3.大都会

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3.大都会

東京に出た松岡祐二は、印刷屋に就職した。 その印刷屋は、印刷屋と言っても印刷機や裁断機がない事務系の職場。 いわゆるブローカー業で<企画印刷>を看板に掲げる零細企業。 得意先から印刷物の注文を受けると、洋紙店に印刷洋紙を発注する。 さらに裁断所で必要なサイズに裁断してもらう。 続いて印刷機を所有している町工場に紙を運搬し、印刷をしてもらう。 最後は製本屋で仕上げて、得意先に納品する流れだった。 (1)社会人 祐二の仕事は、少額、少量規模の印刷物の取り扱い。 それでも、業務工程全般を担当した。 得意先の新規開拓の必要はない。 但し、決められた得意先を回り、印刷物の注文をもらい営業活動を行う。 さらに下請け工場で印刷、製本をするための業務指示などを行う。 この仕事は夜学の編入試験の当日に、校内廊下に張り出されていた求人案内で知った。 翌日に、すぐ面接を受けた。 人手不足のおり、即決で入社が決定した。 祐二に住まいがないと知った社長は、すぐに小岩に一間のアパートを借りてくれた。 家賃は祐二が支払うが、敷金などは会社負担で支払われた。 また営業と業務運営の外回りを担当することから、専用のオートバイが用意された。 オートバイの使用は、ガソリン代は会社の負担。 但し、特別の許可を得て、通学や通勤にも利用することを許された。 得意先との折衝では、平身低頭の営業トークを駆使しなければならない。 無口で大人しかった少年は、社会に出ると意外にも環境への順応が早かった。 さらに、愛想も良く人当たりの良い立ち廻りをすることができた。 従順だった性格が誠実な人柄に映り、人当たりの良い営業マンに見えた。 一代で資産を築き上げた、商家の祖父に似たのだろうか。 ともあれ祐二は、何の苦も無く実社会に溶け込んでいった。 その一方で、閉口したのが印刷工場に関する対応だった。 工場では、職工に直接指示をするのだが、職工には職人気質がある。 こちらがお得意様でもあるのにも関わらず、職工にはそんな商売関係の職階は全く通じない。 活字の大きさや種類を言い間違えると、すぐに反発の声が飛ぶ。 「そんな活字があったらお目にかかりたいなあ~」 「うちにはそんな活字はないから、他でやってもらえ!」と喧嘩腰の態度。 自分が年下なので、常に怒らせないよう下手に出る低姿勢を貫いた。 何があっても頭を下げて謝り、何とか作業を進めた。 その実直で丁寧な対応は、次第に効果を発揮する。 勤めて半年も経過すると、職工の人々は彼の低姿勢に気脈を通じてくれた。 職人の人達は、本当は優しい人ばかりなのかと思うほどの変わり身だった。 次第に、人情味のある会話が交わせるようになる。 例えば、祐二の上司の指示とは異なる印刷方法を逆提案してくれる。 また専門家の新しい印刷技術の手解きを受けられるほどに可愛がられた。 彼らは、上から目線の指示にはものすごく反発を示す。 しかし、その腕を期待するように低姿勢で依頼すると、渾身を込めていい仕事をしてくれた。 顧客の難しいカラー色の注文には、職工の長年培った技術と勘が生かされる。 彼らは熱意をもって、祐二のこの難題をこなしてくれた。 こうして祐二は、印刷屋としてのノウハウを比較的短期間で積み上げた。 1年もすると同業他社や得意先から、引き抜きの声がかかるほどに成長した。 まだ高校生の学生身分だったが、大人社会の中で一定の信頼関係を保つ人間になっていた。 さらに短い会話の中で、僅かな言葉の端からも相手の心理を読み取れるような洞察力も兼ね備えていった。 (2)ミッドナイト・ハーフ 実社会に馴染んだ頃、祐二は深夜に六本木のサパークラブで給仕のアルバイトも始めた。 サパークラブと言っても、三流のホストクラブ。 店名は「ポンギー」。 溜池から六本木通りの坂を登り、六本木の交差点の手前を左折した一角に店があった。 深夜でも人々が行き交う、裏通りの繁華街でもあった。 店の近くには、しゃぶしゃぶ料理で有名な『瀬里奈』がある。 現在はないが、当時一世を風靡したディスコ・パブの『最後の20セント』も近くにあった。 亮子と再会後の結婚資金のためと、義妹や義弟への仕送りの必要もあった。 より高い収入を求め、新聞広告で応募した。 夜間に2、3回の勤めだった。 店の早番の際には、級友に授業の代返を頼みオートバイで六本木に向かった。 深夜勤務の時には、学校の授業を終えてから勤務した。 店ではホスト、ホステスのほかにオカマもいた。 それらの従業員が歌ったり、踊ったりするショータイムもあった。 祐二は、そこで下働きのボーイとして働いた。 「ポンギー」では、人気ナンバー・ワンのホステスと親しくなった。 祐二よりも一歳年上のハーフの美少女で沢村レミという。 レミは1メートル70センチを超える長身の元モデル。 裕二は、そのスレンダーなボディに魅かれた。 彼女は未成年なのに、男のように豪快に酒をあびる。 その心意気にも、祐二の心は揺さぶられた。 レミは秋になると、赤いベレー帽をかぶり、胴を細めたミリタリージャケットを羽織る。それにスリムジーンズと革のロングブーツを履いて闊歩する。 冬になると、毛糸の帽子にウェストを細めた厚めのセーターを羽おる。 所謂<モッズ・ファッション>で、流行の先端に立った服装で人目を引く。 見た目は、ほとんど外国人そのもの。 ただ、英語はできない。 整った<うりざね顔>の白い肌に映える青く美しい瞳。 スタイルも抜群。 おまけに、気質は男のようにきっぷがいい。 明るく大声で笑い、ステージでは蝶のように舞う。 さらに豪快に酒を飲み、煙草を吸うポーズも堂に入っている。 何をしても格好がいい。 当然、店では並みいるホストよりも、指名が多い実力者であった。 支配人、ホスト、ホステスなどからも、一目置かれる女王のような存在。 祐二も給仕をしながら、どうしても彼女が動く方向に視線がいってしまう。 