4.甦る愛

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4.甦る愛

松岡祐二が心から慕い続けている小谷野亮子とは、中学校を卒業以来、一度も会えないままに3年が経過しようとしていた。 江戸川区の小岩で自活することになって、祐二はこれまでの自分の身に起きた事情と、亮子に対する変わらない気持ちを伝えるために、彼女へ手紙を送り居所を知らせた。 だが、亮子からの返事や連絡はなかった。 それでも彼は、数多くの女性との性愛を繰り返す中にあっても、心の奥底ではひたすら二人の相思相愛を信じていた。 (1)鍋パーティ 早春の休日、祐二が住むアパートで友人たちと<鍋パーティ>を行うことになった。 参加者は夜間高校の友人3人と、中学校の級友だった山中進と石田ゆり子。 山中進と石田ゆり子は、転校前の船橋の高校で偶然にも、中学校と同様にクラスメートになった。 特に山中進とは、中学時代から同じ陸上部に所属し、短距離と長距離部の違いはあったものの最も親しい友人。 亮子に見破られたラブレター事件も、実は山中に頼まれて祐二が代筆して亮子に差し出したもの。 亮子に代筆を見破られたことは山中には言えず、無事に彼女に手紙を手渡したことだけを伝えていた。 その後、その恋文の返書が全くなかったことから、少なくとも亮子が山中に対する気持ちがないことを山中は理解してくれていたようだ。 但し、その後の祐二と亮子との深い仲については知らないはずと思っている。 一方、石田ゆり子は中学、高校ともバレーボール部に属するスポーツ女子。 明るく活発な性格。 父親は石油会社の重役で、母親はPTAの役員も務める。 裕福で先進的な家庭環境にあった。 さらに彼女は、容姿端麗のうえ成績上位の優等生タイプ。 ただ祐二は、極貧の自分とは縁のない富裕層であり、どことなく大人びた喋り方をするゆり子には関心がなかった。 当然の事、心から愛する亮子の存在があり、同級の異性とは仲良くする振る舞いを避けてきた。 そのため中学時代を含め、これまでゆり子とは単なるクラスメートにすぎなかった。 ゆり子の告白 そんなゆり子だったが、何故か、突然に祐二の前に現われた。 それは夜間高校へ転校してから、1年後の8月の休日の午後の事だった。 夏休みに入っていたゆり子は、何の前振れもなく祐二の小岩のアパートを訪ねてきた。 ノックもなく外から「松岡ク~ン、いるぅ・・松岡クン」と、うら若き女性の声が響いた。 暑いので玄関のドアは、半開きにして昼寝をしていた。 聞き覚えのある声だ。 タンクトップとジーンズ姿で、急ぎ玄関に出た。 そこにはショートカットの女子高校生が、小脇に紙袋を抱えて立っていた。 明るく笑っている。 白い半袖のブラウスに、紺色の細い棒帯が付いた夏の制服姿の石田ゆり子だった。 バレーボールの練習で、小麦色に焼けた顔と真っ白な歯が健康的な美しさを引き立てている。 ドアを大きく開けると、彼女は足早に狭い玄関に入った。 突然の異性の訪問に驚き、どうして自分の居所を知ったのか、という疑問もすぐには脳裏に浮かばなかった。 「お久しぶりね。元気だった松岡クン!」 甲高い声で、あいさつをしてきた。 「まあ何とかやっているよ」臆して消極的に答えた。 彼女は目をキョロキョロさせて、狭い部屋の中を覗いている。 「あぁよかったわ。やっぱりなかったのね」 そう言うと、その場でおもむろに紙袋をあけて、陽に焼けた腕で中身を取り出しにかかった。 中から取り出したのは、小さな籠状のゴミ箱だった。 「はい、どうぞ」と言いながらそれを祐二に手渡した。 反射的に両手を出して、それを受け取った。 小さな声で「ありがとう」と言った。 するとすぐに「あがってもいい?」と言われた。 差し入れされたこともあって「どうぞ」と言わざるを得なかった。 部屋にあがると彼女は足早に台所に向かい、数少ない食器類、やかん、鍋などをチエックしていた。 祐二はちゃぶ台の前に座り、彼女の様子を後ろから眺めていた。 痩せて背の高いゆり子は、スレンダーでバランスの良い体躯。 スカートから覗く、両脚は細くて長い。 バレーボールで鍛えた足の筋肉が、健康的な美しさを見せている。 それを支える腰は、女子高生の若さに紺地のプリーツスカートの上からでも、僅かな身の仕草に躍動して微妙に艶めかしい動きを示す。 祐二の下半身に、欲情のいたずら風が吹いた。 しかし、とどまった。 愛する亮子の元級友でもあるゆり子と、関係を持つことの危険性を本能的に察知した。 若い男女が狭い部屋で過ごせば、肉体関係に陥る可能性は十分にある。 ましてやその日は真夏でもあり、小さな扇風機一つの狭い部屋では、暑苦しく理性を失い易い状態にある。 とっさに祐二は、彼女を外へと誘った。 喫茶店 「暑いからクーラーのある喫茶店に行こうよ!」 「そうね、まるで蒸し風呂よね・・・」 そう言って素直に頷いてくれた。 祐二はほっとした。 すぐに二人で、小岩駅南口駅前の喫茶店に向かった。 喫茶店は、すでに冷房がよく効いていた。 タンクトップから出ている両腕は、寒さで鳥肌が立ちそうだ。 それでも若い二人は、祐二がトマトジュース、ゆり子はコーヒーフロートを注文する。 とにかく二人だけで、じっくりと会話をするのは初めてのことだった。 「よく僕の居所分かったね。教えてなかったよね?」 ストローでジュースを飲みながら、疑問をぶつけてみた。 「山中君に聞いたのよ!」 確かに亮子の他には、山中進だけに居所を知らせていた。 ただゆり子は、祐二だけでなく山中ともそれほど親しくないはず。 それで意外な感じを持った。 「今日、急に松岡クンを訪ねたから、ビックリしたでしょう?」 下から祐二の顔を覗きながら言う。 「そうだよ、驚いたよ。クラスのみんなは元気?」 「そうね、松岡クンが転校してから、野球部の田中君と山口君が退学したわ」 「そうなの。確かに二人とも以前から野球部を辞めたい、と言っていたから、野球推薦での入学だからね。野球部を辞めれば、退学になってしまうのかも、田中は期待されていたエースなのにね。・・・そうそう思い出したけれど、田中は、君のこと好きだったこと知っていた?あいつ僕にキューピット役を頼んできたのだよ。でも男らしく自分で告白したらと断ったけど・・・」 1年前の船橋の高校でのことを語った。 「ええ~そうだったの、私全然知らなかったわ」 関心なさそうに言った。 「中学時代にもキューピット役を頼まれたことがあった。失敗したことがあってそれで断った。君が田中のそのことを知らないということは、あいつ、その後も君に告白をしなかったのか?」 自分と同じく、中途で去っていった2人の同級生のことを思い出す。 しばらくは、中学や高校の昔話をしていた。 だが、その途中で突然ゆり子は黙り込んだ。 祐二も何故なのか、と考えて寡黙になってしまった。 沈黙が続いた。 一呼吸おいてから、コーヒーフロートを一口すすると、ゆっくりとストローから唇を話したゆり子は、急に真顔になって話を切り出した。 「松岡クン、・・・・・・私、中学校の時から松岡クンのこと好きだったの。知らなかった?・・・バレーボールの部活の時に、陸上部の長距離の人達がロードランニングを終えて、グランドに戻ってくるでしょう。いつも松岡クンの姿を探したのよ。あなたが私達のコートの横を走り抜けるまで、見つめていたわ。もうトス練どころじゃなかった」 「え~っ・・・ビックリした。本当なの?知らなかったよ。だって声かけてくれなかった。話したこともあまりなかったよね。たぶん、二人だけで話し合ったのは今日が初めてだし、それにクラスでは、君は級長で男子の人気ナンバー・ワンだった。僕も君には憧れてはいたけど、背が高いし君よりも小さい僕にとって、とても結ばれる気がしない高嶺の花だった」と応えた。 祐二は心の中で、実際にはこのゆり子の告白には困惑していた。 しかしそれに反して、愛の告白を受け入れるような言葉が出てしまった。 「そうね。私のこと振り向いてもくれなかったわね。校内マラソン大会の時も、必死であなたを応援していたのよ。あなたが3位でグランドに戻ってきた時、バスケット部のハーフの一年生に抜かれそうだったわよね。覚えている?」 「ああ覚えているとも、あの時はやばかった。もう必死だった。まして声援は、圧倒的に青い目のハンサムボーイだったからね。抜かれてもいいという気持ちに一瞬なったよ」 「大声で叫んだのよ、身を乗り出してマ・ツ・オ・カ負けるな!ってね」 「僕にも声援があったのか、知らなかった。ハーフの彼への声援が大きくて聞こえなかった」 「そうよ。いつもあなたを慕って、追っていたのに。松岡クンは他の人たちと仲がよかった。私がもっと早く気持ちを打ち明ければよかった。バレーボールが好きで部活に夢中だったから。あなたのことを好きだったけど、告白する機会も勇気もなかったの・・・」 さらに続けて、 「それでも松岡クンとは、高校でもクラスが同じになって、飛び上がるほど嬉しかったわ。だけど松岡クンは休みがちで、私は相変わらず、朝練に始まり遅くまで部活漬け。手紙も書くことも告白する機会もなかなかなかったの。そうしているうちに急に転校してしまうし、悲しくて毎日泣いていたのよ・・・」 そう言うと、悲痛な表情をみせて顔を伏せた。 涙を流している。 祐二は腰を浮かして、ジーンズの後ろポケットからハンカチを取り出した。 それを彼女の手にそっと渡した。 「ありがとう・・・告白できて嬉しいの、松岡クン私のこと好き?・・・・」 あまり間を置かずに答えた。 「うれしいよ、こんな僕を好きだなんて夢のようだよ」 嘘ではないが相手のことを気遣いすぎて、ついつい心底にはない言葉を吐いてしまった。 ただ、好きだとは言明しなかった。 言えば嘘になり、相手を騙すことになる。 これが相手の気持ちを傷つけまいとする、やさしすぎる祐二の悪い癖。 人からみれば、意志薄弱の軽薄な男と言われるだろう。 それでも彼自身は、人に優しい心の持ち主だと良い方に考えていた。 見方によるが、これは亮子に対する裏切りにも繋がるもの。 こうした優しすぎる裕二の行為は、この後に大きな禍根を残すことになる。 こうしてその日以降、ゆり子は月に一度ほど彼を訪ねてくるようになった。 訪れる度に裕福な家庭の彼女は、スリッパ、食器、タオルなどを買ってきては差し入れてくれた。 祐二は、最愛の亮子の存在が心の中を支配しているにも拘わらず、ゆり子のやさしさにも応えようとする気持ちが自然に出てきてしまう。 いつもゆり子が彼に対して母性的に振舞うことに感謝し、その好意を受け入れていた。 但し、彼女に対して好きだという愛の言葉を吐くことと、肉体関係に発展することだけは最後の砦として避けてきた。 この祐二の中途半端な態度が、後に不幸な結末を招くとはつゆ知らず。 最後の一線 ある休日。 ゆり子は新妻のように、数少ないレパートリーの中から、祐二が好物だと言っていたトマトシチューを甲斐甲斐しく作ってくれた。 外食の多い若い男にとって、この手作りの家庭料理は涙が出るほど嬉しい。 夕食後二人は、裸電球の下で壁を背にして横に並んで足を投げ出していた。 ごく自然に、少女の上半身が彼に寄り添いもたれてきた。 祐二は、左腕を廻して少女の肩を抱いた。 左手に力を込めて、ゆり子を自分の胸元に呼び込んだ。 少女が顔をあげて、自ら唇を祐二の唇に触れてきた。 彼は口を半開きにして、少女の舌が入り込めるよう待った。 すぐに、少女の舌が彼の口の中をさ迷った。 少女の舌が吸い付き先を求める。 彼の口の中で生々しく動いている。 焦らすように祐二の口は、半開きのままで舌も沈んだまま。 そのとき、少女の熱いため息が漏れた。 それを察した彼は、自分の舌を少女の舌に巻きつけた。 そして、思い切り口腔に引っ張り込んだ。 そのまま強く縛りつけ、少女の息が絶え絶えになるまで唾液を滲出させた。 少女の表情に苦悶が見えたとき、舌を解き放ち2人の唾液が交じり合った唾を飲み込んだ。 二人は畳の上に倒れ、祐二は少女の顔、首、胸元に愛撫の嵐をみまった。 もう少女の体は、十分に受け入れる状態になっている。 このままでは、苦痛に思えるほど燃え上がっていた。 早く楔を打ち込んで欲しいと言うように、喘ぎ声を高めていた。 しかし、祐二はそれ以上の行動を留まった。 「抱いて!」 強くはっきりした口調で、ゆり子は言った。 だが、その言葉を遮るように少女の唇をディープ・キスで塞いだ。 長いキスの後、彼は「まだ高校生だろう」 自分も同じ立場なのに、暗にセックスを拒むような言葉を口走った。 この頃、性について早熟だった祐二は、未成年ながら既に30人以上の女性との性体験を積んでいた。 そのほとんどが年上の女性でもあり、性技も豊富で深い情交も体得していた。 こうしたことから、ゆり子のような清純な女子高校生をむやみに征服するような、貪欲な欲望を押さえる冷静さも持ち合わせていた。 少女は、意外な祐二の大人のような言葉に驚いた。 すぐに、持ち前の理性を取り戻したのか、その意味を理解して言った。 「好きだから射止めて欲しいけど、いいわ、我慢する。本物のセックスは卒業後にするわ」 そう言って、あっさりと理解してくれた。 だが実際には、彼の中では男の熱魂が女の湿地帯を求めて、カマ首をもたげていた。 肉体と心の矛盾が葛藤していた。 好きだと慕って献身的に尽くしてくれる少女を抱いて、その想いに応えたいとする心。 さらに女の体も征服したいという、男の肉欲が確かに存在していた。 一方それに対して、思春期から慕い続ける亮子と再び結ばれたい。 我が心の純粋な思いを貫きたい、とする強い想いも心底にあった。 その双方が、胸の中で揺れていたのは確かな事実。 これは肉体関係に発展しなくとも、愛する亮子への裏切りになるはず。 それは、やがて現実のものになる。 偶発的な再会 時は過ぎて、1年半後の3月の鍋パーティの日。 石田ゆり子は、東京の私立大学に合格していた。 山中進は、船橋市内の百貨店に就職が内定。 夜間高校に通う祐二とその友人達は、翌月に高校4年生になるため卒業は来春になる。 まだ、ゆり子と祐二は肉体関係を結んでいない。 しかし、彼女を抱く約束の高校卒業の時期を迎えていた。 だがこの日、偶発的な出来事が起こった。 この出来事は祐二にとっても、最愛の亮子にも、慕ってくれているゆり子にとっても不幸な結末を招く。 その日の昼過ぎ、友人たちは三々五々やってきた。 男の手料理ではうまく調理できないことや買い物もあったので、祐二はゆり子を呼んで鍋パーティの裏方を依頼していた。 彼女だけが昼前から部屋に入り、調理の準備を始めていた。 ゆり子は祐二の恋人のように振る舞い、自ら積極的に初対面の祐二の友達にあいさつを交わしていた。 彼女が買ってきてくれた新品の電気釜でごはんを炊き、こたつの上にガスコンロと鍋を置き、茶碗、はし、皿などの食器類も整えられていた。 その横ではちゃぶ台を囲んで、祐二らは未成年だったが20歳を超えている仲間もいて、仕事や学校の話を肴に男たちは瓶ビールを飲み始めた。 まだ明るい陽射しが部屋に差し込み、早春の昼間のビールはいつになく若い男たちをほどよく能弁にする。 狭い部屋に笑い声が響き、その声を聴きながら台所に立つゆり子も生き生きとした表情を見せていた。 時折笑みを浮かべながら、こまめに手を動かして調理に集中している。 鍋パーティ開始の時刻が過ぎても、残る中学時代の友人である山中進はまだ来なかった。 主催者である祐二の判断で、彼の来訪を待たずに食事会が始まった。 こたつの上に置かれた鍋を囲み、男達が鶏肉や野菜に箸を付けた始めたときだった。 玄関ドアをノックする音がした。 最後の来客となる友人がやってきた。 亮子現れる 祐二は箸を止め、急いで玄関先に出た。 人の良さそうな山中が、ニコニコと笑顔を作って立っている。 ピーコートに両手を突っ込んだまま言う。 