由のない半封建的な家庭生活の中で、家事や子守などを強いられて少年時代を生きてゆく。そのため止むを得ず、塀の中の児童相談所にも入所している。 貧しくて気弱な少年が生きていくことは、常に艱難辛苦が伴い砂を噛むような辛酸の連続であった。 さてこの根本的な要因は、主人公・裕二の父親にある。 彼は中流階級のボンボン育ちで、苦労知らずの我儘な人間。 この奔放な父親はまともに働かないため、その家族は浮浪者一家に近い貧乏暮らしが続く。 その殺伐とした逆境の全てを語り綴ることはできないが、はっきりと言えることは「事実は小説よりも奇なり」だという事。 例えば、小学校の転校歴では(全て旧名)、①江東区立・白河小学校(入学)→②国分寺町立・国分寺第二小学校→③市川市立・若宮小学校→④市川市立・鬼高小学校→⑤福生町立・福生第一小学校→⑥国分寺町立・国分寺第二小学校(卒業)となっている。 なんと6年間に、6回も転校を余儀なくされている。 だが、そうした苦境の中で思春期を迎えると、異性と身も心も通じ合って、死ぬほど愛し合う恋愛を経験する。それまでは生きる屍のように宿命に流されるままだったが、中学生の時に野菊のように素朴で心やさしい農家の九女と身も心も触れ合い愛し合うようになる。 しかし、相思相愛の二人に不運が重なってその熱愛は遮断されてしまう。 果たして、二人の恋愛は成就するのであろうか。 そして、二人の愛の印は表題の<手編みのネクタイ>だった。 最後に、現代の若人にとっては時代錯誤の異質の恋愛模様かもしれない。 それでも実際に存在していた「愛すること、愛されることの美しさ」の一端を、現代の若人にも知っていただければ望外の喜びになる。     ガンリィ・ジョンジー
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