ただ彼女のプライベートは、謎に包まれていた。 女優のように美しくモデルのようなプロポーション抜群の美少女が、何故六本木でも場末のこの店で、水商売の世界にどっぷりと浸かっているのか、彼には不思議に思えた。 ヤクザの情婦でもしているのか。 何か深い事情でもあるのかと、脳裏の片隅では疑問を持っていた。 クラッシュ・ボール 師走に入った早番のある夜。 祐二は、いつものように一番乗りで店に入った。 グラスなどの食器を洗い終わると、テーブルや椅子を整理して床の掃除にかかっていた。そこへ、いつも遅い出勤のはずのレミが入ってきた。 「おはよう!」 レミは大きな声で言い放ち、清掃している彼の横を大股の速足で駆け抜けた。 いつもの濃い香水の匂いは、しなかった。 かわりに、若い女の甘く柔らかそうな肌の匂いが、一瞬の空気に残った。 祐二はその美少女の匂いに魅かれて、下半身が小さく震えた。 その場で立ち尽くし、モップを動かしている手が止まってしまった。 レミは店の奥にあるカウンターの上に、大きなデイバッグを乱暴に置いた。 丸椅子が並ぶその一つにすばやく腰を乗せ、長い脚を組んで彼の方に体の正面を見せた。 ブロンドの髪は、後ろに髪留めで無造作に結ばれている。 束ねられた長い髪が、左肩から胸前に流れていた。 顔は、素顔のままだ。 化粧をした顔よりも濃淡がないけれど、それはそれで天使のように清楚だ。 美しい。 冬なのに、白いタンクトップにジーンズ、踵の高いサンダル履きの軽装。 湯上りと、人目で分かった。 その艶めかしい姿に、すっかり目を奪われてしまった。 おそらく、店に近い麻布の銭湯にでも寄ってきたのだろう。 輸入たばこに火をつけて、大きく一服した彼女は、 「松岡ク~ン、クラッシュ・ボール作ってくれな~い」 祐二はモップを持ったままレミに近づき、 「クラッシュ・ボールですか?」と、聞き返した。 「クラッシュ・ボール作れる?」 彼は「作ったことはないけど、教えてくれれば作れるかも」と答えた。 レミは微笑みながら、「簡単よ、氷にウィスキーを入れるだけよ」 「ロックですか?」 「ロックは氷だけど、クラッシュ・ボールは、クラッシュ・アイスにウィスキーだよ」 「クラッシュ・アイスって?」 「かき氷だよ、ほらそこにあるから」 彼女は、カウンターの奥下にある冷蔵庫を指さした。 祐二は、モップを床においてカウンター奥のシンクに入って、冷蔵庫からかき氷を出してグラスに入れた。 それを覗いていたレミは「大きめのグラスにして頂戴!」 強めの口調で言い放った。 彼は、短く「はい」と即答した。 Lサイズのグラスにクラッシュ・アイスをたっぷり入れて、ウィスキーを流し込んだ。 どの位入れていいのか、分からないので少なめに入れてみた。 すると「もっとウィスキー入れて、6分以上だよ、どうせ溶けるのだから」 と言った。 内心驚いたが、指示どおりにウィスキーをさらに注ぎ足した。 「はい、どうぞ」 カウンター越しに、グラスを彼女に手渡した。 たばこをもみ消すと、彼女は顎を大きく上げて一気にそれを飲み干した。 まだウィスキーは、それほど氷に解けていない。 従って、ほとんど冷たいウィスキーをストレートで飲んでいるのに等しい。 「ああ~あ、うまい!・・・お代わり~、ウィスキーを足すだけでいいわ」 一段と大きな声で、お代わりの注文がきた。 「あっ、はい」 彼は言われるままにグラスを受け取り、再びウィスキーを注ぎ込んだ。 レミは立て続けに、豪快に2杯目のクラッシュ・ボールも一気に煽った。 (すごい!) 彼は、その豪快な飲みぷっりに驚いた。 「お代わり!!」 嬉しそうに弾んだ声が、静かな店内に響き渡った。 グラスをしぶしぶ受け取った彼は恐る恐る言う。 「ビールじゃないから、もう止めたら体に良くないよ」 咎める言葉を小声で言った。 「大丈夫よ、喉が渇いているのよ。早く頂戴!」 しかたなく3杯目のクラッシュ・ボールを、そっとカウンターの上に置いた。 その時グラスを受け取る彼女の柔らかく長い指が、グラスとともに祐二の手に触れた。 それは、偶然には思えなかった。 僅かだが、意識的に触れられた気がした。 すると彼女は、グラスを手にして椅子から降り、すくっと立ち上がった。 そして、立ったまま3杯目を一気に飲み干した。 飲み終えると、グラスを叩くようにカウンターに置いた。 そして、スタスタとロッカーのある従業員の更衣室に消えていった。 これが、レミと初めて交わした会話だった。 店では名前で呼ばれることもなく「ボーイさん」が給仕の呼称であった。 この美少女は、どうして自分の名字を知ったのだろうか。 店で松岡の名前を知っているのは支配人ぐらい。 小さな疑問だった。 だが、むしろ自分の名前を憶えてくれたことが、内心嬉しくもあった。 この時点では、美少女に対する気持ちは異性に対する思慕ではなかった。 あくまでも美しく咲乱れる花に、憧れる気持ちに似ていた。 二人だけの正月 祐二は、亮子のことを思わない日はなかった。 正直、寝ても覚めても瞼に浮かぶのは、素朴で一途な亮子の笑顔。 ただ、今は不思議な魅力を放つレミに対して心が動きかけていた。 肉体関係を結んだ継母の順子、初恋の久美子、愛する亮子にはない不思議な魅力があった。 その愛する亮子を裏切る時は、そう遠くはなかった。 暮れもさし迫り、ポンギーではその年の最後の営業日を迎えていた。 客の入りはクリスマスと比べると少なかった。 いつになく従業員の全員がせわしく働いていた。 まだ閉店には間があった。 客たちが、三々五々消えていく。 するとホストやホステスたちが、一年最後の大清掃にかかっていた。 平常では、清掃は給仕の仕事になる。 だがこの日は、普段手が入れられていない厨房、更衣室、倉庫の掃除を全員で分担して行われていた。 祐二はテーブルや椅子を整理すると、逆に手持無沙汰になってしまった。 そこで、レミの姿を見つけて手伝うことにした。 彼女は、更衣室でロッカーのほこりを雑巾でふき取っていた。 「手伝います!」 裕二が声をかけると、タオルを姉(あね)さん被りしていたレミが振り向いた。 