「悪いな、遅くなった」 悪びれる様子もなく軽く謝った。 「もう先にやっている、上がれよ」 と言ったが、山中の後ろに人影があるような気がした。 (あれっ誰かいる?) そう思い、玄関に置かれた友人たちの靴を踏んでドアまで身を乗り出した。 山中が体をよけながら「下総中山の駅で偶然会ったので、誘って連れてきた」と喋った。 (誰だろう・・・) ドアの外で薄い桜色のスプリングコートの身をよじりながら、はにかむ様に立っている女がいる。 それは小谷野亮子。 一日として彼女の笑顔を忘れたこともなく、会いたいと恋焦がれていた少女が、突如目の前に現われた。 (まさか亮子がいる!!) 一瞬、祐二は夢を見て別世界に舞い込んだ気がした。 慕い合う二人は、ともに言葉が出ない。 内と外の位置に、そのまま釘付けになった。 中学生だった頃と比べると、一回り体が大きく見える。 前がはだけたコートの下では、成長した胸がトックリセーターの中で、以前にも増して盛り上がりを見せている。 肩には、ショルダーバッグをかけている。 その肩と首筋は細く見える。 以前の鳩胸は薄れていた。 タイトスカートには、一層豊満になった肉感的な腰と臀部がピタリと張り付いていた。 少女から、成熟した女の体になりつつあった。 二人の視線が、しっかりと凝視し合った。 見つめ合うその目には、すぐにも涙がこぼれそうだ。 水滴は流れ落ちなくとも、二人は心で泣いていた。 恋する少年と少女が、3年ぶりに再会できたのだ。 (会いたかったわ!) (僕も会いたかった・・・これは夢ではない。現実に起きているとことだ) そう思ったとき、山中が亮子に声をかけた。 「小谷野さん中に入ろうよ!」 その声に促されて、亮子は山中の後ろについて部屋に入ってきた。 この衝撃的で偶発的な再会に、祐二は完全に冷静さと理性を失った。 企画した鍋パーティのシナリオのすべてが崩れ、この後は流れに任せるままのアドリブの世界で食事会が展開してゆく。 狭い部屋に若い男女7人がコタツを囲んで居並び、鍋パーティが動き出した。 祐二の声は、緊張に上ずっていた。 遅れてやってきた山中と亮子を、夜間高校の友人達に紹介した。 すでにゆり子がいることは、山中が亮子に言った可能性もあるので、祐二はあえてゆり子のことには触れないでいた。 久しぶりの恋人との再会を取り繕いするとともに、亮子とゆり子との接触を避けるようにその気配りだけを考えていた。 当事者以外は誰も祐二と亮子との深い関係を知らない状況の中、祐二の左横に山中が座りその先に亮子が座った。 ゆり子は祐二の右横に位置し、配膳や調理に立ったり座ったりしている。 時折視線を祐二に向けて、彼の指示を確認しているように振舞っていた。 女の火花 食事会が再開されてしばらくすると、やや落ち着きを取り戻した祐二は情勢を読んだ。 亮子とゆり子が互いの嫉妬心から、ガチンコの争いが起こることだけを心配し始めていた。神に祈る気持ちで、この食事会が平穏に終わることを願った。 しかし、それは現実的にはかなり難しいことだった。 仮に、無事に食事会が終わっても、その後の展開も問題だった。 全員が同時に、彼の部屋を立ち去ることが困難に思えた。 必ず後片付けでゆり子だけが、当然の如く残るのは目に見えていた。 その時の亮子は、どういう反応を示すのか。 果たして、亮子と二人きりになれる機会はできるのか? 不安は募る一方だ。 筋書きのないシナリオに、心中は<なるようになれ!>だった。 そんな時、ほとんど会話に入れない亮子を山中が気遣った。 「小谷野さんは、九段の短大に合格したのだよね」と、話しを促した。 亮子は「ええ」と重い口を開き、有名女子大学の名前をあげて短く答えた。 祐二と同じ船橋市立高校受験に失敗した後、彼女は県内の私立の女子高校に進学していた。 その学校は進学校ではないから、大学に進学するにはよほど本人が受験勉強に努力しなければ合格はできない。 苦しみながらも公立高校受験の失敗から立ち直り、日本でも有数の女子大学の短大に合格できたのだ。 それを知って、祐二は自分のことのように心から喜んだ。 祝福の言葉をかけようとした。 すると、間髪を入れずゆり子が口を挟んだ。 「よかったわね、おめでとう小谷野さん」 さらに続けて、 「あなたが公立高校の受験に失敗した後、ずっと心配していたのよ。でも立派ね。一流女子大学に進学できるなんて、本当に頑張ったのねえ。えらいわ」 と捲し立てた。 小さな火花が放されたと思った。 ノー天気な山中が追随して言う。 「石田さんだって頑張って、4年制の大学に一発合格したのだ。すごいよな。生徒会長だった荒木は、一高から国立大学に進学するし、級長の石田さんも一流私立大に進学だ。中学時代から優秀な人は、どこまでも優秀だね・・・オレなんぞは、4月からはデパートの肉屋で枚掛けして包丁を握る店員さ」 笑いながら話した。 そして、祐二に顔を向けて話を振ってきた 「ところで松岡はどうするのだ。進学するのか?」と尋ねてきた。 祐二は夜間高校の友人達に気遣って、 「オレ達はすでに就職もしているから、二部の大学でも進学する者はほとんどいないな。少なくとも僕は考えていない。毎月一定の収入があって、財政的な準備ができても今更受験勉強する気持ちにはなれないものだ。なあ~小磯!」 自分の進学希望を隠して、祐二が同級の一人に相槌を求めた。 髭をたくわえた哲学者のような風貌の小磯が答える。 「勉強よりも世の中お金だよ、タイム・イズ・マネーってやつさァ・・・いや違うな。本当は猫に小判ってことかも・・・」 そう言うと大声で笑い、片手に掲げたビールを一気に飲み干した。 このようにして、シナリオのない食事会は推移していった。 ただこの後、次第にゆり子の言動が活発になる一方、対照的に亮子は一層押し黙り、沈黙を続ける。 ゆり子は、祐二の女房気取りをする。 食事や飲酒の段取りを、一々あれこれと祐二に聞きながら動く。 その姿をこれ見よがしに、亮子に見せつけている。 亮子は押し黙ったまま、ゆり子の言動と祐二の反応を伺っている。 少しずつ、座の空気が怪しくなってきた。 祐二はその急流に気がついていたものの、なす術もなく大きな不安を抱えながら事態の推移を見守るだけだった。 そして焦りが生じて、体が硬直していくのを覚えた。 いよいよ、不吉な黒い予感が脳裏を走った 飲酒組のペースが一段落すると、ごはんを食べる次の幕が開けた。 ゆり子は電気釜を横に置き、男たちにご飯を次々によそった。 手際よく一通り、全員の茶碗にごはんがいきわたった。 若者の食欲は猛烈だ。すぐにお代わりの声が飛んだ。 その度に「はい、はい」と言って、ゆり子はまるで母親のような仕草で明るく振舞った。 祐二はゆり子との直接会話を避けて、ごはんに手をつけずおかずだけに箸を伸ばしていた。 すると「祐二さん、どうしたの、お代わりは。今日は食欲がないの?」 と主婦のような言葉で彼に声をかけてきた。 「いや別に・・・」とさり気なく答えた。 祐二は顔を下に向けて、密やかに亮子の顔を覗き見た。 彼女の顔は、こわばりを示し唇が真一文字に結ばれていた。 (まずい・・・) もう泣きたいぐらいに、祐二は気落ちしていた。 不吉な予感は的中する。 席は離れていて、互いに直接の会話は交わさないものの、二人の女の鋭い火花が焼けていた。 亮子は、何故ここにゆり子が居るの?という疑問を深く連想させているはず。 祐二とゆり子との親密度を、女特有の直感で推し測っている。 ゆり子はゆり子で、偶然、山中が今日出会ったとはいえ、祐二が主催する食事会に拒むこともなく、何故同道してきたのかと疑問を越えて嫉妬の森に迷い込んでいる。 以前から祐二と亮子は深い仲ではなかったのかと、女は鋭い直感で嫉妬する。 二人とも互いに同じ男を好いていると結論し、ライバル心が芽生えたはずだ。 (2)傷心の亮子 ただ、今日の舞台では亮子が不利だった。 当然のようにゆり子は、料理の追加や食べ終わった食器の片付けを正妻のような振る舞いで始めている。 真っすぐな心根の亮子は、機転をきかして要領よく彼女を手伝い、献身を分け合うような行動はとれない。 ゆり子の正妻ぶる振る舞いに、相思相愛の相手だと信じてきた男に女ができていたのだと、敗北感に襲われてくる。 亮子は裏切られた思いで、胸がはち切れんばかりだった。 そして、ついにはその場にいたたまれず、突然に泣き出した。 慌てた祐二が「どうしたの」と、空々しく心配する声をかけた。 しかし、この彼の言葉を聞くと一層激しく嗚咽した。 祐二は、二人だけで話そうと亮子の腕を掴みかけた。 すると、それを拒否するように彼の手を強く振り払った。 立ち上がるとコートとバッグを掴み、一目散で玄関に向いて走りだした。 亮子は泣きながら、ドアを開け放して部屋を出て行ってしまった。 「悪いけどみんなでやっていて、彼女を駅まで送ったら戻るから」 そう言い残して、祐二は亮子の後を追った。 裏切りの結末 彼女は国鉄の小岩駅を越え、京成線の小岩駅に向かって泣きじゃくりながら走っていた。駅の改札を抜け、ホームで電車を待つ亮子に追いついた。 ホームのベンチに座っている。 彼女は下を向いたままだ。 祐二は駆け寄り声をかけた。 しかし、祐二の顔を見ようとはしない。 話しかけても無言だ。 まもなく、列車が入線してきた。 亮子の後を追って乗車した。 車内は空いていた。二人は隣同士に座った。 それでも彼女は一切口を開かず、祐二の顔も見ない。 「誤解だ、石田さんは彼女ではない。君だけだ」 囁くように言った。 そう言ったものの、誤解ではないことは自覚していた。 そのため何故今日あの場所にゆり子が居た、という理由を説明できなかった。 ゆり子とは肉体関係がないと弁明しても、許される理由にはならない。 そもそも、その言葉も信用されないかもしれない。 多感な18歳の乙女にとって、肉体関係がなくとも一つ屋根の下に男女が何度かすごしたであろうと推測できるだけで十分な裏切り行為。 特に今日のゆり子のライバルとして言動は、裏切りの動かぬ証拠でもあった。 あっという間に、下車駅である京成・葛飾駅(現在の西船橋駅)に着いた。 ここから彼女の自宅までの道は、人通りが少ない。 小学校と中学校が、並び建っているその校庭横の近道を二人は歩いていた。 祐二は、無視を続ける亮子の横に並んで歩いた。 「僕には君しかいない、信じて欲しい」と切願した。 抱き寄せたかった。 だが、自分が悪いことをした罪の意識がそれをさせなかった。 とうとう亮子は、彼女の自宅前に着くまで無言だった。 何を話してかけても無駄だった。 大農の小谷野家の大きな門柱の前に、二人は立っていた。 彼女から、その場所に留まったのだ。 これ以上、彼女を説くには家の中まで押しかけることになる。 その勇気も図々しさも、持ち合わせていなかった。 亮子も家族に、自分に起きた不幸な出来事を知られたくはなかった。 二人は正面で向き合い、互いの目を見つめ合った。 女の濡れた瞳が、祐二を悲しそうに見つめていた。 その前髪は頭の前部から後頭部まで伸びて、そこで束ねられている。 飾り気のない、若い女の自然な髪の結い方。 前髪をあげているので、彼女の特徴的な額の広さがよけいに際立っている。 (可愛い・・・) 昔のままの広いおでこが、美白に艶やでいる。 それは自然なまつ毛と黒い瞳に、見事なまでにバランスしている。 唇や鼻筋もその顔の中で完璧なまでに調和して、可憐な美しいを作っている。 二人はしばらく立ったまま、お互いを見つめ合っていた。 夕陽に照らし出された亮子の顔は、悲し気な表情で少し揺らいでいる。 そこにはいつもの愛くるしい笑顔が消えて、夜叉のような冷たい輝きを放っていた。 それも耽美的で美しい。 (綺麗だ。この女はボクだけのものだ) 心の中で叫んでいた。 悲しみを押さえる熱い口づけがしたかった。 その額に、キスしたい衝動が走った。 でも、拒まれる気がした。 祐二は亮子の広い額の生え際に、そっと指を差し入れて撫でた。 拒まない。 しかし、まだ厳しい眼差しで祐二の顔を見ている。 「一日も君を忘れたことはない。君なしの人生は考えられない、解かって欲しい!」 そう言って、手を握ろうと手を伸ばした。 だが、その手は強く振り払われた。 「いや嫌い・・・私の真心を裏切った」 初めて口を開いた。 大粒の涙が、美しい亮子の顔からこぼれ落ちた。 この言葉には、何の言い訳もできなかった。 偶発的な再会の結末を飾る最後の言葉になった。 「ゴメン、手紙を書くから。本当に好きだ!」 祐二も、最後の言葉を残した。 そして、彼女に背を向けて歩き出した。 (サヨナラ亮子・・・) これが今生の別れかもしれない、と覚悟はした。 新オケラ街道の大けやきの木の下で振り返った。 亮子はまだ立ったまま、祐二の姿を見送っていた。 悲愴 祐二は悲愴感に打ちつけられた。 帰りの電車の中で、男泣きの大粒の涙をこぼした。 陽が完全に落ちた頃、小岩のアパートに戻った。 そこには、友人達の姿がなかった。 ゆり子の姿も見えない。 誰もいない、もぬけの殻だった。 雑然とした部屋には、強風に飛ばされたように食器、鍋、ザル、残された食べ物とビールなどが散乱していた。 そのつもりはなかったが『二兎追う者は一兎をも得ず』の言葉が脳裏をかすめた。 その日から祐二は抜け殻のようになり、重度の腑抜け状態に陥った。 幼い頃より、どんな艱難辛苦にも辛抱強く耐えしのいできた祐二だったが、この出来事には耐えられなかった。 胸が圧迫され腸もねじれる。 苦しくて息が止まりそうだった。 心の中は悲愴感に、プルシアンブルー一色に染まった。 失恋だったら諦めることもできる。 失恋ではないと思った。 互いに未だに好き合っている、という確信もあった。 最後に『嫌い』と、はっきり言われてしまった。 だが祐二には『好きだけど今は嫌い』という意味にも理解できた。 その証拠に、彼女は別れ際に去りゆく祐二の後ろ姿を、ずっと消えるまで見送っていた。 祐二は、その視線を背中に感じ取っていた。 だから、本当に嫌われた訳ではないと思っていた。 従って、失恋ではない。 それでも運命の赤い糸がちぎれてゆく。 心の中は真っ黒闇。 気も狂わんばかりの状態が何日も続いた。 夢も希望もすべてが消えたと、失意の日々を送った。 その後、夜間高校の友人達には毎日のように会う。 あの出来事の責任は自分にあって、悪いのは自分だと皆に謝った。 友人達からは、祐二は二股をかけた悪い男だ、と烙印を押されてしまった。 一方、山中とゆり子からは、その後何の連絡もなかった。 祐二も、連絡をとる気持ちにはなれなかった。 不幸な結果になったが、祐二を除けば誰も悪くはなかった。 亮子を連れてきた山中を、恨むことも筋違いだった。 彼には、何の悪意はなかった。 ただ脳裏の片隅に、ゆり子が来ていることを知っていて亮子を連れてきた。 ゆり子が居ることを隠して、連れてきた可能性もなくはない。 その日に偶然会ったと言ったが、本当だったのか。 もしかしたら、事前に誘っていたのではないか、と小さな疑念も残った。 そもそも中学時代に、山中は亮子のことが好きで祐二に代筆をさせていた。 彼は自分の片思いを知ったはずで、その後に祐二と亮子が付き合っていることを知るのは、そう難しいことではないのか。 高校受験のとき、亮子は貧しい祐二に何かと世話をやいていた。 それは祐二の最も親しい友ならば、目の当たりすることはあったはずだ。 山中が片思いの失恋で失意にあったと考えると、その相手を射止めた男が祐二だと知れば、感ずるところはあったと思う。 まさか、山中が亮子へのラブレターの一件以来、祐二を恨み続けて復讐の策略を図ったのか? 祐二と亮子の仲を拗らせ、あわよくば彼女を自分のものにしよう、と企んだのではないか。 いやいや、それは祐二の被害妄想だろう。 あの山中は、お人好しの心置けない友人だ。 祐二は山中を信じ、全て悪いのは自分だと己を責めた。 ゆり子にも、すぐに謝りたいと思った。 しかし正直に自分の心の内、つまり亮子を愛していると告白してしまえば、ますます彼女を傷つけてしまう。 最も傷ついたのは、ゆり子かもしれなかった。 そのことから、すぐには連絡をとれなかった。 こうして友情も愛情も霧散した。 その後、裕二は山中とゆり子には会うことがなかった。 最愛の女との赤い糸がちぎれたその年の6月。 時は、グループサウンズの隆盛期にあった。 その一つ「ザ・ジャガーズ」が歌う新曲『君に会いたい』が発売され人気を博していた。 その歌声を聴くたびに、祐二は独り泣いた。 その歌声が心に沁みた。 そして僅かな希望への灯は、亮子が再び我が胸に戻ることを願い続けることだった。 「亮子、帰れ。ぼくのこの胸に・・・・」 若さゆえの苦しみ、若さゆえの悩みに今宵もひとり泣く。 (3)真夏の訪問者 傷心の日々を送る祐二は、小岩のアパートを引き払った。 心機一転の契機にするつもりだった。 3月に起きたあの不幸な出来事の舞台であるとともに、多くの女性と性交を重ねた部屋でもあった。 そこから、一日も早く脱出したかった。 寺町 通勤・通学には遠くなったが、千葉県市川市の中山町に転居した。 家賃は安く法華経寺の寺町の一角で、緑が多く落ち着いた雰囲気があった。 小岩とは、異なる環境を求めた結果だった。 また卒業した船橋市の中学校や思慕する小谷野亮子の自宅へも、近くはないが徒歩で行ける距離でもあった。 そこは国鉄の下総中山駅から北側に向かい、京成線の踏切を越えて法華経寺に繋がる参道を登る中腹にある。 その参道の右手奥にある、木造建ての貸し間式の古いアパート。 この参道は中山競馬場から続く『旧オケラ街道』とも繋がっており、往時には競馬帰りの客を目当てにした賭け将棋など様々な露店が立ち並んだ。 参道からアパートまで続く短いスロープを登ると、古びた大きな黒門がある。 それを潜ると広い玄関が表れる。 表札には『田中』と書かれ、アパート名は書かれていない。 その左手は、北側の裏庭に繋がる。 右手の奥には、池のある広い和風庭園がのぞいている。 ここは寺の宿坊だったものを、そのままアパートとして活用している。 玄関を入り高い敷居を跨ぐように上がると、左手の短い廊下が管理室に続く。 右手には、磨かれて艶々の廊下が南側の庭に面して長く続く。 いわゆる縁側。 その廊下の左側に各部屋がある。 祐二の部屋は入って最初の部屋。 部屋の西側には格子窓がある。 玄関と管理人室に繋がる廊下に面していた。 採光や通風のためのものらしい。 祐二には管理人の監視窓にしか思えなかった。 各部屋にはドアがない。 廊下との仕切りは障子戸だけ。 当然、鍵などは付いていない。 全くプライバシィが保たれていない畳敷きの部屋。 おまけに台所もトイレもない。 あるのは押し入れだけ。 つまり寝泊まりするだけの部屋にすぎなかった。 トイレ、炊事場、洗濯場は共同で廊下の一番奥に設けられていた。 早朝には法華経寺から読経が聴こえ、線香の匂いが庭から流れてくる。 夜学やホスト稼業から帰宅する深夜は、参道もアパートも灯りは消えている。 全くの静寂の闇に包まれる。 歴史のある寺町での生活は、決して利便性が高くない。 ただ心機一転するには、環境の大きな変化が必要だった。 転居したことは、ただ一人亮子だけに手紙で連絡した。 しかし、引き続き何の返事もなかった。 大きな期待はしていなかったものの、その事実は心を挫けさせる。 現代のように携帯電話やスマホが普及していれば、物事の進捗がスピーディで結果も多辺に富んでいたことだろう。 そんな新居での生活に、ようやく慣れてきた8月下旬。 緑茂る庭先からは、蝉の鳴き声がどことなく弱々しく聞こえてくる。 夜学は夏休みサパークラブもお盆休みがあって、8月は一年で最も暇な時期。 この時期の休日は帰郷する所もない孤独な祐二にとって、ゆっくりと身も心も休めることができる。 病んだ胸の痛みも徐々に落ち着きを取り戻してきた。 さらに大学二部への進学も具体的になりつつあった。 亮子を愛する心は緩むことはなかった。 だが、少しずつ失恋という諦めのさざ波が寄せては引いていた。 会いたかった亮子とは、この3月に偶発的に再会した。 しかし、その結果は無残なものだった。 ちぎれた赤い糸は、ほぐれたまま。 突然の来客 そんな日曜日の午後、昼飯を食べに行こうと身支度をしていた。 そこに管理人のおばさんの甲高い声が祐二を呼んでいた。 「松岡さ~ん、お客さんだよ・・・玄関に来て頂戴!」 (誰だろう?) 友人達との交流を避けていたので、転居以来訪ねてくる人は誰もいなかった。 ランニングシャツにジーンズの姿で、明け放しの障子戸から廊下に出た。 腕を捲って白い割烹着を着込んだ小太りの管理人のおばさんが、こちらを向いてニコニコ笑って立っている。 「お客さんにあがってもらったら、冷たいものでも用意しようかねえ~」 そう言うと、北側にある自室へと消えていった。 開かれたままの玄関の引き戸のそばに若い女性の姿があった。 上着は白地の綿のノースリーブ。 下は流行りのマリンブルーの布地に白ストライプが入ったアンクルパンツ姿。 髪は、ツイッギー・カットのショートヘアー。 いかにもボイッシュで、眩しいほどの爽やかな出で立ち。 (誰だろう・・・?) ほんの一瞬、誰だか分からず声が出なかった。 (え~っ、亮子!?) 祐二は、忽然と現れた愛しい女との出会いに我が目を疑った。 呆然と玄関の上から、その爽やかな容姿を見下ろしていた。 夢心地で声も出ない。 夢ならば、覚めないで欲しいと願った。 すっかりイメージチェンジした亮子の全身を、まじまじと見つめていた。 顔は薄化粧だったが、口紅だけは赤くくっきりと塗られていた。 半年ほど前には気が付かなかったが、背丈は伸びて顔立ちもやや痩せて面長。 すっかり、大人の女性に変わっていた。 それでも亮子は、いつものはにかむ仕草を示してもじもじと立っている。 麻地で編まれたショルダーバッグをささえている肩をそばめている。 その清純ないじらしさは、今も変わっていない。 それとは裏腹にノースリーブから出ている二つの腕は肉感的。 さらに成熟した腰と太腿がアンクルパンツにピタリとした密着している。 その姿は、まるでグラマーなモデル並みの迫力が漂っている。 立ち尽くしている祐二を見かねて、ハニカミ屋の亮子から精一杯の明るい声が飛んできた。 「誕生日のプレゼントを持ってきたの!」 いつもの直情的な言葉を吐きながら、玄関の中に身を入れてきた。 飛び上がるほど嬉しかった。 来月9月は、祐二の19回目の誕生日。 天にも昇る気持ちとは、このことだろう。 ショルダーバッグを開け、中から地味な茶封筒を取り出し片手で突き出した。 感激のあまり、声がすぐに出なかった。 両手でそれを受け取ると、思わず中身をその場で取り出してしまった。 中から出てきたプレゼントの品は、紺色のレース糸で手編みされたネクタイ。 包装紙にも包まれていないこともあって、それを見てすぐに手編みと感じた。 首に巻く部分が細くくびれておらず、ほとんど全体に同じ幅のネクタイに仕上がっている。 実際にこのネクタイを締めたら、結び目が膨れるような気がする。 しかし、どんな高価な品よりも、祐二にとってずっと価値がある宝物になる。 亮子の祐二に対する愛の強さや、深さが込められている逸品だ。 きっと祐二の誕生日までに、間に合うよう編み始めたのだろう。 従って、相当前から会う決心をしていたのだろう。 おそらく会う決心をしたのは、あの不幸な出来事の直後。 会う切掛け作りのため、祐二の誕生日が近づくのを辛抱強く待っていたのだ。 「あらどうしたの。まだ玄関先で何をしているの。松岡さん早く上がってもらいなさいよ」 管理人のおばさんが玄関に戻ってきた。 両手に抱えたお盆には、麦茶が入ったコップが二つ乗せてある。 「上がって」と言って、祐二は両手を差し伸ばした。 ここの敷居は玄関から、かなり高いので上がりにくい。 亮子は黙って、祐二に両の手を投げかけてきた。 その手を握り、上からその手を引っ張り上げた。 おばさんは、先に祐二の部屋に入っていた。 中央に置かれた『ちゃぶ台』に麦茶を置いていた。 二人が部屋に入ると、ニヤニヤと薄笑い顔を作って言う。 「ゆっくりしていきなさいよ!」 その視線の先は祐二ではなく、若い娘の顔を覗き込んでいた。 「ありがとうございます」 緊張している祐二に代わり、亮子が立ち姿のまま軽くお辞儀をしてお礼の言葉を返した。 暑い季節なのにおばさんは気を使ったのか、障子戸を閉めて出て行った。 二人は、ちゃぶ台を囲んで座った。 3年半ぶりに、二人きりの世界ができた。 「何もない部屋なのね・・・」 部屋を見渡しながら、亮子から先に口を開いた。 「ここは貸し間だから、あまり食器や家庭用品は置けないので・・・」 「確かにあるのは万年ぶとん、ちゃぶ台、扇風機ね、電気釜とゴミ箱はなくなっているわ」 小岩のアパートでの調度品を記憶していて、今その比較をしている。 まだあの日の焼きもちが消えていない。石田ゆり子との関係を気にしている。 誕生日プレゼント 祐二はその話は避けるように、プレゼントのネクタイを手にしながら言う。 「ありがとう、真心のこもったプレゼントだね。手作りのネクタイなんて感激だよ!」 真顔で言った。 「不器用だから下手だけど、喜んでもらえたら嬉しいわ」 続けて言う。 「誕生日プレゼントに、手編みのネクタイを選んだ理由は解る?」 押しつけるように、自らプレゼントの品の選択理由を彼に尋ねてきた。 夜の水商売をしている祐二には、その意味が十分解かっていた。 女性が特定の男性にネクタイをプレゼントするのは、ネクタイが首にかけられることから「あなたに首たっけ」「丸惚れ」という愛の告白の意味が込められている。 当の女性自らの手で編んだネクタイには「私だけのもの」の強い独占欲が隠されている。 「知識としても分かっている。それに亮子さんが僕を慕ってくれ続けている気持ちも、今よく分かった。君を傷つけた僕なのに、その僕だけを好きだと言ってくれている。嬉しい・・・本当に悪いことをしたと後悔してきた。許して欲しい」 さう言うと、その手編みのネクタイを強く握りしめた。 「大事なのは好きなことだけではないのよ。手編みの意味も・・・」 けっこう強い口調で話しているものの、声が震えている。 今にも、泣きだしそうだ。 「今しっかりと分かったよ。君だけのものになる。今までもそのつもりだった。けれどその気持ちが、君に伝わらなければ何の意味もない」 「松岡クンが私を思ってくれる気持ちだけではないわ。私は貴方だけのものになりたい。高校は別れ離れになったけれど、ずっと松岡クンだけを思い続けていたわ。すぐにも会いたかったけれど、受験の失敗で落ち込んで、立ち直るのに時間が必要だったの・・・」 そう言うと、すぐに涙ぐんだ。 続けて、涙を拭いながら言う。 「病院にも行ったの。つらかった3年間だったけど、思いつめる性分の私もいけなかったと思うの。あなたもつらかったでしょう。夜学に行くようになって、大変だった貴方を支えてあげられなくてゴメンナサイ。大学に進学できてようやく貴方に会える勇気が出てきたの。立ち直って成長した私の姿を貴方に見てもらいたかった。私のことも許して。そして、貴方も私だけのものになって・・・」 祐二のことを、初めて「あなた」と、呼んでいた。 少し押しかけ女房みたいな感じもした。 だが、これまでになく強い意志を示している。 そう呼ばれて、夫婦や恋人になった気分で内心嬉しかった。 特に『私は貴方だけのものになりたい』は、恋から愛に変わった女の切なる心からの言葉と確信した。 亮子は、顔を伏せて泣き始めた。 やはり、自分が心の病に苦しんだ時期に、同級生だった石田ゆり子と親しくなっていたことが心の重荷になっているようだ。 いつもの感情をストレートに表す、彼女のいじらしい姿でもあった。 しかし、中学生の時とは異なり、自分の意思をはっきりと伝える人間に成長している。 泣き顔が起きて、祐二を見つめてきた。 「このネクタイはレース編みでしょう。糸は縦の糸と横の糸で織り合わせているのよ。縦の糸はあなた、横の糸は私よ。例え糸がほぐれたり、ちぎれたりしても、糸を繋ぎ合わせることはできるものなの。愛は育むものでしょう」 「そうだね」と応えた。 しっかりと、理屈までも取り入れて述べる彼女の成長に再び感心する。 確かに『恋』と『恋愛』は同意語だが、『恋』と『愛』は違うと考えてきた。 それは愛が育むものだから。 片思いは、恋だとしてもそこには愛がまだ存在していない。 『愛』は育むもの、祐二の心にその言葉が深く刻まれた。 「私たちこの3年半もの間、ちぎれた縦糸とほぐれた横糸になったけれど、これからもう一度糸を繋ぎ合わせましょう。お互いの気持ちを信じて育みましょうね・・・」 美しい瞳が裕二を凝視する。 続けて言う。 「たぶん、これからも傷つくことも、誤解することもあると思うの。特に、貴方はお人好しで、頼まれたら断ることができない性格。人に流され易いやさしい人でしょう。お互いに傷つくことが出てくる。でも絶対に信じ合いましょう。約束して頂戴!」 しっかりとした分析で祐二の性格を見抜いていた。 さらに姉さん女房のような口調で、釘を刺す約束までも求めてきた。 *(この亮子が言った「縦糸」と「横糸」の言葉は、有名な歌の歌詞と似ている。しかし、これは実際に亮子自身が実際に語った言葉。その手編みのレースのネクタイは今も大切に保存されている) 「よく分かった、信じ合うと約束する。僕はずっと君を信じていた。僕のことを信じてくれてありがとう。もう絶対に君を放さない!」 祐二も涙目になった。 「会いたかった」 祐二は声を絞って言った。 声を出して泣きたいほどに、感情が高まってきた。 身を乗り出し、ちゃぶ台越しに亮子の両肩を押さえた。 うつむいたまま「私もすごく会いたかった」と言う。 彼女は、涙目に手を当てた。 祐二は膝を進めちゃぶ台の横に回って、亮子をきつく抱きしめた。 彼女の顔が、彼の胸に埋まった。 肩を揺らして泣いている。 愛おしい。 さらに、きつく抱きしめた。 そのまま押し倒した。 髪に指を入れて撫であげ、顔を押さえた。 亮子の広い額を久々に間近に見た。 そして、そこにフレンチキスをした。 彼女は目を見開き、祐二の顔をきつく見つめている。 「毎日会いたくて泣いていた」 と言うと、すぐに彼の首に腕を巻きつけてきた。 二人の顔が触れ合う。 そのまま口付けを交わした。 中学3年生以来、3年半ぶりの熱いキス。 あの頃の情景が去来する。 二人が純粋だったあの頃の気持ちに戻って、同じような口付けになるように試みた。 塾した果実 祐二の胸が、亮子の豊かに成長した胸のふくらみを圧迫している。 その胸は、以前よりも明らかに盛り上がっていた。 それに反して、首筋は細く長くなっていた。 鳩胸を支えていた肩も撫で肩に変形し、女性らしい曲線を描いている。 成熟とはまだいえないが、少女から大人の体に成長していた。 そのルージュに染まった唇をきつく吸った。 食べ頃の熟した果実の味がした。 瑞々しい息吹を感じる甘さと、酸味が一体となったフレッシュさがあった。 唇を合わせたまま、再び強く抱きしめた。 呻き声がもれた。 いつの間にか、亮子の舌が祐二の口の中を這っていた。 彼は一瞬たじろいだが、すぐに甘露の媚薬に酔った。 女の舌は、蛇のように舌に絡みついた。 長く激しいディープ・キス。 溢れ出た二人の唾液は、互いの口の中で混ざり合う。 混ざり合ったその唾液は、それぞれの口から滴りこぼれた。 顎まで滴れた唾液も、二人は交互に吸っては飲み込んだ。 久しぶりの激しい口吸い。 二人は、その甘味にすぐに酔った。 久々の刺激に、二人の全身に電流が流れた。 呼吸も乱れた。 