「サンキュウ!雑巾はバケツの中にもう1枚あるから」 そう言って、笑顔を返してくれた。 30分ほど、二人は手分けして雑巾がけをした。 しばらくして「もう終わりましょう」 彼女が作業終了を宣言して、二人の共同作業は終わった。 彼はバケツにきれいな水を汲んで、座って雑巾を絞る。 すると、彼女も同じように屈んでバケツに手を入れてきた。 同じ姿勢で向き合った。 身長差で彼女の目線が上にあった。 祐二は、下からマジマジと相手の顔を凝視した。 レミは手を動かしながら「松岡クン、国はどこ?」と聞いてきた。 「日本」と答えた。 「バカッ、何を言っているのよ!生まれ、出身地よ」 「そうか、生まれは横浜だけど、東京、千葉を転々して、ジプシーのような生活で故郷がないの。ただ、親は千葉県に住んでいるけれど・・・」 「正月は、実家に帰るの?」 「いや、帰らない。というよりも帰れない事情があるの」 「へえ~っそうなの。チョット私と似ているね。私もこの正月は一人なのよ」 二人の会話は一気に弾んだ。 話の結末は、二人の正月の過ごし方に落ち着いていた。 「松岡クンの部屋に泊めてもらっていい?」 レミが<単刀直入>に切り出した。 「いいけど、狭くて汚いよ」 結果、二人は今日から正月の3日まで、共にすごすことに合意した。 彼女が正月に実家や今の住まいに帰れない理由は、分からなかった。 噂では、レミは大阪でモデルをしていた。 理由は不明も、上京後にはすぐにポンギーに勤めたそうだ。 その後は、水商売一筋になったと言われていた。 一方、目黒区で彼氏と同棲しているらしい、との噂もあった。 祐二は、彼女の過去や例え彼氏の存在が事実であっても、そのことには関心がほとんどなかった。 それよりも、今日から一人で侘しい正月を迎えるところを、絶世のハーフ美女と二人だけの時間に包まれることの期待に胸がいっぱいだった。 しかし、一つだけレミから約束を取り付けられた。 それは『レミのこと好きにならないで・・・絶対に本気で好きにならないと、約束してね』だった。 もうすでに、美少女に対して好意以上の気持ちになっていたが、祐二は理由も聞かずに黙って頷いて約束した。 セックスの拒否なのか?恋愛感情への発展を拒むものなのか? 瞬時にいろいろな推測が、脳裏を走った。 自分の心の中には、当然、亮子が不動の恋人として支配している。 そのことから、彼にとってレミの存在はそれ以上になるとは思っていない。 従って、彼女の<本気で好きにならないで>と言う申し出は、自分でも心の底で十分に納得していた。 (3)冷たく白い肌 12月30日の早朝、六本木は深い霧に包まれていた。 ポンギーの、簡単な仕事納めのセレモニーが終わった。 その後、片付けを従業員全員で終わらせ、皆帰宅の途についた。 祐二は店の近くの墓地脇に停めていたオートバイに乗り、店の前で待つレミを迎えに走る。 霧の中に、背の高い黒い影がライトに映し出された。 その影の手前でブレーキをかけながら「お待たせ!乗って」と、落ち着いた声で言った。 レミは濃い緑色の毛糸の帽子に、とっくりのセーターとタイトな黒の革ジャン、ブルージーンズといういでたちにデイバッグを背負っていた。 彼女が、後部席に跨るのをその重みで確認すると、 「レミちゃん、両手でしっかり摑まってよ」、 「オーケイ!」 少し遠慮がちに、祐二の胴の下に手を回してきた。 祐二は自分の手を後ろに向けて、彼女の手を掴んで強く自分の腹前まで引っ張り彼女の両手を合わせさせた。 レミの両腕が、しっかりと祐二の胴を押さえ込んだ。 オートバイは、小岩の彼のアパートとは反対の渋谷方面に出て、六本木の交差点を右折し、青山通りに向かって疾走した。 上気した顔に突き刺さる、冷たい風がやけに気持ちいい。 二人は、青山通りにある昼夜営業のスーパーマーケットの前で降りた。 正月休みの間の、5日分の食料と飲料などを買った。 買い物はすべてレミが行い、会計も済ませてくれた。 買い物の間、祐二は彼女の横に並んで歩いた。 並んだというのは正確ではなく、やや後ろの横を連れて歩いた。 そう、真横に並ぶとあまりの身長差が目立ち、気が引けたのだった。 買い物したレジ袋を無理やり彼女のデイバッグに詰め込み、二人を乗せたオートバイは一路小岩に向かった。 小岩の祐二の部屋に入ると、万年床のふとんが敷いたままになっていた。 それを、すぐさま三つ折りにして部屋の隅に押しやった。 代わりに隅にあった<ちゃぶ台>を中央に据え、小さな電気ストーブのスイッチを入れた。レミは真っ先に、小さな冷蔵庫に食料や飲み物を入れていた。 ちゃぶ台の前にあぐらをかいた祐二は、 「レミちゃん飲むでしょう?」と、彼女の背から声をかけた。 「飲みたくないの・・・」 ぽつりと、珍しく小声で答えが返ってきた。 デイバッグの荷物整理が終わると、彼女は、 「眠くなった。寝るわ」 「布団一組だけど、一緒でいいの?」 初めて、レミのいつもの高笑いが出た。 笑いながら、 「一緒に寝て抱いてよ・・・温めて欲しいわ」と言った。 そしてすくっと立ち上がると、小さな台所で洗面を始めた。 祐二はちゃぶ台を元の隅に置き、丸めたふとんを広げた。 洗面が終わったレミは素顔になって、 「お先に~、松岡クンも洗ってきて」と促した。 洗面しながら、背中で服を脱ぐ気配を聴いた祐二は、その音から彼女がすべてを脱いで全裸で布団に入ったと感じた。 窓辺からは、うっすらともう朝の陽光が入っていた。 彼も服を脱ぎ捨てて、すぐにふとんに潜った。 小さなふとんなので、二人が入ると体の多くが触れる。 すぐに、裸身であることが確認できた。 レミの体温が低いのか、肉体の暖かさをあまり感じない。 むしろ冷たい肌だった。 彼女は、頭からすっぽりと布団をかぶっていた。 長い脚が、ふとんからはみ出しているのではないかと思った。 それを確かめるように、体を下に潜らせて自分の足を彼女の足に絡めた。 レミの脚は、ふとんギリギリで止まっていた。 