長いキスの後、女を下に組み伏したまま男の顔は女の胸に伏せていた。 女の胸は次の陶酔に溺れるのを待つように、その隆起が荒い呼吸に揺れ動く。 「死ぬほど好きだよ」 女の耳元に囁いた。 「私だって死にたいほどだった、早く会いたかった。大事な青春の3年間・・・ずっと貴方が欲しかった」 その言葉を聞くと、女の頭を両手で押さえ、顔を伸ばして再び口吸いをする。 もう一度の激しい口吸いに、二人は酔った。 再び女の呼吸が荒くなり、胸の隆起が揺れる。 キスを続けながら祐二は、ノースリーブの上から揺れる右胸の隆起をわし掴みにする。 その瞬間、女の舌が彼の舌を巻き付けて、強く長く吸い込んだ。 その後女は、息苦しくなって男の舌と唇を放した。 「ハァハァ」と息を荒げている。 一息入れると、自分でノースリーブを首までたくし上げた。 白いブラジャーからはみ出した隆起が、艶ぽっく母性を感じさせる。 女の背に手を入れ、ブラのホックを外した。 「外すの、上手なのね」と女が囁いた。 緩んだブラジャーを素早く取り払い畳に投げた。 そして首に止まっていたノースリーブも、頭を通して取り払った。 白い肌の上半身が眩しく輝く。 楔(くさび) 祐二は、亮子の上半身を起こした。 汗で髪から額にかけ濡れている。 上半身は白い肌が上気し、ほのかな桜色に染められていた。 次に何が始まるのか。 アンクルパンツやショーツも脱いで、全身裸になればよいのか、と男の指示を待っている。 男は待たせた。 ようやくランニングシャツを着たまま、ジーンズとパンツを脱ぎ捨てた。 亮子は中学校の教室で初めて抱かれた祐二との刺激的で甘美な想い出が蘇っていた。次第に、過去の恍惚の響きが体中に蘇ってくる。 愛おしい男の肉体が欲しいと、体の奥底が蠢いてきた。 その時、裕二は格子窓の外に人の気配を感じた。 その気配は、揺らいだ影だった。 管理人のおばさんが、聞き耳を立て覗いている。 だが、ここまできた愛の営みを止めるつもりはなかった。 <見られてもいいから続行する> 裕二は自分に言い聞かせた。 放心している女を、乱暴に押し倒した。 その両足を上げさせた。 そして両方の臀部の下に手をやり、アンクルパンツとショーツを掴んで一気に剥いだ。 女は、全裸になった。 すっかり大人の体になった、亮子の全裸をゆっくりと眺めた。 「亮子、これから良くなっていくけど声は押さえてね。この部屋はよく響くから」 「は・・・い」 喉がかれて、かすれるような声で返事をする。 男は女の体の横に張り付き、時間をかけて丁寧に全身を愛撫する。 女の顔を覗いた。 声が上げるのを、懸命にがまんしている。 片手を口に当てていたが、顔は半狂乱に苦悶の表情が続く。 次第に短い髪を振り乱し、顔を左右に振り出した。 喉の奥から、唸り声が聞こえる。 咆哮をがまんしている。 そして、二人の肉体が重なると口から手を放した。 口を大きく開けて、声を押さえながらも二度ほど低く吠えた。 髪、顔、全身に汗が噴き出していた。 「祐二、大好きぃ!」 小さく叫ぶと女は倒れ込んだ。 3年半待った久しぶりの激しい性愛。 その後、女は未知の性技をいくつも体験させられた。 連続する絶頂感に、心身ともにこの世にいる状態になかった。 男は、それを確かめる。 目は虚ろ。 口も半開きになっていた。 いたわりたくなって、口付けをした。 しかし、反応はなかった。 それでも男は、女の表情に安堵感を見てとれた。 やすらぎの美しい顔だ。 この聖女のような亮子を、一生幸せにしたいと思った。 すると、静かに女の腕が伸びて、男の首を強く巻く。 ヴィーナスのような美しい顔が微笑んだような気がした。 若い二人は、身も心も満たされていた。 「綺麗だ、美しい・・・」 裕二は小さく囁いた。 祐二の19歳の誕生日のプレゼントに、<手編みのネクタイ>を届けてくれた小谷野亮子。 それは裕二の<裏切り>を許すとともに、この後の二人の愛の絆を確かなものにする愛の印だ。 その日の二人は、中学校の体育祭で初めて結ばれて以来、激しくその肉体を貪り合った。 昼下がりの情事を管理人のおばさんに覗き見されてしまった。 だが無視して、二人だけの愛の世界に深くのめり込んだ。 幸せの小路(こみち) 愛の交歓を終えて、彼女を自宅へ送るためひっそりと二人はアパートを出た。 参道は桜並木だが、今は緑の葉が風に揺れている。 夏の西日が沈む頃、坂下の下総中山駅から続く一本道に真っすぐな風が吹きあがってくる。 火照った体と頬に、柔らかな涼しさが流れる。 参道には提灯が灯され、行き交う人々にやすらぎを醸し出している。 二人は手をつないで、法華経寺に向かってゆっくりと坂道を登った。 愛の約束と深く肉体を交わしたことで、心身ともに満たされて二人は幸福感に酔っていた。寺の中山参道山門に突き当たると、右折して若宮町に入る。 坂道をいったん下り点在する住宅を抜けると、上り坂になり広い畑地に出る。 そこには、中山競馬場と厩舎が見えてくる。 3年前、単身東京に出て働くことと夜学に転校することを余儀なくされた。 そのショックと亮子への思いに一人悩み迷い歩いた場所だ。 あの時は、法華経寺に映える夕陽の美しさに心が震えて東京行きを決意した。 今は同じ道を逆方向に、追い求めた恋人と手をつなぎその愛に包まれながら歩いている。 これまでの苦悩が、嘘のように胸から消えていた。 二人は、一言も発しない。 幸福感に酔いながら、ゆっくりと静かに歩いた。 しばらくすると、原木松戸道路に出る。 それを横断し、そのまま進むと道は突き当たる。 そこは新オケラ街道。 さらに左折すれば、亮子の自宅になる。 右折すると、大けやきの木と二人が卒業した中学校がある。 「学校に寄ってみない?」 ぽつりと祐二が言った。 二人の愛の出発点だった中学校に行って、思春期の思い出に触れたくなった。 「ええ、私も行ってみたかった・・・」 「よし行こう、長いはしないからね」 彼女の帰宅時間に配慮した。 この道は、中学校の校舎の裏手にあるグラウンドに続く。 校舎側にある正門は夕方には閉ざされる。 だが、グラウンド側には門がなく夜でも出入りできる。 二人は手をついだままグラウンドに入り、その中ほどで立ち止まった。 ひと気はなかった。 「二人して、ここを通って帰ったね」 「そうね。また明日会えることに胸がいっぱいだった。なつかしいわ・・・」 「僕は暗い家庭だったから、好きになった君に会えることが、生きる希望だった・・・」 「いつ頃から、私のこと好きになったの?」 「クラス替えがあった2年生のとき、・・・可愛くてマブイ女の子と思った」 「それからどうしたの?」 「君は僕のすぐ後ろの席だったろう。毎日胸がキューンとした。すぐに話しかけたよね」 「そうね、気安いというか、図々しいぐらいに、あれこれと話しかけてきた。おかげで、通信簿に授業中のお喋りを慎むように、と書かれたわ。いつも消しゴムや鉛筆を貸してくれって、甘えるのだから。女子二人での下校中に、勝手に割り込んできて話に入るのだから・・・」 そう言って、クスクスと笑った。 いつのまにかグラウンドは夕闇に包まれ、静寂の中で二人は両手を握りあい向き合った。 「じゃ僕のことはいつ頃から好きになってくれたの?」 「いつ頃からかしら、それがよく分からないの。いつの間にかという感じね、いつしかあなたの顔と話し言葉が、頭から消えなくなっていた」 「ソフトランディングか・・・」 思わず微笑んだ。 「そうなのよ、好きなタイプでもないのにあなたに一瞬でも見つめられると、その度にゾクゾクして、私も胸がキューンとするようになった」 「そうだったの、どういう人がタイプだったの?」 「言っていいのかしら、そうね、俳優で言えば『北大路欣也』みたいな人」 「へ~え僕とは似ても似つかない二枚目タイプじゃん、全然違うじゃないか」 「確かに違うわね、本当どうして好きになったのかしら、やっぱりあなたの吸引力の強さに引き込まれた。恋の魔術師なのかしら、いつの間にか寝ても醒めても、あなたが私の胸の中に入ってきたのよ」 「そうか、中学生の魔術師か」 少し驚いた。 実はホストの仕事には『恋の魔術師』というオーデコロンを使っていた。 いつも、カバンの中に仕舞っておいた。 もしかして小岩か今のアパートで、彼女が見つけたのかと心配してしまった。 ホストの仕事のことは話していない。 これからも言うつもりもなかった。 ただ、彼女の顔が少し曇った気がした。 女の直感は鋭い、気を付けよう。 「もうそれからは、あなたは私のオナペットだったわ。ただ、本当に恋の相手として意識したのは、あなたが家出して、2週間近くも学校を休んだ時からよ。もう心配で、心配で、会えなくなるのかと思ったら、泣けてきた。あなたがいない学校生活は、どんなに味気ないものか身に沁みたわ。下校後は家に帰らず、毎日『印内八坂神社』に寄って、お祈りをしていたの。早く戻ってきて欲しいと、願をかけていた・・・」 「え~っ初めて聞いた話だね。休んだ後に登校しても一言も言わなかったね」 「そうね。・・・実は言えない理由があったのよ。今だからもう言えるけど、あなたが休んでいて、明日から登校してくるという前日に、担任の山谷先生がクラス全員にかん口令を出したの。『明日から松岡君が出てくるが、クラスに戻っても、家庭の事情を中傷したり、休んだ理由などを聞いたりしないこと。今までのままで変わらず仲良くするように、何もなかったように接するように・・・』と厳命していたのよ」 「ええっ!そうだったの、それで誰もあんなに長く休んでいたのに、休みの理由を尋ねてこなかった。少なくとも先生には、職員室に呼ばれて絶対叱られると覚悟していたのに、何もなかった。これまで不思議に思っていた・・・」 「だから貴方に対して、慰めや励ましの言葉をストレートに言えなかった。ただその時から、貴方を守ると決めたの。いつも貴方のそばにいて、支えてあげたいと思ったの、その時から『好き』が『愛する』に変わったと思の・・・」 「そうだったのか、本当にありがとう。それでいつも僕のそばにいてくれた。体育祭のときも、一人教室に残っていた僕を心配して、見守ってくれていたのだね。あの時は驚いたよ。みんなグラウンドに行ったはずなのに、急に君が現われ、僕の指に包帯を巻いてくれた。その直後に教室で君を奪った。苦しかった僕をずっと支えてくれた君を抱いた・・・」 「偶然できた二人きりの時間だったわね。私は早くあなたに抱かれたかったの、神様が授けてくれた奇跡のひと時・・・」 「そうだね。それから僕のあの長い休みは、本当は家出じゃなかった。今さら話してもしかたないことだけど、あの頃はどん底の貧乏状態で家庭崩壊に陥り、義妹と義弟は継母とともに実家に戻ってしまい。残された僕は、父親から実母の元に行けと、一円の金も持たされないで放り出された。要するに家族解散。それで住所が判る祖母がいるという横浜に向かった・・・」 祐二は、初めて家出の真相を吐露した。 「そうだったのね。あなたが私に黙って家出するとは思っていなかったけど、そんな事情が隠されていたのね」 「ところが、もう祖母は訪ねたその場所にいなくて、僕は警察に保護された。その後は児童相談所に預けられた。10日ほどして父が引き取りに現われ、船橋に戻ったというわけ」 「本当につらい思いをしたのね。でも学校に戻った後、明るく振舞っていたわね。芯の強い男の子と思ったわ」 「君の存在があったからだよ、いつも僕のそばに居てくれた。そして励ましてくれ、いろいろと援助もしてくれた。君の愛に包まれていた。もし君がいなかったら、間違いなく自殺していたと思う」 そう言うと、急に切なくなった。 暗く苦しい家庭生活が脳裏を走った。 「愛は強し。貴方を支えることで、私も生き甲斐ができた。大切な人と結ばれた中学時代、私は幸せだったわ」 さらに続けて言う。 「だけど卒業後は会えなくなって、辛くて悲しかった。その上、あなたは船橋から離れ東京に出てしまった・・・」 「3年半もの間、お互いつらい日々だったね。特に、君には僕の軽率な行動で、二重、三重に苦しめてしまった。本当にゴメン」 裕二は、亮子の手を強く握りしめた。 「それでもこうして今日、もう一度結ばれたわ。私達幸せ者よ、お似合いの恋人同士だわ」 「亮子!」 裕二は叫んだ。 そして、すばやく肩を抱き寄せた。 「あなた!」 彼女から唇を寄せてきた。 祐二は強く抱きしめた。 二人は、ゆっくりと静かにキスをした。 長いキスが続いた。 やがて、どちらかともなく口を離すと「帰ろうか」、「ええ」 祐二は片腕で彼女の肩を抱き、彼女は頭と体を彼に傾けた。 二人はグラウンドを抜け、大けやきの木の前を通り抜けて亮子の自宅へと向かった。 自宅の前に着くと、次の日曜日に会う約束をした。 二人にとって、本格的な大人のデートになる。 (4)浴衣の誘惑 亮子を自宅へ送ってアパートに戻った祐二は、洗面道具を持って外出した。 夜の参道を下り、京成中山駅の近くの定食屋に入り夕食をとった。 食後はそのまま、すぐ近くにある銭湯に寄った。 女の残り香が残る火照った体を洗う。亮子の成長した肉体が目に浮かんだ。 洗いながら、予期しなかった今日一日の出来事を振り返った。 今日のことは、裕二の人生で最大のメモリアルデーになった。 爽やかな気分で銭湯を出て口笛を吹きながら、参道を登りアパートに帰った。 部屋に着くと、障子を開け放して、蚊取り線香に火をつけた。 扇風機のスイッチを入れた。 その前に座り上半身裸になって、洗った長髪を揉みながら乾かしていた。 しばらくすると、管理人のおばさんが廊下を歩きながら「松岡さん戻ったの、入るわよ」と声を放ってきた。 祐二が返事をする間もなく、あっと言う間にお盆を抱えて部屋に入ってきた。 「冷えたラムネがあるから、飲んで頂戴!」 そう言うと、お盆にのせてきた2本のラムネをちゃぶ台の上に置いた。 「おばさんも飲みたかったから、一緒に飲みましょう」 そう言って座り込んだ。 すでにラムネのビー玉の栓が落とされ、小さな泡つぶが瓶の中で冷たさを伝えている。 おばさんは、白地に紺色で染められた朝顔模様の浴衣(ゆかた)を着ている。 髪を洗った後なのか、ほぐれ濡れている黒髪が妙に色ぽっい。 今夜は、50代のおばさんには見えない女の色気があった。 小太りの体がゆったりとしたゆかたに包まれ、年齢よりもずっと若く見える。 「今日は暑かったわね、夜はいくらか涼しくなったけど、日中は暑さでムンムンして、昼寝もできなかったわ。そうそう若いお客さんは、いつ頃帰ったのかしら?」 そう言いながら、祐二にラムネの瓶を差し出した。 (いつ帰ったか知っているくせに・・・) 「すいません、いただきます。友達は夕方に帰りました」 ラムネをおばさんの手から受け取る。 おばさんの胸元が目に入る。 乳首が見える寸前まで、胸元が開いている。 「若いっていいわね。二人とも元気はつらつとして、うらやましいわねえ。おばさんも若い頃に戻りたいよ」 祐二は風呂上がりで喉が渇いていたので、一気にラムネを飲み干した。 「あ~ら一気飲み、男らしいじゃないの・・・」 「ごちそうさまでした」 ラムネの瓶を、ちゃぶ台の上に置いた。 祐二はおばさんが飲み終わり、部屋から出ていくのを待った。 彼女は両の足を斜め横に崩して、ゆっくりとラムネを喉に流し込んでいる。 やがて飲み干したのか、座った姿勢で瓶を片手に持って、祐二の体ににじり寄ってきた。 目をトロンとさせながら、上気した顔を寄せて突然言い出した。 「・・・見たわよ。激しすぎて腰が抜けそうになった。あんなの見たのは生まれて初めて」そう言うと、さらに膝を進めて体を寄せてきた。 「お願いがあるの、後生だから一度でいいからオレにも頂戴。抱いておくれよ。悪いようにはせんから・・・」 今にも、祐二の体に飛びつきそうな気配を示す。 「ダメです、冗談やめて下さい。そんなことできる訳ないでしょう!」 断りながら、その体を制した。 