その足先に十分ふとんがかかるように、頭までかけている掛けふとんを下にずらした。 僅かに射す陽光のまぶしさを、避けるようにレミは大きな瞳を閉じた。 祐二は左向きになり、彼女の上半身に体を寄せた。 唇をすぼめて、相手の唇の中心部分だけに触れるフレンチキスをした。 きちんと閉じられた唇は、薄くて清潔感があった。 ただ冷たい唇だった。 祐二は、改めて熱い口付けをした。 舌を絡めて強く吸い、自分の口に引っ張り込む。 そして舌を緩める。 二人の口から、ヨダレがあふれ出した。 男が口を放して、ため息をついた。 女の両腕が伸びて、男の頭を巻いた。 下から男の顔を自分の顔に引きつけ、自ら口を大きく開き鼻までも食べてしまう勢いで男の唇全体を吸い込んだ。 男は女の両腕を上げさせ、その脇の下に舌を這わせた。 舌は連続技で、鎖骨を舐めながら胸元へと進んだ。 胸は、顔色よりもいっそう白く、血管も青白く透けて見える。 静けさと気品が漂い美しい。 この後、男は長い愛撫を丁寧に繰り返した。 「熱い、すごく熱い!」 女は突然叫んだ。 男は顔をあげて、口の中に唾液を溜めてキスをした。 唾液を女の口に移すと、女はそれを飲み込んだ。 ようやく、女の体が温まったようだ。 男は、伏せる女の体に覆いかぶさっていった。 激しくも長いセックスだった。 しばらくしてから、男は女にたずねた。 「イッタの?」 「もちイッタわ、痺れ放しだった、松岡クンうますぎる、こんなに続けて何回もイクの初めてダヨ」 「そうだったの、全然感じてないと思っていた」 「まだ体中が火照っているの、休ませて」 そう言うとレミは、うつ伏せの裸身まま、顔の下に腕を組んで目を閉じた。 その翌日、祐二は食器を洗う水音と料理の匂いに目が覚めた。 ふとんから起き上がると、シンクの前に立つレミの後ろ姿があった。 祐二の白いワイシャツを着て、その上を束ねられた長いブロンドの髪が流れていた。 ただ、祐二のSサイズのシャツなので、臀部は半分ほどしか隠れていない。 最も肉がついている臀部の下の部分と、それをつなぐ長い脚が色ぽっい。 祐二は起き上がり、レミに近づきながら声をかけた。 「何を作っているの?」 「シチュウよ、まだ時間がかかりそうだから、寝ていてもいいわよ」 と言って、いそいそと手を動かしていた。 その女らしい後ろ姿に、欲情してしまった。 そばに寄って、臀部と腿の裏を撫でた。 「ダメよ、食事をしてからにして頂戴!」 いつもの強い口調が戻っていた。 でも無視した。 男の両の手は、太腿に伸びて撫でていた。 「本当にダメだったら・・・」 その声は、少し甘くなっていたが、それでも懸命に料理にかかっていた。 男は、女の横に立って体を寄せた。 身長差が10センチ近くもあるので、男の顔は女の首あたりにある。 背伸びをして、左頬にキスをした。 レミの美しい顔が微笑んだ。 「可愛いわね」と、言われた。 母親が子供に、キスをせがまれた気分だったのか。 祐二はその位置に立って、ワイシャツの中の背中に手を入れて、やさしく撫で始めた。 背中全体をゆっくりと撫でた。 そのあとは指を立てて、両方の肩甲骨を順番になぞった。 中央の背骨のラインも、上下になぞった。 「もうダメ、料理できない!」 困ったような声を出していた。 急所の背中をいたぶられて、体は疼き始めていた。 今度は背後に回り、シャツをまくり上げ全裸を晒した。 すぐに、背中にキスの嵐を見舞った。 次に舌を出して、唾液を混ぜながら全体を舐めた。 いつの間にか、レミの手は止まっていた。 それもシンクの端に両手を支え、何とか立っているようだ。 レミが顔を後ろに向けて、 「キスして」と言った。 祐二は少しよじ登って、唇を近づけた。 舌を出したまま、女は唇を求めた。 それに応じて祐二も舌を出した。 唇が触れ合う前に、空中で二人の舌が絡み合った。 初めに女が自分の口の中に、裕二の舌を引っ張った。 むさぶるように舌を捏ねて、喉の奥まで飲み込む勢いだった。 舌を巻かれたままの、長いディープ・キスが続いた。 その後、二人はシンクの下で激しく抱き合う。 男と女は我を忘れて、交互に馬乗りになって愛し合い続けた。 こうして、二人の愛欲の5日間はあっという間に終わった。 セックスして、寝て、起きて食事して、またセックスの繰り返しだった。 会話らしい、会話もなかった。 レミは、自分のプライバシーについては全く話さず、それらしい質問には遮り避けていた。 ただ、正月を二人ですごすことになった理由らしきことを、ぽつりと喋った。 同棲している彼氏が、神戸の実家に帰り独りになったと言う。 その時の表情が悲しい目をしていたので、何か深い事情があるように思えた。 そして祐二との別れも、レミらしいものだった。 正月休みの最後の午後、彼が眠りから覚めると彼女の姿はすでになかった。 荷物がないので帰った、と判断した。 あいさつもなく、消えるように去った。 ただ壁に『アリガトウ』と、ルージュで書き残されていた。 そして、二度と彼女には会うことはなかった。 病魔 六本木のポンギーの仕事初めに出勤した日、レミは珍しく休んでいなかった。 さらに最初の一週間が過ぎても、レミは出勤してこなかった。 心配になった祐二は、支配人にレミの様子を聞いてみた。 すると支配人は「がんの疑いで検査入院しているよ。もうすぐ出てくるよ。レミちゃんがいないと売り上げが減って、困るようなあ」 と答えてくれた。 しかし1月が終わろうとしても、彼女は出てこなかった。 再び、祐二は支配人に尋ねた。 「困ったよ、レミちゃんは辞めたよ」 「何かあったのですか?」 「うん、大阪に戻って再入院だってさ、困ったものだ」 支配人は、レミの体の心配よりも店のことを心配していた。 その支配人は続けて、 「松岡君、キミ、ホストやってみないか。うちは銀座の夜の蝶が固定客だから、若い男はモテルよ。どうだい給料は5倍ぐらいになるし、チップだって、お小遣いももらえるよ」と誘われた。 祐二は、それよりもレミのことが心配だったので、 「考えておきます」と言って、話を終わらせた。 祐二は落胆した。 愛する亮子の存在があるものの、レミは彼の心の中にも体の中にも刻まれた。 悲しかった。 深夜帰宅するオートバイに、冷たい寒風が突き刺さった。 それは涙も誘った。 正月明け後、別れの言葉も残さずレミは大阪の実家に戻り、癌治療のために入院した。 従って、六本木のサパークラブ「ポンギー」も辞めた。 こうして激しく肉体を貪りあった二人は、二度と巡り会えることがなかった。 あの約束をさせられた際には、セックスの拒否か、恋愛感情への発展を拒んでいるのか、とその真意に首を傾げた。 しかし正月後、間もなく入院していることを考えると、すでに病魔に襲われていて、癌の予兆を自覚していたのではないか。 彼女を抱いたときの異常な低体温は、病が影響していたのではないだろうか。 そんな事情があって、祐二が本気でレミのことを好きになり、恋愛感情に繋がることを恐れて深い仲になることを避けたのだ。 そう結論付けると、彼女に対する哀れみの念とともに、愛おしい気持ちがこみ上げてくる。 しかし祐二の心の中には、依然、中学校の同級生である小谷野亮子の存在が、慕い合う相思相愛の恋人として支配している。 それでも、短い期間の交わりにもかかわらず、レミとの出会いとその激しかった性愛の時間は彼の心と肉体に深く刻まれた。 (4)三足の草鞋(わらじ) ポンギーの店長の勧めもあって、祐二は高収入を得るため、ボーイを辞めてホストに転向した。引き続き、昼間は印刷屋に勤め、夜間高校にも通学した。 その傍ら、週3日ほど深夜のホスト稼業に精を出していた。 睡眠不足は、昼間の勤務先の休息時間と、営業時間帯に公園のベンチで時折爆睡した。 新米ホスト ポンギーの常連客は、主に銀座、渋谷、上野のホステスで、彼女たちは仕事のストレス解消を求めて深夜の六本木に流れてくる。 ポンギーは三流のクラブで、店の服装は自由だった。 祐二はホストらしくするため、髪を伸ばして黒地にラメが煌めくシャツを羽織、パンタロンにロンドンブーツといういで立ちで店に出た。 社交ダンスもできず、話上手でもないので、ダンスを求められたらもっぱらチークダンスで通し、会話は聞くばかりの受け身に徹した。 ホストとしての接客に慣れてくると、徐々に、夜に働く社交女性の気質を伺い知ることができた。 それは、一人ひとり個性の違いがあることだった。 見栄ぱっり、派手好き、守銭奴、セックス好き、奉仕するタイプ、奉仕を求めるタイプなど様々である。 そういった彼女たちの個性を、容姿や僅かな会話と仕草から、いち早く見分けることが上手な接客につながる。 祐二は、ホストの経験も浅く、また、ホストとしての資質であるイケ面であることや、長身のスタイルを持ち合わせていない。 彼は夜の蝶に終始機嫌よくしてもらい、楽しい気持ちにさせるために、彼女たちの話をよく聞いた。 そして、その愚痴や不満を愛想よく受け入れる姿勢を貫いた。 その一方で、積極的に先輩ホストから女性を惹きつける接客のコツや技を教えてもらった。 髪や身なりの清潔さに始まり、ひいきの女性が好むオーデコロンをつけることなどを指導された。 さらに、チークダンスでの秘技。 ダンスの際には、事前にズボンのポケットにピンポン玉を入れておき、その箇所をさり気なく女性の太腿や恥部に触れさせる。 祐二は、素直に先輩の指導に従って、チークダンスの際にはそれを実行した。 試してみると、ほとんどの女性は僅かながら腰が微妙に反応する。 中には腰を揺すり、恥骨を擦りつける仕草もみられた。 そうした秘技が功を奏したこともあったのか、祐二は指名が高いホストとしての地盤を徐々に整えていった。 ただ人気ホストというよりも、断ることのない何でも言いなりになる『アッシー君』タイプのホストとして位置づけされていった。 そのことから、いつしかすぐに寝るホストとして囁かれるようになり、店が終えた後のデートのお誘いが急増した。 渋谷や新宿のホテルで、華美な蝶たちと夜な夜な性交を繰り返すようになる。 時として、小岩のアパートにも招き入れることもあった。 さらに夜の蝶だけでなく、暇を持て余した有閑夫人など、年代や職業も異なるいろいろな女性と性交を重ねていった。 そこからの寝物語からは、ヤクザの娼婦、ソープ嬢、純愛や不倫からの破局など、様々な女性達の隠れた人間ドラマや遍歴を知ることができた。 その結果、ホストの給料に加えておこづかいの副収入も安定して入り、貯金残高がみるまに増えた。 こうしてホスト時代の祐二は、源氏名や愛称を知るだけで、素性をあまり知らない女性たちと肉体関係を結んだ。 端的に言えば、金と女にまみれた汚れた生活が続いていた。 ただこれも、安定した生活と心から愛する亮子と結ばれるための資金として必要だと、心の中ではドライに割り切った。 (5)年上の人 そうした肉欲生活が続く中で、『貞子』と源氏名を名乗る30歳代の中背・痩せ型の女性と知り合う。 それは、上野のクラブ『蘭』に勤めるホステスの貞子。 そのスレンダーな体躯は、痩せてはいるものの筋肉質の体をしていた。 顔立ちも美形ではなく、その上いつもチークとルージュにとどめた薄化粧のため、実際の年齢よりも老けて見えた。 水商売には珍しく地味な印象で、明らかに異性にもてるタイプではなかった。 平凡な主婦が、パート感覚で夜の蝶をしているイメージ。 実際に彼女は下町の台東区小島町で、一人息子の小学生と慎ましく暮らすシングルマザー。 貞子は、同僚のホステスに連れられて、初めてポンギーに来店した。 祐二は指名された先輩ホストのヘルプとして、彼女らのテーブルに同席した。 貞子は、同僚のホステスが二枚まつ毛で濃い目のメークであるのに対して、仕事帰りにもかかわらず、薄化粧で服装も地味なものであった。 ホステスと言うよりも、明らかに家庭の主婦に見える出で立ち。 通常は、馴染み客であれば「いらっしゃい~マッホーッ、お久あ」 なんて言って、明るく笑いながら軽い挨拶から始まる。 だが、さすがの先輩ホストも貞子の地味で暗いイメージに一瞬たじろぎ、乾杯の発声も心なしか弱々しい声になっていた。 