それでも、再び体をにじり寄せる。 すると帯が緩んだのか胸元が一層広げられ、肩からゆかたが落ちそうになる。 もう完全に、若い男の横に体を接していた。 するとゆかたの裾を少し緩め、大きくあぐらをかいて座り込んだ。 そして、裾を広げまくり上げた。 ショーツを履いていない。 祐二は呆気にとられた。 「ふ~っ、年寄りに恥ずかしい恰好をさせて、よく平気だね」 そう言って、半分怒った表情をみせた。 (勝手にやっていれば、僕には関係ない。今日は愛する亮子と和解して結ばれた記念すべき日だ。何でおばさんと戯れなくちゃいけないのか・・・) 根負け おばさんは、その内に帰るだろう。 ただおばさんは今、自分のことを「オレ」と、言っていた。 何かひっかかるものがあった。 どこかで聞いたことがあった。 思い出した。 そうだ亮子の8人の姉さんの誰かが、自分のことをオレと言う、と亮子から聞いたことがあった。 すると、もしかしたらおばさんは、この辺りの農家の出身かもしれない。 ひょっとすると、小谷野家の知り合いの可能性もある。 だとすれば、ますますやばい。 亮子を、二度とこの部屋には呼べない。 これからは、外で会うことにしようと決めた。 女は、乱れた姿でだらしなく横たわっていた。 祐二は扇風機を動かして、おばさんの顔に直接風があたるように動かした。 しばらくすると、女はむくりと起き上がった。 「よくも恥をかかせてくれたね。若い女にはヒィヒィ言わせるくせに、年寄りには指一本触れないつもりかえ、オレも腹くくったよ。あの子は小谷野家の娘だろう。言いふらしてやるから!」 「え~っ、そんな。止めて下さいよ、何も悪いことしているわけじゃない。真面目に付き合っているのだから」 彼は、困ってしまった。 世間は狭い。ましてや農家の横の結びつきは強い。 関係する男女の色ごとの噂は、あっと言う間に広まり易い。 これから本格的に亮子との交際が始まり、将来は結婚したいと願っているのに、妙な噂で亮子を傷つけることはできない。 交際を禁じられてしまう可能性も出てくる。 問題が起こってしまった。 迷った。 「こんなに頼んでもダメなのかい。聞いておくれよ。おばさんは長い間、男日照りなの。戦争で夫を亡くしてね。いつも一人寂しくしているのよ。親孝行だと思って、一度だけだから二度とは頼まない。お願いだ。思い切りオレを食べておくれよ」 今度は、泣き落としにかかってきた。 女は半べそをかきながら、両手を合わせて頭まで下げている。 その仕草に負けてしまった。 やさしすぎる祐二の悪い癖。 亮子にも注意された。 頼まれると嫌と言えない性格を指摘されたばかりなのに、恫喝や泣き落としもあったが、最後にはその強要に負けて同情がその決心をさせた。 しかし同情であっても、これは亮子に対する大いなる裏切り行為。 「分かりました。負けました。でも約束してください。小谷野家には何も言わないと約束してください」 とうとう白旗を掲げた。 「本当かえ、約束するよ、怒ってゴメンよ、親孝行な息子だよ、おばさん嬉しい1回だけだから」 涙声で言った。 祐二はジーンズを履いたまま、座っているおばさんの前に無言で立った。 彼女のゆかたは、帯の部分だけが身についているだけで、上半身も下半身もむき出ている。 おばさんの目がキラリと光ると、すばやく男のジーンズとパンツを剥ぎ取る。 そのまま二人は倒れ込んだ。 (亮子ゴメン、許してくれ・・・1回だけだから) 女は昼間覗き見た、若い二人の抱擁を思い出しそれを真似る。 「たまんないねえ。松岡の若い体」 そう言うと、満足そうな表情で相好を崩した。 祐二はうな垂れている女の顔を上げさせると、その前に膝をついて屈んだ。 顎を掴み上げると、上向いた唇に口付けをした。 50歳を超える女との口吸いは初めての体験だった。 甘酸っぱさには多少欠けるが、大きな違いはなかった。 二人の口内に甘美が走り、二つの舌が絡み合った。 口吸いを続けながら抱き寄せ、二人の胸を合わせて乳房を潰した。 弾力の強い胸が心地よい。 さらに、うなじや喉元に唇と舌を這わせた。 「抱いてくれるのかい?いいのかい。こんなおばあちゃんにも、かましてくれるのかい」 裕二の耳元に囁く。 それには答えず、すぐに彼は黙って合体する。 遠慮のない激しさと強さで女を翻弄する。 その後は「ああ~っ、いいねえ。たまんねえ・・・」 女は、何年振りかの刺激を楽しんでいる。 やがて「死んじゃうよ!」と声が飛んだ。 女は、必死に男の首に巻いた腕でしがみつく。 女の体が揺れ、喘ぎ声が大きく響く。 「おばさん、声を落として障子が開いているよ」 「あいよ、でも今夜は松岡だけだからでも近所に聞こえないように抑えるよ」 女は、激しく前から後ろから攻撃を受けて全身汗だく。 夜叉のように目が吊り上がり、額に大きな皴を寄せて苦悶の表情を作る。 「いいっ、壊してくれっ!」 女の体が裕二の下で大きく揺らぐ。 顎を上げて、体を後ろに反らした。 1時間ほどしてから、男は女の体から離れた。 女の尻が、鞭に打たれたように赤く腫れあがっていた。 乱れたゆかたを拾いあげて、うつ伏せている女の体に被せた。 やがて意識を取り戻した女は、うつ伏せた体のまま顔を横に向けて 「男だね、松岡は・・・死ぬほどイカされたよ」 そう言って起き上がろうとした。 しかし、立ち上がることができなかった。 「うんまあっ、腰が抜けたようだ。悪い男だね。女の体を芯まで食い尽くして、立てないからこっちへ来て抱きあげておくれ!」 女の体に手を回し、反転させてから抱き上げて立たせた。 すると女は、重い体を寄せてきた。 そして、男の首に手を回して口付けをしてきた。 受け止めて、その口を吸った。 そして、やさしく抱きしめた。 「こんな体じゃ、しばらくは抱いてもらえないねえ・・・」 甘えるような声で囁いた。 (5)そよ風の二人 松岡祐二との初めてのデートを明日に控え、小谷野亮子は母屋の2階の自分の部屋で、着ていく服を選んでは、三面鏡の前で体に合わせている。 鏡をのぞき込んでは、小さな溜息をついた。 どの服を合わせても、しっくりこない。 自分の顔と体形のせいだと、自信をなくてしまう。 女の疑念 和解後の情交で、祐二は「綺麗だ、美しい」と、言ってくれた。 でも、あれは情念から出た愛の言葉。 彼の主観にすぎない。 自分では、とても美人には思えない。 良い所をあげれば、せいぜい額の広さと、色白な点だけ。 特に、体形にはコンプレックスがあった。 自分でも『鳩胸でっちり』と、思い悩んできた。 背も高くはなく、とてもスレンダーな体形とは言い難い。 丸々と太ってはいないが、体幹のしっかりとした肉感的なプロポーションといえた。 それに引き換え16歳も年の離れた長姉は、妹からみても美人に思えた。 面長の顔に奥二重のきりりとした目、高い鼻が整っている。 背も高い。 とても、農家の長女にはみえない洗練された美しさがある。 今は、その姉夫婦と3人で暮らす。 すでに、7人の姉たちは嫁いでこの家にはいない。 父は幼い頃に亡くなり、その面影も思い出もない。 母は、昨年に亡くなってしまった。 小谷野家は、多産系で9人もの子供がいるが、すべて女性の女系家族。 現在は、長姉の恵美の婿養子が小谷野家の家長となって、代々続く農業を引き継いでいる。ただ姉夫婦は、子宝に恵まれていない。 すでに恵美は35歳をすぎて、後継ぎの実子誕生を諦めかけている。 夕食のときに、姉から「亮子の婿さんが養子になってくれるといいね」と、聞かされることがあった。 市立高校の受験に失敗したときには、私立高校の進学に奔走してくれた姉。 さらに小谷野家では、初めての大学進学も認めてくれた。 その親代わりとなって、経済的な支援を続けてくれている。 母親代わりの姉には頭が上がらないので婿養子の話も、否定的なことは一切言えなかった。 ただ内心では、亮子は全くそのことを意に介していない。 末っ子の9女で農作業の経験もなく、自分も7人の姉のように嫁いで、いずれこの家を出ていくつもりでいる。 憧れの文化住宅やマンションに住んで、サラリーマンの妻になることを思い秘めていた。 さて明日のデートでは、この間のように抱かれるのであろうか。 「東京でボートでも乗って食事しよう」と言われている。 その後に彼の部屋に寄るのかしら、と思いあぐねながらも着ていく服と下着を整えた。 二度目の性愛は、初めてのときよりも衝撃的で激しいものだった。 今でもあの甘美と痺れの記憶が残り、思い起こす度に体の奥底が疼く。 子宮に楔が打ち込まれたようだった。 思い出す度に、思わず股間に手を入れてしまう。 童顔で可愛い少年が野獣に豹変し、男の力強さと熟知したテクニックで女の体を翻弄する。 そして、愛されることに満たされた。 男女の真の営みとは、あのように激しいものなのか。 とても温厚な姉夫婦には、あのように激しく燃える夜をすごしているとは想像がつかない。 それにしても祐二の性技は、未成年とは思えないほど熟知しすぎている。 浅い性経験の亮子でも、直感的にそう感じる。 中学時代の初めての性交でも彼のなすままに体を預けたが、処女の体をいたわりつつも落ち着いて巧みにリードしていた。 あの痩せ細って小柄な美少年が、黒豹となってしなやかに私の体を貫いた。 とても、童貞の少年がなす性行為には思えなかった。 きっと性経験がたくさんあるのではないか、と漠然と思っていた。 会えなかったこの3年半の間にも、祐二は性経験を積んでいたのではないかと、どうしても想像してしまう。 ブラやショーツも、いとも簡単に女体から剥ぎ取る。 女の扱いに慣れていて、とても18歳の男子になせるものとは思えない。 性の手下りばかりではない。 髪を長く伸ばし、体には媚薬のようなオーデコロンをふりかけている。 アパートの玄関に置かれていた踵の高いロンドンブーツは、裕二のものではなかったのか。あの靴を、いつどこで履いているのか。 どう見ても、会社勤めをしている苦学生にはふさわしくない容姿。 見た目は、遊び人風の優男そのものだ。 そこに隠された秘密があるではと、不安になってくる。 その不安は自分が弄ばれているのではないか、という疑惑にも繋がっていく。 都会で夜な夜な遊び、不純異性行為に耽り、その延長線上で私を抱いているのではないか。先週は愛を取り戻して、幸福感に包まれて帰宅したが・・・。 秘密のベールに包まれた美少年の影が、女の心理を複雑にさせる。 私は複数いる女の一人ではないのか、と疑念に悩まされて眠れない夜が続いていた。 ただ例えそうであったとしても、軽蔑する気持ちは湧いてこない。 特に、若い男に自分との空白の時間を与えてしまった責任は私にある。 しかし、これからは私一人のものになってもらう。 二度と他の女を抱くようなことをさせないと、強く決意をする。 祐二が抱く女は、私一人だけ。 一途な女の意地にかけても、そこに強い執念を燃やす。 千鳥ヶ淵 9月に入っても、東京は真夏と同じように暑かった。 二人は、その九段下を登った武道館の門前で、待ち合わせをしていた。 北の丸公園を散歩して、千鳥ヶ淵の池でボート乗りを楽しむ初めてのデート。 門前の日陰で、裕二は亮子を待っていた。 定刻に、靖国通りから3人の若い女性が緩やかな坂を登ってくる。 何やら和やかな雰囲気で、お喋りをしながらこちらに向かってくる。 亮子が祐二の姿を認めると、一人抜け出して小走りに駆け寄ってきた。 「お待たせ!お友達とお茶飲んでいたのだけれど、どうしても貴方を見たいと、せがまれて連れてきてしまったの。ゴメンナサイ・・・」 少し心配顔をみせて、顔色を窺うように瞳を輝かせた。 「全然かまわないよ」と笑顔で応えた。 彼女は振り返って、水玉模様のブラウスのフレンチ・スリーブの袖から伸びた白い手を振って、おいでおいでをする。 プリーツスカートが小躍りして揺れる。 すると、にこやかな表情を作って友人の二人もやってきた。 「紹介するわ、こちらが上井草千鶴子さん、こちらが鵜本亜希子さん」 亮子が笑顔で紹介する。 「上井草です、小谷野さんの彼氏を見に来ました。よろしくね」 白い歯を見せて軽く会釈をしてみせた。 白無地のブラウスに、黒いタイトスカートに身を包んでいる。 大人びた印象の、面長の賢そうな美人。 続いて「鵜本です、初めまして」と、ペコリとお辞儀をする。 ロングヘアーを束ねた後ろ髪が、やさしく揺れる。 キャミソール・ワンピースだったが、この暑さの中、丈の長いトップ・カーディガンを織っている。 痩せて青白い。 どこか病人のように、覇気がなく翳(かげ)がある。 「松岡です。初めまして」と、精一杯明るく挨拶を交わした。 続けて皆に聞こえるように、 「公園の芝生にでも座って話をする?それとも暑いから科学技術館でお茶でもする?」と、亮子に尋ねる。 彼女は、すぐに友人二人に顔を向けて「またお茶でも構わないかしら?」 と言った。 すると上井草は「ううん、私たちはもういいのよ。ひと目、小谷野さんの彼氏を見るのが目的だから。ステキな人だと確認できたから失礼するわ。お似合いの恋人同士ね。お邪魔虫は消えます。ねえ鵜本さん」 そう言うと、鵜本に同調を求めた。 「ええ、そうよ。私たちは松岡さんを拝見できたので十分よ、恰好いい人ね。スタンドカラーのシャツ着て、髪は狼カットのロングヘアーで、芸能人みたいな人ね。モテそうだから、横取りされないように気を付けないさいよ。じゃ~ねっ」 そう言うと、笑顔で相槌を打った。 そして、そこで和やかに二人と別れの挨拶を交わした。 彼女たちが坂を下り、右に曲がるのを見届けた。 その時、上井草の後を遅れて歩く鵜本亜希子が、足を引きずるような歩き方をするのを見た。 (・・・怪我でもしているのかな?) 「急なことでびっくりしたでしょう。実は前から3人で会う約束だったから、少し早めに切り上げてもらったの。許してね・・・」 そう言うと、祐二の体に身を寄せてきた。 すぐに彼は手を握った。 「僕が強引にデートに誘ったのだから、君は悪くないよ・・・でもいい人たちじゃないか。二人ともお金持ちのお嬢さんみたいだね」 「そうよ二人とも裕福みたい。私と違って都会育ちで上品な感じでしょう?」 「・・・」 二人は武道館の前を通り過ぎ、北の丸公園の木立の中へと足を踏み入れた。 休日なので、家族連れや若いカップルが散策を楽しんでいる。 千鳥ヶ淵の池が、見渡されるベンチに座った。 肩を抱いて引き寄せた。 彼女は、待っていたように体を傾けた。 女の髪が男の頬に触れると、甘い女の香りが漂った。 昼間の静寂さに、二人だけの時間が止まった。 二人は、黙ってそのままの姿勢を保った。 何もいらない、君だけがいれば、貴方だけがいればいい。 そんな幸福な時間が、ゆっくりと流れた。 ブラウスの袖から伸びる、柔らかな白い腕を撫でる。 男の手は腕から腰にも伸びる。 ウェストのくびれと、プリーツスカートの下の肉感的な腰にさらりと触れる。 人目があって、キスができない。 それでも1時間ほど、二人だけの世界に浸った。 「ボートを乗りに行こうか」と囁く。 彼女は、無言で頷いた。 立ち上がりざま、広い額にキスをした。 女がはにかみ、身を縮めてみせる。 すぐに手をつなぎ、歩き出した。 20分ほど歩くと、千鳥ヶ淵のボート乗り場に着いた。 ボート乗りを待つ人々が行列を作っていた。 40分ほど待って、ようやく二人はボートに乗り込むことができた。 涼風 水上には緩やかだが風が流れ、地上よりも涼しい。 二人は、ほとんど言葉を交わさない。 心は穏やかに澄んでいる。 まるで二人がそよ風を生んでいるように、二人の姿は風が似合っていた。 ボートは乗り場から遠く離れて、高速道路が走る橋の下を潜り抜けた。 櫓をこぐ手を休めた。 二人は向き合って、見つめ合っている。 今の幸福感を互いに確認している。 「幸せだよ、君が僕のものになってくれて、今こうして二人だけの時間をすごしている」 「私も幸せ、貴方が私のそばに戻ってきた・・・」 その言葉を聞くと、祐二は涙がこぼれそうになった。 ボートに仰向けに寝そべって、目頭を押さえた。 その手から涙が漏れ落ちる。 涙の理由は、恋の結実だけではない。 生まれて初めて知った幸福感に、心の底から震えていた。 幼少の頃からの、暗い家庭生活。 貧乏に加えて、父親の暴力、継母の継子虐め、自由を奪われた家事労働とそれらの影響をもろに受けた惨めな学校生活。 16歳で自活し、働きながら夜学で学び深夜は水商売にも身を投じてきた。 心が休まる時はなかった。 中学生の時、心の支えになってくれる少女に出会った。 相思相愛の純愛を育み、心も体も結ばれた。 その後契れてほぐれそうになった糸は、こうして縫い合わせることができた。 亮子が、救ってくれた人生でもある。 ボートから見上げる青空に向かって、 「俺の全てである亮子をこよなく愛し続ける」 そう心に誓った。 ボート乗りを楽しんだ二人は、その後神保町に出て夕食をする。 その夕食が終わる際に、 「ホテルに行きたいけど、いい?」と尋ねた。 彼女は無言で、頭を小さく縦に振った。 ラブホテル 二人を乗せたタクシーは、薄暮に染まる都会の街並みを走る。 車は湯島に入ると、大通りから路地に消えた。 路地裏の小さな坂道の途中に佇む、ラブホテルの前で停まった。 男は女の腰に手を添え、抱きかかえるようにホテルに入る。 女は、初めて経験するラブホテル。 男は部屋に入ると、いきなり女の体を引き寄せて強く抱きしめた。 ショルダーバッグが、肩から外れて床に落ちた。 すぐに、情熱的なキスをした。 舌を大きく入れ、強引に女の舌に巻き付けた。 呼吸をする暇も与えず、その舌を吸い続けた。 女が苦しくて、顔を揺すった。 きつく抱きしめたまま、口を放した。 女は、ハァハァと荒く呼吸をしている。 休まずに、首筋と耳に熱い息を注ぎ愛撫を続ける。 「好きだ」 耳元に囁いた。 「私も貴方が好きよ!」 と叫んで両手を男の首に廻す。 男の手は、女の背中と腰を強めに撫でまわす。 プリーツスカートの裾を掴むと、捲り上げた。 スカートの中で二つの桃尻を撫で、股間にも手を入れ擦る。 女の腰が捩れる。 体を離すと、屈んでショーツだけを両手ですばやく下げた。 そのまま女を床に押し倒した。 プリーツスカートを捲り、女の上半身に被せた。 足に引っ掛かっていたショーツを、剥ぎ取った。 肉感的な下半身が、曝け出された。 スカートを捲られ、剥き出た下半身は全裸よりも艶めかしい。 そそられた男は、いつもより性急だった。 男は立ち上がり、着ているものすべて脱いで女を見下ろす。 いつになく、男は乱暴な動きだった。 女を力で翻弄したい欲望に駆られていた。 「スカートとブラウスを脱いでいい?」女は聞く。 「ダメだ、そのままでいいから」冷たく否定した。 「皺くちゃになっちゃうわ、ブラも外したいの」怠そうに言う。 「ダメッ」 強い口調で言い切ると、女の尻を手で叩いた。 女は諦め、それを合図に姿勢を整えた。 スカートを履いたままの姿で、女を征服してみる。 女の虚ろな目が開いた。 驚きのあまり、口を開けたがすぐには声が出ない。 その代り、喉から低く唸った。 フィレンツェのヴィーナス 部屋は冷房が効いている。 愛の交歓が終わり、全裸のままでいると体が冷えてくる。 二人はダブルベットに入り、胸まで毛布をかけて横たわっている。 祐二は、右腕で亮子の肩を抱き、女は男の胸に顔を寄せていた。 「私、綺麗?」 突然、女はポツリと尋ねる。 「綺麗に決まっている」と即答する。 「抱かれる度に、綺麗だと言ってくれるわ。でも本当なの・・・私その度に不安があるの・・・私が欲しくて、口説き文句でそう言っているだけじゃないかと?」 「何言っているの、本心だ。心の底から綺麗と思っている。好きだから綺麗な訳じゃない、顔も心も綺麗だから好きになった」 「じゃ聞くわ、どんなタイプの女性が好きなの?」 (急にどうしたのだろう、何かあったのか・・・) 「質問が続くね・・・そうだね、芸能界で言えば・・・そう『内藤洋子』かな、おでこが広くて目が美しい、唇が魅力的だね。はにかんだ笑顔が似ている・・・」 「ふふん、知っているわ。テレビで『氷点』を見ていたの。そうなの『白馬のルンナ』に似ているの。似ているなんて思ってもみなかったけど、そんな風に見えるのなら・・・女として悪い気はしないけど、本当にお世辞が上手なのね」 「顔が綺麗で、可愛かったから好きになったのは確かだよ、でもそれは好きになる動機というか、きっかけ。一番好きなのは、君の純粋さ・・・心だよ、心の美しいところだよ。一途でひたむきな性格に惚れている・・・今は女としての魅力にも、僕がとりこになっている。信じて欲しい」 「ありがとう、信じるわ・・・でも女がホロリとするような言葉が、次から次に出てくるのね・・・恋の魔術師か、プレイボーイみたいにね」 (まだどこかで、疑念を持っている) 「松岡クン・・・続けてお話ししていい?」 (ここしばらくは『貴方』と呼んでいたのに、久しぶりに松岡クンと呼ぶ・・・) 神妙な面持ちで話しを始める。 (被告人になったような気分になってくる) 「どうしたの、真面目な顔して・・・いいよ、何でも話して」 そう答えたが、不安がよぎる。 「私ね、実は隠していることがあるの。これから説明するけれど。だから、貴方も隠していることがあったら、後で正直に話して頂戴。二人の間に、隠し事をしないようにしたいの。もう私は、完全に貴方のものになっている。身も心も、貴方なしには生きていけそうもないの。だからお互いに、全てを理解し合いたいの、いいでしょう?」 「そうするよ。君に対して嘘はついていない。僕の君に対する気持ちは一点の曇りもない。ただ、過去の僕の人生にはいろいろあったから、君に話していないことは沢山ある。隠すつもりはないけど・・・」 「勿論よ、貴方の全てを知りたいけれど、今お話ししていることは、今の私と貴方との関係の中で、隠し事はしないという意味です」 「分かったよ、じゃ君の隠し事を聞かせて」 「はい・・・実はね。あの3月の小岩での出来事の後、石田ゆり子さんから、私宛に手紙が届いたの」 「えっ、そんなことがあったの」 (何を書いて寄越したのだろう) 「貴方との関係について、書かれていたの・・・」 (え~っ、まさか・・・) <貴方と石田さんとの間には何もなかった。男女の仲、つまり恋愛関係には全くないから、誤解しないでと書いてあった・・・貴方が苦労しているのが、友達として心配だったので、様子を見に行った。そうしたら、案の定、貧しい生活を送っているので、少し援助をしただけと、だから肉体関係もないし、キスひとつしていないと・・・それに自分には、好きな男性がちゃんといるからとも書いてあったわ。松岡君は、小谷野さんのことしか眼中にないから心配しないで、彼の胸に飛び込んで行きなさい> 「へえ、そうなのか、それで誤解が解けたわけ・・・」 (石田ゆり子は嘘を書いている。最後の一線の肉体関係はなかったが、口付けも愛撫もした。あの日に、亮子が山中進とともに現われなかったら、おそらく深い仲に発展していた。 それに、好きな彼氏がいると言うのも、嘘だろう。 彼女は中学時代から僕のことを好きだった、と告白をしているのだから。 でも、結果的にはよかったと思った。 しかし、石田ゆり子には申し訳ない気がした。 彼女もあの日、泣いて帰る亮子を追いかけて行った僕の行動を見て、僕の心が亮子にあることを知ったのだろうから。 利口な彼女のプライドが、そうした手紙を書かせたのかもしれなかった) 「もう一つあるの」 「ええっ!まだ隠し事があるの?」 「ええ、でも私の隠し事じゃなくて、疑問があるの。貴方についての疑問が。答えてくれたら、大した問題じゃないかもしれないけれど、モヤモヤして毎日眠れなかったの。教えて欲しいことがあるのよ」 「それって、僕の隠し事になるのじゃない?」 「そうかもしれない、じゃ思い切ってお尋ねします」 「いいよ、どうぞ」 開き直った気分になった。 「私、貴方の過去には、そんなに執着はしていないつもりよ。生い立ちや家庭のこと、学校のことや異性関係だって・・・特に過去の異性にヤキモチ焼いても、どうにもなるものじゃないわ。大事なのは、これからのこと。前に約束したわね。私は貴方のものになったから、貴方も私だけのものになってと、貴方は約束してくれたわね・・・」 「約束は守っている、君しかいない・・・」 (約束したその日に、止むを得ず破ってしまったが・・・) 「信じているわ・・・でも少し不安があるの。言うわ・・・私、貴方に抱かれる度に、女になっていく自分が恐ろしいぐらい。まるで、底なし沼に引き込まれるように、落ちていくのを感じるの、貴方の魔性に溺れるようにね。貴方のその魔性が過去に作られたものなら、いいのよ。大好きな男からこれほどまでに、女にしてくれるのは本望よ・・・でも貴方は、常にオーデコロンを身に振付け、髪も長髪にして、今日もスタンドカラーのシャツを着ているわ。何故なの・・・ただオシャレなだけなの、貧しかったから、働きながら夜学に行っているじゃないの?」 「・・・・・・」 返答に困った。何かも吐露すべきか迷った。 「私は正直、自分のことをヤキモチ焼だと思うの。一途な女で独占欲が人一倍強いと思っている。だから、貴方がこれから私以外の女の人を抱いたら、死ぬかもしれないほど、貴方が好きなの・・・だから許して・・・見てしまったの、貴方の部屋でカバンからこぼれた中身を・・・」 「そうなの・・・」 女は嗚咽を漏らし、涙を流している。 男の胸にも、その涙が落ちてくる。 「カバンにあったブランド物の香水やハンカチ、外国製の腕時計や万年筆・・・それに貯金通帳も見てしまったの、すごい額の数字だった。ゴメンナサイ許して・・・」 「愛する人をそんなに悩ませて、苦しめていたのか・・・先週、きちんと話しておくべきだった。僕が悪い」 「本当は聞くことも怖かったの。そのことで、貴方が離れて行ってしまったらと、悩んできたの・・・それでも何故って・・・農家育ちで働いてもいない私には、世の中こと何も分からないの・・・教えて何があるの、貴方の秘密を教えて!」 「分かった、正直に話すよ・・・涙を拭いて」 そばにあったバスタオルを手にとり、拭いてあげた。 「深夜にアルバイトをしている。六本木のサパークラブでホストをしている。最初はボーイだったけれど、貯金を殖やすためにホストに転向した。正直に言えば、女の人の接客をして、店が終わってから誘われることも多い。ただ毎日は行っていない。今は週に一度くらい。3月に君に会ってから徐々に減らした。以前は、いつ君に会えるか分からなかったけど、会えるようになったら辞めるつもりだった・・・」 「面白かったの、女の人に誘われたかったの?」 「違う、お金のため。弟や妹に仕送りもしたかったし、夜間大学にも進学したかった。そして、いつしか君と結ばれ、結婚できるようにその資金が欲しかった」 「ありがとう、正直に話してくれて嬉しいわ、私との結婚まで考えていてくれていたの・・・でもお金がなくともいいわ、貧しい貴方でも好きだし、貧しくても結婚はできるわ」 「いや、それは違うと思う。現実にはお金は必要不可欠だよ」 「それは分かっているつもりよ、でもその深夜のお仕事は辞めてもらえる?体にも悪いわ・・・睡眠不足じゃないの、それに女の人からの誘惑の危険がいっぱい。貴方は、人がいい人間だから、誘われると断れないタイプでしょう。辞めて下さい。お願いよ!」 そう言うと再び泣き始めた。 祐二も何故か悲しくなって、いじけるように背を向けてしまった。 そして彼女に背を向けながら、低い声で言った。 「分かった。約束する。ホストは辞める・・・」 「そうして・・・怒ったの。貴方・・・許して、大事な愛だから、大事な人だから、お願い。こっちを向いて頂戴、背中を向けないで・・・抱いてよ」 男は背中を返して、仰向けになって天井を見ていた。 女は、悲しみに涙顔になっている男の口を塞いだ。 「好きよ、好きなの。死ぬほど好きなの!」 女が男の体の上に乗ってきた。 男の唇や首筋にキスをする。 男はすねて、黙って女の愛撫を受けた。 女はすぐに合体する。 「あっあっ・・・くるわ」 そう言うと、男の胸に倒れ込んできた。 「ああっ、いいわ。貴方」 喜びの声を上げると、再び自ら動き始めた。 そして、遠慮のない大きな声を発した。 続いて動物のような低い唸り声を上げ、全身を痙攣させ男の胸に倒れ込んだ。 ぐったりとした亮子の体を反転させて、仰向けに寝かせた。 その横に座って、じっくりと女の全身を眺めた。 色白の体が輝いている。 もう無垢な体つきではない。ふくよかで艶ぽっい。 絡み合いの度に、魅力的な女の体に変わってきている。 首が細くなり、肩が撫で肩になり、ウェストも細まってきた。 逆に腰回りは、前にも増して豊かになった。 両の乳房も膨らみを増し、たわわに実っている。 それらの肉感的な凹凸が、彫刻のように目に映る。 中世の西洋美術に描かれている裸婦像のようだ。 印刷屋の仕事で、美術展のポスターを請け負ったことがあった。 その時に見た『サンドロ・ボッニィチエッリのヴィーナスの誕生』に描かれたヴィーナス像を思い出していた。 ふくよかな肉体と慈愛に満ちたやさしい表情で微笑み、神秘的な美しさを秘めたヴィーナスの顔。 そのヴィーナス像と亮子の肉体と顔が良く似ていると思った。 亮子には端正な顔立ちとスレンダーなスタイルの美しさはない。 しかし祐二は、亮子にはそのヴィーナスに似た神秘の美しさと母性の豊かさを感じる。 今まさに、フィレンツェの美術館に眠る『ヴィーナスの誕生』を鑑賞しているような錯覚に陥っている。 (5)求婚 季節は、夏から秋に移った。 その間も、二人の汚れなき情事の逢引きは続いた。 休日は東京に出てデートし、夜に抱いて抱かれた。 たまに、夜学の授業のない平日に会えば、そのままホテルで愛を貪り合った。 優男の虜 祐二は心が清純で一途な女、亮子に惚れ続けている。 その女の裏に秘めた魔性の魅力が、さらに男心を虜にさせる。 抱くたびに女の魔性は磨かれ、その度に男は女のさらなる魅力に引き込まれてゆく。 二人の恋愛は、一層激しく深まる。 男は、女を征服したつもりだったが、実は征服されたのは自分だったと思う。 女に懇願され、その約束でホスト稼業を辞め、今は学業と昼の仕事に専念している。 女に会える喜びに、毎日の生活に張りができた。 一方、女は女性特有の複雑な心理で、男との愛に生きていた。 一途な愛の力でホスト稼業を辞めさせ、自分以外の女と触れ合うことを極力避けさせた。 だから好きな男を独占できたことに満足し、男に対する疑念と不安も消えたはずだった。 それでも残り火が体の奥底に秘め、そこから新たな恋の不安が襲ってくる。 女心の変化か、進化なのか。 頭の中では、十分に男との恋愛を、生きる喜びとして受け止めている。 しかし、女の体は男から楔を打ち込まれる度に、その男から注がれる愛以上に、深く鋭利な愛に変貌してゆく。 憎いほどに男を愛してしまっている。 身も心も、あの男なしには生きていけない、という怖さに震える。 どこかでこの恋愛が風船のように、飛んで行ってしまうことへの不安が支配してくる。 そうなったら、生きていけそうもない。 死ぬことよりもつらい。 秋も深まり、2階の窓から覗く庭の銀杏の葉も黄色く染まり、風の強い日には吹かれ散る。女は眺めていると切なくなり、胸が締め付けられてくる。 信じている一方で、あの優男から別れの言葉を言われたら間違いなく生きていけない。 もう気立ての良い、ただの一途な女ではなくなった。 体のすべてが、大人の女になりつつあった。 顔と首が細くなり、臀部と太腿と足までが余分な肉がそり落とされてきた。 肩は撫で肩になり、ウェストは細く括れてきた。 広いハト胸は縮まったが、逆に隆起が高くなった。 