このような場合、座全体を暗くしないために、彼女たちを分断してそれぞれ会話を分けて接客するのが常道。 当然、祐二は貞子を相手に会話をすることになった。 いつもの受け身の会話では、コミュニケーションが取れないと直感した祐二は、進んで自己紹介に加えて、直近のニュースや芸能関係の話題を提供した。 しかし、なかなか彼女は和まなかった。 煙草は吸わないし、酒も舐める程度にしか飲まなかった。 薄化粧で地味な服装なので、化粧やファッションの話も好まないと思い、タイミングをみてチークダンスに誘った。 その誘いを笑顔で返すこともなく、彼女は黙って祐二の後についてきた。 ミラーボールが輝くホールは、踊る人がまばらだった。 ホールが閑散な場合、客席からはよく目立つ。 テーブル席で談笑しているホストやお客も、踊る男女に視線が動く。 その中で祐二は、彼女の心が和らぐようにいつもよりも力強くかつ強引に男女の密着度の濃い姿勢で踊った。 初めての客とのチークダンスには見えないように、意識的に強く手を握り、痩せすぎの細い腰に回す手も大きく広げて、彼女の体に圧力を加えつつ体を密着させた。 勿論、ズボンのポケットには、ピンポン玉が入っている。 3曲続けて踊った。 ピンポン玉を擦るように、彼女の恥丘に押し付けたのは最後の曲の時だった。 強く腰を押し付けると、女の腰が少し逃げた。 それを逃すまいと、後ろに回した手で引き寄せて再び腰を強く押し付けた。 瞬間、女の臀部が震えた。 曲が終わると、彼女の片手を握り引っ張るようにして席に戻った。 周りから見ると、いかにも親し気なイメージを醸し出していた。 貞子 その後いくらか彼女は硬さが取れて、安堵感に柔和な表情に変わっていた。 苦肉の策で、ダジャレクイズ遊びで笑いを誘って、貞子の気持ちをさらに和らげた。 祐二は仕事の延長には違いなかったが、本気でその女を誘いたい気分になってきた。 貞子に、特別の魅力を感じたからではない。 おそらく、厚い化粧と強い香水に紛れた女豹に食傷気味だったのだ。 水商売の匂いの薄い女性と、久々に戯れてみたかった。 すぐに貞子を誘ったが、初めての出会いでのデートの約束を拒む。 無視して、休日のデートを再提案した。 すると「休日は子供のために母の日にしているの」 断りの理由を説明する。 しかしその正直な答えの中に、自分の誘いを受け入れる下地があると感じた。 そこでしつこく誘いを続けると、ついに平日のポンギーの非番の夜に上野で会うことに成功した。 貞子のクラブの仕事を終える時刻を確認すると、 「お店に来て頂戴、お勘定は私持ちだから心配しないで」と言われた。 そのクラブの閉店の1時間ほど前に、店に入る約束をした。 下町のホステス 貞子の勤めるクラブ『蘭』は、上野の繁華街の広小路からかなり離れていた。 昭和通りを越えてから、2ブロックほど奥に入ったビルの地下にあった。 現在は台東区台東という地名だが、その当時は竹町がその町名であった地域。 蘭は、個人商店や古くて小さな住宅が立ち並ぶ一角にあった。 上野や御徒町と佐竹商店街の中間にあたり、流れの客が足を運ぶには不便な場所といえた。 最寄りの上野駅や御徒町駅からも、徒歩では歩きたくない距離にあった。 周りの環境も雰囲気が陰気臭く、ネオンがまばらな地域で水商売には向いていない場所。 祐二は夜間高校の授業を終えると、私服に着替えて浅草橋駅から乗車した。 秋葉原で乗り換えて、御徒町駅で下車すると徒歩で蘭に向かった。 午後10時を少し回った頃に『蘭』に到着した。 店に入ると、入口の看板の地味さやドアの小ささとは異なり、意外にも店の中はかなりの広いスペース。 ポンギーよりも、明らかに大きなフロワーの規模だった。 その中に、黒いソファがボックス毎に区切られて配備されている。 ボーイに誘導され、空いているボックスに案内された。 店の奥には、バンドによる生演奏で音楽が流れ、広くはないが踊れるスペースもあって、数人の男女が踊っていた。 祐二は予想外に、格式のあるクラブだと驚いた。 貞子の地味な印象が、彼に小さなスナック風のクラブを連想させていたのかもしれない。 席に着いた祐二は、ビールを注文し貞子を指名した。 ビールとおつまみが用意される前に、すぐに貞子が現われた。 座ることもなく、 「松岡クン来てくれたのね、うれしいわ。ごめんなさい、すぐに戻るから、ちょっと待っていてね」と言った。 祐二は指名客がいることを察知し、手を振って構わないという素振りを返し、 「了解、お客さん優先して」 と小声で言った。 客らしくない言葉を発してしまった。 ビールが運ばれると、ボーイが注いでくれた。 「貞子さんが戻られるまで、他の女の子をお呼びしましょうか。他にご指名はございますか?」と尋ねてきた。 「いやけっこうです。貞子さんを待っています」と答えた。 手酌でビールを飲みながら、店の雰囲気を観察した。 客層は、年配者がほとんどであった。 その多くがこぎれいな恰好で、身だしなみがいい紳士風にみえた。 ただ大会社の重役というタイプではなく、背広にネクタイのいでたちは少なく、地元の旦那衆といった感じ。 おそらく上野や御徒町、あるいは佐竹商店街の店主が常連客のように思えた。 しばらくすると、貞子が戻り祐二の横に座った。 「ごめんなさい、お待たせして。今晩はそれほど混みあっていないのだけど、たまたま私の馴染みのお客様が重なってしまっているの」 と言いつつ、飲みかけのグラスにビールを注いでくれた。 彼女は丈の短いニットのワンピースを着て、ポンギーに来店した時よりも若いいで立ち。 ただ、他のホステスたちの華やかなドレス姿や厚化粧に比べると、明らかに地味で素人のイメージ感は否めない。 それでも今夜は、ルージュの色が濃い目で多少色気があった。 「貞子さん、モテルね。忙しいことはいいことだよ」 「私全然モテないわ、こんな日珍しいのよ。松岡クンの神通力かしら」 と謙遜した。 「この店は食べ物高いから、食べないで少しがまんしていてね。