豊麗な肉房に膨れ、弾力性に富んでたわわにしなっている。 体はどこもかしこも過敏な性感帯になり、胎内も大人の成熟した桃源郷へと化してきた。 あの優男の虜になってしまった。 もう男なしでは、完全に生きていけない。 あの男に捨てられたら、死ねるのであればよい。 しかし、それができないときには、身を破滅させて娼婦にでもなってしまうのではないか。 恐怖心に襲われる度に、そうならないためも早く男と結婚をしたいと願った。 プロポーズ その年のクリスマス・イヴの日、二人は銀ブラと洒落込んだ。 銀座の街並みを腕組みしながら、成人のカップルのように歩いた。 日比谷では映画を見た。 数寄屋橋では立ち止まって、祐二が「君の名は」という小説の舞台であったことを説明。 「僕たちがはぐれることがあったら、映画の春樹と真知子のように、ここで待つことにしよう」と軽い気持ちで言う。 すると亮子は「そんなこと言わないで、私たちはぐれることなんて、もう絶対ないわ・・・私が貴方を放すことないから・・・」と強い口調で言った。 彼女の真顔に驚いた祐二は、 「ゴメン、縁起でもないことを言って、すまない」と肩を落とす。 夕食は、有楽町の東京交通会館の「東京會舘スカイラウンジ店」を予約した。 祐二は、結婚を迫るつもりだった。 待ち合わせ時刻の前、西銀座の宝飾店でプラチナの指輪を受け取っておいた。 水商売の経験のお陰で、女の指のサイズを見極めることができた。 そこで二人のイニシャルを刻み、発注していた。 高さ55メートルの回転レストランからは、夕闇の中でネオンの花が綺麗に咲くのが鑑賞できる。 現在は超高層ビルが立ち並び、それほど目立たない展望レストランだが、当時はこのレストランからの眺望は、都心で有数のロマンチックな雰囲気を醸し出す名所だった。 この翌年の1968年(昭和43年)には、高層ビル建築の端緒となった147メートルの「霞が関ビル」も完成している。 二人はまだ19歳。 それでもワインで乾杯してから食事に入る。 「今日の映画は面白かったね」 「見たかった映画だったので、よかったわ。いつも素敵なデートをお誘いいただき、ありがとうございます。貴方にお金ばかり使わせてゴメンナサイ。ここも高級レストランだから高いのでしょう・・・」 「そうね、確かに高いかも。だけど気にすることはないよ、僕は働いているのだから」 笑顔で明るく話す。 「感謝しています」 と、女も笑顔をつくる。 そして料理が運ばれる前に、男は本題を切り出した。 「実は、今日は、報告することが二つあるの」 「ええっ、何かしら、怖そうだけど、聞かせて!」 「一つは、大学に進学することが決まった。先生の推薦で、白山にある大学の二部の社会学部に入学が内定した。後は、入学金と当初の授業料を期日までに払い込めば確定する」 「そう良かったわね、おめでとう。それでお金は大丈夫なの?」 「大丈夫だよ、貯金があるから」 「来年からは二人とも大学生なのね、私の大学ともそう遠くはないわ・・・ご両親にご報告したら、喜んでもらえるのでは・・・」 「それは今すぐにはしない・・・親の悪口は言いたくはないけど、大学進学を報告したら、必ず金はどうしたのかと聞かれ、そんなに金を持っているのならと無心され、それが続く心配がある・・・君のやさしいアドバイスだけど、それだけは勘弁して・・・」 「分かったわ、理解する。それと、もう一つの報告って何かしら。早く聞かせてドキドキしているから」 「いいよ、でもその前に見せたいものがある」 そう言うと、ジャケットのポケットから指輪の入った小箱を取り出し、テーブルの上に静かに置いた。 「何かしら、これ指輪のケースじゃないの?・・・」 「はい、その通り。ご名答です」 そう言って紺色の小箱を開けて、指輪を取り出した。 「薬指を出して」と言う。 すぐさま女の左手を引いて、白い指に指輪をゆっくりと嵌めた。 「素敵だわサイズもピッタリ。高そうだけど、クリスマスプレゼントなの?」 「そうだよクリスマスプレゼント。君の返事次第では、婚約指輪にもなる」 「ええ、そうなの婚約指輪に・・・プロポーズね、早く言って。プロポーズの言葉を言って」 そう言って、甘えるように瞳を輝かせた。 じっと男の顔を見つめて、待っている。 男は深呼吸して呼吸を整えた。 焦らしてもいた。 「何しての、早く聞かせて・・・」 「結婚して欲しい」 落ち着いた声で求婚した。 「私でいいのね、勿論、お受け致します。いつ結婚してくれるの?」 「すぐにと言いたいけど、二人とも、未成年の学生でもあるから・・・そうね、君が短大を卒業したら、再来年の春以降のいいタイミングを見て・・・とりあえずそのような感じかな。僕は、まだ勤労学生が続くけど、働いて給料も貰っているから、節約すれば生活はやっていけると思う」 「後は住まいね、文化住宅がいいわ。先ず公営の住宅を申し込みましょう。それまではアパート暮らしかしら、節約してお金を貯めるなら、私の実家に住みましょう。農家の広い家に今は3人暮らしだから、部屋は空いているのよ」 「ロマンチックなムードの中で、愛の告白をしたつもりだけど、けっこう現実的な結婚生活にまで話が弾んだね」 二人で笑った。 「そうなってしまったわ。私ね、待っていたの結婚の言葉を・・・嬉しいわ、今夜プロポーズされて安心したわ、本当に嬉しい!」 「よかった僕もほっとした。君と結ばれるのが、僕の人生の中で最大のイベントだ。君なしの人生は考えられない」 「知っていると思うけど、私は両親が他界していないので、親代わりの姉夫婦に報告して了承してもらうわ。いいでしょう」 「勿論、そうすべきだよね」 「貴方は?」 「僕の親には事後報告にする」 「貴方がそれでよければ、いいけど・・・」 料理が運ばれてきたので、二人は一旦話を中断させた。 テーブルに料理が乗ると、まだ飲み残しているワイングラスを手にとった。 「もう一度乾杯しょう!」 「私もう飲めそうもないの、ゴメン」 「じゃ形だけでいいから、乾杯しよう」 「はい」 女も、ワイングラスを手に取った。 「それでは、二人の婚約に乾杯!」と言って杯をあげた。 男は安心したのか、空腹を思い出してすぐに料理を食べ始めた。 「実は・・・私も、プレゼントを用意しているのよ」と女は言う。 クリスマスプレゼント用の包装紙に包まれた品を、バッグから取り出した。 「嬉しいな、何だろう?」そう言って食べる手を止めた。 「はい、どうぞ開けてみて」すぐに手渡す。 すぐにリボンを解いて開けてみた。 それは、小さな箱に収まったオーデコロンだった。 それもずっと愛用しているあの『恋の魔術師』だとすぐに分かった。 ためらった。 それに気が付いた女が、先に口を開いた。 「あなたが付けているオーデコロンよ。最近は私に遠慮して、抑え気味に付けているようね。最初は、ホストのためのオーデコロンと知って嫌だったけど」 「ゴメンね」 「謝ることはないわ、今はその匂いが好きよ、貴方の体の臭いと混ざり合った、この匂いが好きになったの。と言うより、この匂いでないと貴方ではないことが分かったのよ。私の一番好きな匂いよ・・・この匂いの貴方が、泣きたくなるほど好きなの、だから付けて頂戴。これまで使ってきたものは、もう残り少ないでしょう」 「よく、チエックしているね、ありがとう」 「聞いて、私の愛の告白も・・・」 少し泣き顔になっている。 「実は・・・女だけれど、今日は私から愛の告白をするつもりだったの、居ても立ってもいられないほど、貴方が好きでしょうがないの。だから、早く結婚の約束が欲しかった。このオーデコロンが私の愛の告白の印です。このコロンの匂いで女にされたのよ。だから、これからもこの匂いをつけて、私を抱いて愛し続けて下さい。貴方しか愛せない女になってしまったの・・・」 下を向いて、泣き出した。 すぐにハンカチを取り出して、両目に溢れる涙をそっと拭いてあげた。 「ありがとう、本当に僕は幸せだ。二人とも自分の方が、愛する力が強いと思っている・・・絶対にどんなことがあっても君を放さない、信じてくれ」 こうして松岡祐二は聖夜に最愛の小谷野亮子に求婚し、二人の結婚の意思を確認し合った。 まだ親などの了承を得ていなかったが、本人同士の婚約は成立した。 (6)二輪のお年玉 二人は晴々とした気持ちで、それぞれ1968年(昭和43年)の新年を迎えていた。 この年の我が国のGNPは米国に次いで世界第2位になっていた。 まさに日本は、高度成長期を迎えていた。 祐二は松が明ける1月8日に、小谷野家を訪問することになっていた。 会社は松の内の7日まで休業であったが、一日休みをもらっている。 亮子が姉夫婦に祐二からの求婚を報告し、4人で結婚についての相談をする。 姉夫婦は、まだ結婚について賛成も反対も言っていない。 松岡祐二からの正式の求婚の挨拶を親代わりである姉夫婦が聴く、という初顔合わせの面談でもある。 亮子から言われて、祐二は床屋に行って急遽長い髪を切ってきた。 農家はまだまだ封建的で、自由恋愛には否定的だと彼女から聞かされていた。 さらに、身なりや家同士の関わり合いにもこだわりが強いとも言われた。 一方、それでも彼は自分の親には結婚話を一切していない。 家を出てからは、交流を避けてきた。 あの異常な性格の父親に相談すれば、すぐさま破局にされる可能性が高い。 従って、彼の気持ちはその点だけは居直るように、事後承諾だと覚悟を決め込んでいた。 管理人の下心 中山のアパートの住人は、若い人たちばかりで正月休みには皆実家へ帰郷している。 大晦日の除夜の鐘が鳴り響く前から、法華経寺に初詣する人達が往来して、賑やかな声が部屋の中にまで響いてくる。 国電の下総中山駅から続くアパートの前の参道には露天商の店が並び、その露店は山門を越えて本堂に繋がる道端までぎっしりと埋め尽くしている。 その大晦日の晩。 夕食を早めに済まして部屋に戻ると、唯一の暖房器具である小さな電気ストーブもつけずに、彼は4月から通う大学の「社会学」の教本を読み始めていた。 読み始めてから、長い時間がすぎていた。 冷えてきたので、ふとんの中に入って再び読書に耽った。 正月明けの、小谷野家への訪問で緊張していた。 さらに参道の提灯と露店の灯りが僅かにとどき、外からの喧噪とも重なって電気スタンドの灯りを消しても眠れそうもなかった。 とうとう明け方まで本を読み続け、厚い教本を読破してしまった。 それでも、元旦の朝にはうたた寝をしていたようだ。 元旦の朝 「明けましておめでとうございます!」 管理人のおばさんの、いつもの甲高い声で目を覚ました。 勝手に障子を開けると、そのまま部屋に入り込んできた。 寝ぼけまなこで「ああ、はい。おめでとうございます」 あいさつをふとんの中から交わした。 夏にゆかた姿で誘惑されてからは、腰を痛めたせいなのか、その後は体を求められることはなかった。 ただ土曜の半ドンや休日になると、お菓子や果物を差し入れてくれた。 その時には、彼の部屋の中で親子のように一緒に食べてはお喋りをして帰って行った。 「正月のおせち料理を作ったから、一緒に食べましょう。膳を運ぶのが大変だから、管理人室で食べましょうね」 そう言って、うつ伏せにしている彼の頭を撫でた。 「髪を切ったのね。サッパリとして可愛い頭になったわね」 そう言い残して、部屋を出て行った。 管理人室にあるダイニングルームに、初めて足を踏み入れる。 テーブルの上には、おせち料理の重箱の蓋がすでに開けられていた。 雑煮が盛られているお椀からは、かすかに湯気が揺れている。 二人は、椅子に座って向き合った。 「ご飯もあるから、遠慮しないで食べて、いつも外食やパンばかり食べているのだから、たまには手作りの家庭料理を食べなさい」 「ありがとうございます、じゃ遠慮なくいただきます」 箸を持って、さっそく雑煮から手を付けた。 一口その汁を口に含むと、三つ葉のいい香りが鼻をつく。 おいしい。 級友の石田ゆり子が、作ってくれたトマトシチューも確かにおいしかった。 だがこの雑煮は、お袋の手作りの味がする。 味の深みとともに、調理する人の愛情を感じてしまう。 「おいしいです、久しぶりに家庭の味を思い出しました」 「そうかい、お母さんの料理を思い出したのかい?」 おいしい雑煮に感動して、ゴボウ巻などの素朴な野菜の煮つけのおせちも食べ始めた。 「小魚の甘露煮や牛肉のしぐれ煮も食べてよ、おばさんの得意料理なのよ・・・精力もつくからね」 「はい、いただきます」 あまりにもおいしくて、次から次へと手作りの料理にパクついた。 「実家には帰らないみたいね、みんな帰省しているに・・・」 「事情があって、帰れないのです・・・」 「そうかい、人にはいろいろな事情があるからね、寂しい気もするけどね」 そう言って、熱い緑茶を入れてくれた。 目黒のオートバイ 「そうそう松岡君、オートバイで帰ってくるけど、あれは仕事用なのかい?」 「そうです、日中はオートバイで得意先や下請け工場を回っています。仕事で遅くなると、そのままオートバイで学校に行って、ここまで乗って帰ってくるのです。庭先に置いておくのはダメですか?」 「いいや全然構わないさ、ここは広すぎるぐらいだから、問題はないのよ」 「すいません・・・」 「ところで、おばさんね、あんたにお年玉を用意しているのよ」 「ええっ、お年玉なんて貰えませんよ。おばさんは親でもないし、僕は今年20歳になる大人ですから」 「そうかもね、でもお金じゃないから気乗りしなかったらいいのよ、特別にお金もかけていない物だから・・・」 「そうなのですか・・・」 「今、庭に置いてあるから、お茶を飲んだら見に行きましょう」 「ははいっ、分かりました」 食事が終わると二人で玄関から外に出て、管理人室の横にあたる通路に出た。 そこには、黒塗りのオートバイが置いてあった。 玄関を出入りする際に、左側を振り向けばそれが目に付くはずだが、いつも西側にある自分の部屋に真っすぐ目指すので気が付かなかった。 「すごい!これメグロのオートバイです」 裕二は驚きの声をあげて、目を大きくして眺めた。 ハンドルを握り、ガソリンタンクを撫でた。 エンジンなどの部位を舐めるように見入ってしまった。 「これね、知り合いから貰ったものなのだけれど、乗れるように修理したから大丈夫よ、よかったらあげるから乗っておくれ。オートバイ好きなのだよね」 「本当にいいのですか、今このオートバイは高い値段で取引されているのです。そもそも、もう市販されていない『SS3の200CC』、ビンテージ物のオートバイです!」 「そうなのかい、まだ知り合いの名義だけど、すぐに名義替えできるから、オートバイ屋でチュウ・・・何とかして貰ったから、新品と同じ性能だと言っていたよ」 「チュインナップですね。オーバーフォールして、劣化部分を元の性能に復元することです。お金が相当かかったはずです」 「たいしたことないよ、知り合いだからただ同然さ。遠慮しないで使って頂戴、おばさんの感謝の気持ちよ」 (えっ感謝?感謝されるとしたら、夏にセックスしたこと・・・) 「本当にいいのですか、僕うれしいな。感謝です・・・」 本当にうれしかった。 若い男は、オートバイに憧れる。 車よりも手に届く存在だったが、貧しかった彼にはとっては簡単には買えない。 この型のメグロのバイクは、10年ほど前から生産されていた。 だがメーカーの目黒製作所が昭和39年に破たんしたため、この人気のシリーズは販売されていなかった。 マニアの間では、幻のオートバイとして人気があった。 管理人室に戻って、オートバイの鍵を受け取った。 「ありがとうございます。ビックリしました」 さらに、喜びを隠しきれずに、 「盆と正月がいっぺんに来たような感じです。おばさんのお年玉はすごくうれしいです」 「よかった、そんなに喜んでもらえるなんて、可愛い子供のためだもの・・・おばさんも嬉しいよ。よかった、よかった」 と、相好を崩した。 