店が終わってから、外で食事しましょう」 母親が子供に諭すように言う。 「わかったよ」 祐二も息子のように言う。 彼が返事を返すと、すぐに再度貞子に指名の声がかかった。 ボーイから呼び戻されて、すぐさま彼女は再び席を離れた。 一般的にホステスを指名した客は、その女性を独占したがる。 そのための指名でもある。 指名が重なり、自分のいるテーブルをホステスが離れると、ほとんど客はヘルプのホステスが同席していても、去った指名のホステスのゆくえを探す。 その仕草をヘルプ嬢に知られまいと、その会話を続けながらも男の目線は指名ホステスの動く方向にある。 祐二は暇を持て余し気味だったので、彼女の動きを目で追った。 すると貞子は、祐二以外に三つのテーブルを行き来している。 つまり、この閉店間際の短い時間帯に、自分以外に3人の客の指名を受けていた。 おそらくこれらの客は、店がひけた後に貞子を誘う下心を抱いている。 当然のことながら、ひと際若い男にも指名もされて、あちこち席を往来する貞子の忙しそうな動きを老体の男たちの目も彼女を追っていたはず。 貞子は、ポンギーに来店したときのイメージとは想像もつかないほど、はつらつとして接客をこなしている。 明らかに彼女は、蘭で人気の高いホステスの一人だった。 つぶさにそれらを観察した祐二は、見た目のイメージに反して、高齢の男性客を魅了する貞子の隠れた才気に興味を持った。 その人気ホステスを、征服したい気持ちに下半身が疼いていた。 やすらぎ 店の閉店時刻がすぎ、多くの客は会計を済ませて帰路につく。 外は、店のネオンだけが頼りで薄暗い。 客の多くが店の出口前に立ち、馴染みのホステスが出てくるのを待っている。 既に、深夜のデートを約束した者もいる。 だが約束がなくても、誘いをするために待ち構えている者も少なくない。 そうした客とホステスとの立ち話が、交錯する中に祐二もいた。 ようやく、貞子の姿が見えた。 彼女は祐二の姿を確認すると、小走りに近づきいきなり彼の腕を引っ張った。 すぐにアームイン・アーム(腕組み)で、仲の良い男女の格好をとった。 他の多くの客がいる前で、こうした腕組みはホステス稼業としては異例。 ホステス稼業には、差し障りがある行為。 通常であれば、客の目を気にして人目を避けてから男女の腕組みをする。 彼女は敢えて、その挙に出ている。 まるで、この若い男は私の恋人なのよと言いたげで、常連客や店の従業員にそれを強調しているようにも見える。 水商売の世界では、ホステスの色男はあまり表面には登場しないのが常道。 貞子は祐二をリードしながら、深夜の旧竹町を足早に通り抜けていった。 「少し冷えてきたわね、佐竹で暖かいものでも食べましょう!」 「あっ、はいっ」 彼は、予期せぬ貞子の積極的な行動に飲まれて付き従った。 数分も歩くと、深夜でも賑わいをみせる佐竹商店街に着いた。 佐竹商店街は秋田・久保田藩主の佐竹右京太夫の上屋敷跡地に、明治時代の商業発展の振興策によって、全畜式のアーケード街として造設された。 全長300メートル以上に及ぶ店並みは、明治、大正、戦前の昭和にわたり、下町に生きる人々に経済的な活気を与えるとともに、庶民の日々の暮らしを支えてきた市場でもあった。 アーケード街やその周辺には、寄席、見世物小屋、露店、遊技場の他、売春の場所としての連れ込み旅館などもあって、浅草ほどの賑わいではないものの一大歓楽街として発展した場所。 見世物小屋には、花電車と呼ばれる小屋もあった。 電車を模した小屋を建て、客が乗車賃を払うと女性が自分の性器にバナナを挿入し、そのバナナを輪切りにするショーを見ることができた。 この秘技を持つ女性とは、さらに料金を払うと性交渉もできるという趣向であった。 但し、男の牡肉が輪切りにされる危険もあると、小屋の主人に喧伝されて多くの客はその性交渉を恐れてショーだけで退散する。 戦後は見世物小屋や露店などがなくなり、戦前ほどの活気は戻っていなかったものの、繊維産業などの隆盛もあって、昭和41年当時は周辺の浅草、鳥越、蔵前などでは様々な業種の問屋が勃発し<金の玉子>と呼ばれた若者達が従業員として集団就職してきた。 このため昼夜にわたり、小売店や飲食店はかなりの賑わいがあって活況を呈していた。 祐二が通う夜間高校にも、こうした問屋に住み込み店員として働く若者が通学していた。 現在は佐竹町や竹町の名称は消え、住居表示上は「台東」となり、僅かに「佐竹町会」と「佐竹商店街」としてその名称が残されている。 貞子は祐二と腕を組んでまるで恋人同士のようにして、自分の馴染みの純喫茶に入った。 下町では、純喫茶でも食事ができるところが多い。 男はナポリタンとジンジャエール、女はハヤシライスとコーヒーを注文した。 二人はポンギーでの客とホスト、蘭でのホステスと客の関係を忘れるように、自然に打ち解けて話をすることができた。 それは多分に、彼女の飾らない人柄に祐二の警戒心が解かれたことによる。 彼女の前では何故か気取る必要もなく、素直な気持ちで接することができた。 船橋から単身東京に出できて、昼夜多忙なスケジュールに追われ、殺伐とした慌ただしい人間関係が続く緊張した生活の中で、自己防衛本能が自然に研ぎ澄まされてきた。 だが貞子の話には、ドロドロした虚飾性が全く感じられない。 これまでのポンギーのお客である夜の蝶に見られたような、見栄ぱっり、派手好き、守銭、奉仕を求める面が微塵も感じられない。 我が子をけな気に育てる母親のような一面を見せるものの、一人の女として内面に神秘的な魅力も秘めている。 1時間ほど二人は、お互いの今置かれている境遇について飾ることなく語り合っていた。 その後祐二は、姉や母親に抱かれるようなやすらぎを貞子に感じて、生まれて初めて彼女の弟や子供のように甘えてみたい気分になっていた。 それからほどなく貞子が会計を済ませると、二人は再び深夜の佐竹商店街を歩いた。 今度は祐二が右腕を伸ばして、彼女の細いウェストを抱えた。 女のロングヘアーと肩が彼に傾いた。 微かに女の匂いが漂った。 香水ではない女体から溢れた香しさに、若い祐二は早くも年増の貞子を抱きたい衝動にかられていた。 熟女に惚れる やがて二人は、商店街の路地裏の古ぼけた小さな連れ込み旅館に入った。 そして、その2階の和風の部屋に入った。 薄明りの中に、ふとんが敷かれてあった。 枕元に行灯の電気スタンドがあるのを見届けると、祐二はその灯りをつけた。 すると貞子はすぐにワンピースを脱いで、キャミソール姿になって寝床に入ろうとした。 祐二はすぐに貞子の手を引っ張り、立ち姿でそのスレンダーな体を思い切り両腕で抱きしめた。 二人の胸と胸がきつく密着した。 苦し紛れに女は背を反った。 少し顔が上がると、その唇を吸った。 唇が触れると、女の舌を見つけて激しく巻き付けた。 二人の初めてのキスだった。 だがその口付けは、既に何回も交わしたことがあるように、お互いの唇を十分に熟知していた粘着感がある。 しばらく、強い口吸いが続いた。 女から溢れた唾も吸い取った。 何度も何度も、その唾を飲み込んだ。 そして、抱きしめる手を緩めた。 すると今度は、貞子が彼の唇に舌を入れてきた。 祐二がしたように、お返しとばかりに強く舌を巻きつけてきた。 意識的に唾を出して女の口に送り込んだ。 女は、むさぶる様にそれを飲み込んだ。 口吸いをしながら、女の恥骨に腰を擦りつけた。 二人は息苦しくなって、どちらかともなく唇を放した。 貞子は、少し肩を揺らして「ハァハァ」と息を漏らした。 祐二の両手が、貞子の両頬を挟んだ。 女の額にフレンチキスをした。 次に女の長い黒髪を左手で掴み、後ろに引き顔を仰向けにすると、再び激しく口を吸った。 右手で女のキャミソールの肩紐を下した。 そして口吸いを止め、唇と舌を使って右の首筋から肩にかけて舐めまわした。 女の腰が動いて男を刺激している。 すると突然「待って、お風呂に入るわ」と言い出した。 祐二は子供のように「一緒に入りたい」と小声で言った。 「恥ずかしいわ、ねえ、がまんして頂戴。早く出てくるからね」 母親のような口調で言うと、すぐさま風呂場に向かった。 言葉通り、貞子はあっという間に風呂から出てきた。 おそらく、シャワーだけで済ませたのだろう。 体にタオルを巻いたまま、掛布団を広げると敷布団の上に仰向けに寝た。 「ボクも風呂に入ってくるよ」と声をかけた。 「嫌でなかったら、そのままで抱いて欲しいの、若い男の人の匂いを楽しみたいの、勝手言ってゴメンなさい。いいかしら?」 「それでいいの?」と念を押した。 「松岡クンの若い体を思い切り感じたいのよ」 そう言い終えると、女はタオルを体から取り除き全身を祐二にさらした。 痩せた筋肉質のスレンダーな裸。 愛される姿勢を整えていた。 両の乳房は小さいが、お椀型の形状が崩れずしっかりと隆起を示している。 くびれたウェストは、まるで少女のような清潔感が漂っていた。 彼もすばやく全裸になった。 女に覆いかぶさった。 顔にキスのシャワーを浴びせ、首筋、耳朶、耳の穴、喉元から胸元にかけ、濃厚な愛撫を丁寧におこなった。 すると貞子は、 「早く欲しいの」とせがんだ。 祐二は「貞子さんの体を知りたい」と返答する。 「私もう待てないの、体が燃えて熱いのよ、お願い頂戴!」と叫んだ。 しかたなく、男は体を重ねた。 「う~っ、う~っこれなのね。すごいわ若さがいっぱいよ」と呻いた。 そう言うと、女に覆いかぶさっている男の体を下からきつく抱きしめた。 すると、すぐに悶絶した。 しかし、その後は彼女の奥ゆかしくも深い秘技の連続に、若い男の体は初めて知る熟女の臥所のテクニックとその魅力に摂りつかれてしまう。 朝まで長く深い交歓が終わり、男は憧れるように年増の女を愛おしく感じる。 この人をいつまでも手放したくない、と思った。 その後も二人は、下町で逢瀬を繰り返した。 激しくその体を求め合いながらも、決して性愛だけを求めての逢瀬だけではなかった。 次第に、母子のような家族愛も育んでいた。 買い物、食事、公園散歩など、時には貞子の一人息子も交えての団欒のひと時も楽しんだ。 二人は、機会を作っては佐竹の下町を巡った。 祐二が慕う女は、慈愛に満ちたやさしさと、母性豊かな愛情で若い男を包み込んでくれる。それ故、男は女の骨の髄まで惚れ込んでいた。 何をしても許してくれ、包み込んでくれる女神のようだ。 その人は、自分とは一回り以上も年上で子持ちの女性。 容姿端麗の美人でもなく、見た目は地味な女性。 ひたすら都会の下町の片隅で、身を粉にして懸命に生きている。 人生をけな気に生きている。 その直向きな生きざまは、汚れを知らない少女のようでもある。 祐二は男として、この不思議な魅力を持つ年上のひとを支えたいと真剣に思い始めていた。 だからこのまま貞子と結婚し、彼女の息子の父親になってもいいのだとも思い始めている。 貞子と会っている間は、恋しい亮子のことを忘れられている。 自分でも己の心が分からないほど、自制心を失って熟女の魅力に心身を奪われていた。 しかし、貞子は女として愛される喜びの一方で、もう少し冷静に息子を育てる母親の理性を保っている。 しっかりと、恋愛と結婚とを別の論理で考えている。 それだけ、恋愛も社会経験も積み重ねてきているのだ。 男心は恋する情熱は大きいが、いつも風船のようにいとも簡単に女から飛んでいく。 お互いに、ホストとホステスという夜の社会に生きている。 だから夜の街の危うい絆の中で繋がっているのだ、と常々自分に言い聞かせている。 その可愛い彼氏は、ホスト稼業に身を委ねている。 まだまだ若いし、都会に汚れずに拗ねてもいない。 どこか真っすぐな心根もある。 だが、それは魅力とともに危うさも秘めている。 これまで出会った男にはない新鮮な魅力があり、母性本能を擽られている。 だから貞子は女として、このまま若い男の魅力に暴走するのか、あるいは静かに別れが来るのかと真剣に悩むのであった。
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