椅子に座ると、すぐにお茶を湯呑に注ぎ足してくれた。 姫始め すると、熱い眼差しを向けながら「お茶飲んで一服したら・・・事始めでもしょうかね」 「ええっ、事始めですか??」 「女にそこまで言わせるのかい・・・恥ずかしいねえ、姫始めだよ」 (やはり、そうなのか・・・でも断れそうもない。メグロのオートバイは乗ってみたいし、欲しい高価な逸品だ。亮子ごめん許してくれ) なんと尻の軽い男なのだ。 ダイニングルームの隣の部屋に連れて行かれた。 広い和室だった。 そこには、すでにふとんが敷かれていた。 夏江は小太りの体に着物を着ている。 さらにその上に割烹着を羽織っているので、よけいに体形がでっぷっりとして見える。 すると、割烹着がさらりと体から外れた。 「おばさん、着物は脱がないでいいよ!」 「何言っているの、脱がなければ始まらないだろう」 「僕が脱がしてあげる」 「うんまあ・・・そうかい、やさしいね」 立ったまま抱き寄せて、口付けをする。 舌を大きく入れて、強引に女の舌に巻き付けた。 呼吸をする暇も与えず、その舌を吸い続けた。 女が苦しくて顔を揺する。 きつく抱きしめたまま口を放すと、女はハァハァと荒く呼吸をする。 休まずに、首筋と耳に熱い息を注ぎながら愛撫を続ける。 「ううっん、まあ激しいこと・・・」 「おばさん可愛いよ」 耳元に囁いた。 「うまいこと言うね、本当に孝行息子だね、おばさんも大好きだ!」 そう叫んで両手を男の首に廻す。 男の手は、着物の上から女の背中と腰を強めに撫でまわす。 着物の襟もとを後ろにそらして、胸元を広げた。 「ああっ、気持ちいい・・・」 快感の声を漏らした。 腰に手を回して、帯を少し緩めた。 これで上半身全体の着物が緩まった。 胸元から手を入れて、肩から着物を脱がし外す。 同じように、手を替えてもう片方の肩からも着物を外した。 上半身が裸になった。 しばらく、顎、耳、首と胸に愛撫を続けた。 刺激が強いのか、顔をのけ反って「効くぅ、すごくいいわ」と声をあげる。 直後には「ダメ、立っていられない」と、うめき声をあげる。 その声を聴いて、両胸の乳房を噛むと女の体がガクガクと震えた。 すぐに、ふとんの上に押し倒した。 再び帯を緩めるが、完全には解いてはいない。 裾を捲り上げて、下半身を曝け出した。 女の体にのしかかった。 顔を両手で挟むと熱いキスをする。 女の両腕が男の首に廻された。 「おばさん、名前はなんと言うの?」 口を放して突然尋ねた。 「そうだね、おばさんばっかりじゃ色気ないね。年がいっても女だからね・・・夏江だよ」 「夏江さんか・・・忘れられない名前になる」 「嬉しいこと言ってくれるね」 続いて「名字は何と言うの、表札には『田中』と書いてあるけど、田中夏江さん?」 「違うよ、あれはここの所有者の名字。私は単なる管理人で小谷野夏江と言うのよ」 (ええっ小谷野、まさか亮子の姉では・・・違う長姉は35歳ぐらいだから・・・ただ、いずれにしても、小谷野はこの地元の農家に多い名字だから、小谷野一族に連なる姻戚関係の可能性が高い・・・これはまずいな、まいった。今更後戻りはできないし、否こうなったら、夏江さんが邪(よこしま)な考えを持たないように、秘密保持のために憎まれないよう接しなければならない・・・) こうして祐二は、再び管理人のおばさんと肉体関係を結んで裏切行為をしてしまった。 正月明けには亮子の小谷野家を訪問して、結婚を正式に申し込むこととなっているのに。 (7)婿養子 1968年(昭和43年) 1月8日。 祐二は、小谷野家を訪問する。 大きな門の横にある木戸口を潜り、広い庭に出た。 井戸の前を横切り、玄関に着くと呼び鈴を押した。 すぐに亮子が出てきた。絣の着物を着ていた。 亮子の案内で敷居を跨ぎ、開け放された囲炉裏のある部屋の前を通り、隣の広い和室に通された。 その中央には、檜の巨木で作られた日光彫の大きな和風のローテーブルと、座卓が四つ置かれている。 廊下側に座った。 亮子が、一旦部屋から消えた。 しばらく待たされた。 再び、彼女がお茶をお盆にのせて再び現われ、四つの茶碗をテーブルの上に置いた。 「まもなく姉夫婦が来るから、少し待っていて。あまり緊張しないでリラックスしてね」 床の間の掛け軸を見ながら「分かっている。気持ちが落ち着くように深呼吸している」 そう言って、深呼吸をした。 今日は一着しかない仕事用の背広を着こみ、白いシャツに亮子からもらった手編みのネクタイを締めてきた。 何度もネクタイの結びを調整し、緊張を紛らせた。 結婚の承諾 やがて、姉夫婦が笑顔を作って部屋に入ってきた。 婿養子の正二郎よりも、妻の恵美の背が高い。 亮子がいつも祐二に聞かせているように、姉は面長の顔に奥二重のきりりとした目、高い鼻が整っている。 往年の女優のような、円熟した女の美しさがある。 とても、農家の長女とは思えない気品に満ちている。 亮子とも似ている。 おそらく亮子も年を重ねると、姉のような体形と長い顔たちに変わっていくのだと思った。 それに引き換え、夫の正二郎は風采の上がらない体で、家長としての威厳や風格が備わっていない人物に見える。 夫婦が座卓に座り終えると、その家長の正二郎が口火を開いた。 「初めまして松岡さん。私は小谷野正二郎です。こちらが妻の恵美です」 恵美が笑顔で、お辞儀をする。 「初めまして、松岡祐二です。よろしくお願いします」 祐二も頭を下げる。 「亮子から貴方の気持ちと、貴方の家庭の事情も聞かされています。私たちは、基本的に二人の結婚には大賛成です。特に、貴方は長男と言っても、家を継ぐような環境にもないと伺っているので、何の問題もないと考えています。そうだよね、恵美さん」 そう言って、妻に相槌を求めた。 「ええ、そうですとも。お似合いのカップルだわ。亮子が中学生の頃から、貴方のことをよく聞かされていたのよ。その頃から貴方に『首たっけ』だったようですね」 そう言って、亮子の方に顔を向けた。 亮子は下に顔を向け、黙って頷いている。 続けて姉は言う。 「今は農家でも、自由恋愛の時代になっています。ただそれでも、代々続く農業を継承していくには、自由恋愛が許されない場合もあります。私たち夫婦もお見合い結婚です。それも正二郎さんには婿養子に入っていただいたの。お聞き及びでしょうが、小谷野家は女系家族で後継ぎの『男手』がなかったものですから、そういうことになりました。それが農家の宿命なのです」 と一気に喋り続けた。 どうやら妻の恵美が、主導権を握っているようだ。 祐二は、恵美を見ながら黙って聞き入っていた。 その後しばらくは、亡くなった両親や姉妹の家族や親戚のこと、母屋、倉、納屋の家屋、それに田畑の広さと貸し駐車場など、小谷野家のルーツや現在の概要を聞かされた。 豪農であることがうかがい知れた。 話が一段落すると、蕎麦で軽い食事をとることになった。 おせち料理の残りとお餅もテーブルに並べられた。 祐二はこれで結婚を承諾された、と考えて安堵した。 落ち着いて、食事をすることができた。 ただ、亮子はまだ神妙な面持ちで配膳の手伝いをしていた。 その食事が始まっても、落ち着かない様子。 結婚の条件 「ところで、そろそろ本題のお話しをしたいと思います。松岡さんよく聞いていただいて、こちらの希望に対する、ご返事を聞かせていただきたいのです」 「はい、わかりました」 裕二は明るい声で返答した。 すると今度は、正二郎が口を開いた。 「大事なことなので、本日すぐにご返事をいただかなくても、後日でもけっこうです」 (えっ・・・これから本題があるの、結婚を承諾してくれてその確認なのでは・・・) 再び、恵美が膝を前に進め「私からお話ししますわ」と、口を開く。 「実は本題と言うのは、単刀直入に言わせていただきますと、松岡さんに小谷野家の婿養子になっていただきたいのです。つまり、私たち夫婦の養子です」 さらに、話は続いた。 「こちらの事情は、たぶんお知りになっていると思いますが、私たち夫婦には後継ぎの子供がおりません。私もこの年齢になっており、子供の誕生は、あまり期待できない現実に直面しています。すでに嫁に出た7人の妹の夫の中からの婿養子も考えられます。ですが、できるだけ若い人達に、後を継いでいただくのが理想的だと思っています。貴方にも亮子にも、農業の経験はないことは百も承知の上で、考え抜いた末の小谷野家としての結論なのです」 つまり、条件付きの結婚承諾であることが告げられた。 予想もしなかった申し出に驚き、頭の中が混乱した。 亮子はこの話を知っていたのだろうか、それにこの提案に賛成なのだろうか。 自分一人で、決められる話ではない。 すぐに返す言葉が、見つからなかった。 「条件付きの結婚の承諾とは言いたくはないのですが、婿養子が小谷野家の結婚の条件になります。それに婿養子ともなると、例え家を継ぐ必要がないとは言え、後々の問題もありますから、松岡さんのご両親の了解も事前に確認させていただきたいのです」 正二郎が家長らしく、最後をまとめた。 しばらく沈黙が流れた。 祐二は、考えがまとまらない。 亮子と結ばれるためには、何でもする気持ちでいた。 だが果たして、自分に農家が務まるのか不安がある。 何よりも、亮子の本心を聞きたかった。 決心は、すぐにはできなかった。 しかしこの場で何らかの言葉を発し、場を繋げることをしなければならない。 沈黙の後、重い口を開き始めた。 それは、自分でも予期していなかった言葉が自然に出てしまった。 「亮子さんと結ばれるためには、何でもする覚悟でいましたから、養子のお話を喜んで受けさせていただきます。それから、私の両親にこの件について了承してもらえるように、後日、実家に戻り話しをしてまいります」 そう言い切った。 さらに続けた。 「ただ、お願いが一つあります。この4月から、夜間大学ではありますが、進学することが決まっています。それを認めていただければと思います。それと、今ここで亮子さんにこの養子の件について、彼女の気持ちを確認させていただきたいのです。二人の間では、この件についてまだ話し合っていません。是非二人だけの時間を、ここでいただきたく思います」 そう言い切った。 姉夫婦が顔を見合わせた。 恵美の表情は柔らかい。 「ええ、よかったわ。ご両親のご了承を待ちましょう。そうね、隣に続き間がありますから、今二人でよくお話して、お互いの気持ちを通じ合わせておいた方がいいわね。じっくりお話合いをして頂戴。私たちは、しばらくこの席を外しますから、話し声が聞こえることもないでしょう」 そう言うと、夫を促して部屋から出て行った。 若い二人は、隣の続き間に移り向かい合って座った。 「ごめんなさい、養子の件を伝えることができなくて。年末からお正月の間はいろいろな行事が重なって、貴方に連絡することができなかったの。びっくりしたでしょう」 「ああ、勿論驚いた。それで君はいいのかい?二人で公営住宅やマンションに住みたい夢があったろう・・・」 「ええ、それは今でも思っているわ。私だって姉たちのように、この家を出て都会的な生活を送りたいと望んでいたけれど。親代わりの姉夫婦に真っ向から逆らうことは、なかなかできないの。それに母が亡くなる前から、姉さんに子供ができなかったら、私が婿さんをもらって小谷野家を継ぐように、と遺言もあったの。でも当時は、私には現実的にピンと来なかった。姉も健康そうだし、いずれ子供ができるものと思っていたの」 「ううん、そうだったのか。そもそも僕との恋愛の行方もどうなるか、分からなかっただろうし、今思えば、去年の夏から急激に恋から愛になって結婚話に急発展したのだから、婿養子の話が出る間もなかったよね」 「それでも、少しは私の家の事情も説明しておけばよかったわ。私自身、農業をするという気持ちが全くなかったから、貴方は養子になって一生農業することで、本当にいいの?」 「正直何も考えていなかったから、自信も何もない。でもこれが結婚の現実で、二人の愛だけではなく、結婚というものは家との結び付きがどうしても出てくる。避けられないと思う」 「それで貴方は本当にいいのね」 「今、決心した。亮子はいいのか」 「貴方が決心したら、私はついて行くだけ。貴方が養子の話を断ったら、駆け落ちしてでも、貴方について行く覚悟でいたの」 「駆け落ちする覚悟なら、僕もあるけど。その場合は一番苦労するのは君だ。僕は、すでに天涯孤独のようなものだからいいけど。君は、この家やこの地を一歩も出てない。社会に出た経験すらない。二人が安住できて幸福な家庭を築くなら、この婿養子の話は二人が結婚するための最良の条件かもしれない」 「貴方がそう思ってくれるなら、何も言うことはないわ。私は嬉しい。この家で貴方と暮らしたい」 「ようし君の気持ちが分かった、婿養子の話を進めてもらおう。僕も実家の了承をもらってくる」 「姉に相談したときに、結婚は早い方がいいけど、私の短大の卒業後がいい、と言ってくれているの。それに、貴方が大学に合格していることも話したら、結婚してこの家から通学すればいい、と言ってくれているの・・・それでいいのかしら?」 「そうだね、有難い話だ。貯金があるから会社勤めをしなくとも、学業は続けられる。すると新婚後の昼間は農業の手伝い、夜は大学の生活になるのか」 二人は次第に、現実的な結婚生活の話にのめり込んでいった。 「それじゃ、お姉さんたちに報告しよう」 二人は立ち上がり、抱き合ってキスをした。 短いキスを終え、隣の広い和室に戻った。 亮子がすぐに姉夫婦を呼び、再び4人が顔を合わせた。 祐二は二人の相談の結果を報告し、 「未熟な二人ですが、これからよろしくお願いいたします」 丁重な挨拶を述べた。 父の快諾 次の日曜日。 祐二は久しぶりに前触れもなく実家に行き、養子縁組の了承を求めた。 実家は、すでに船橋市から東京の渋谷区に転居していた。 2度目の家族解散の後、裕二はいなくなっていたが、再び順子とその子供達は元の暮らしに戻っていた。 不定期ではあったが、幼い腹違いの弟や妹に仕送りをしていた。 継母宛てに送金していたが、生活費に使われていたかもしれなかった。 渋谷区広尾町の天現寺橋の交差点近くにある都営住宅の一室に足を踏み入れたとたんに、父親が働いていると直感的に察知した。 庄作は<調査会社(興信所)>を立ち上げていた。 ただ、従業員はいない。 電話があるだけの夫婦二人だけの個人業。 電話帳に小さな営業広告を出しているだけだったが、口コミで身上調査や浮気調査の依頼があり、何とか生計を保ってはいた。 そうしたこともあって、その3DKの佇まいはいつになく物が整理整頓されて小奇麗であった。 こういう場合には、安定した生活が続いている証でもあった。 従って、父親の庄作は荒れてはいない。 おみやげには、生活の足しにと思い食料や飲み物とお菓子を買っておいた。 継母も珍しく笑顔で、血の繋がりのない息子を迎えた。 両親の気分が良さそうなうちに、用件を済まそうとすぐに養子縁組の話を持ち出した。 その話を聞くと庄作は、 「いい話じゃないか、これで一人片付く。目出度いことだ。まあ農家の暮らしは朝早くから働き、体は楽ではないが食いパッグレルことはない。悪い条件とは言えん。貧乏人の倅としては、運の良い結婚だ。とにかく目出度いことだ」 と、意外にも機嫌よく了承してくれた。 あまりにも呆気ない結論に、逆に不安も過ぎった。 念を押して機嫌を損ねるのも怖いので、よけいな事を言うのを避けた。 大学進学のことも伏せた。 最後に、実際の結婚は来年の春以降になることを伝えた。 義妹と義弟の元気な顔を確認すると、長居を避けて早々に実家を立ち去った。 この結果をすぐに、自宅でその報を待っている亮子に電話で伝えた。 彼女は、飛び上がるほどの大きな声で喜んだ。 姉夫婦にすぐに伝えるから、と電話を切った。 翌週の日曜日。 祐二は小谷野家の姉夫婦を訪ね、両親が養子縁組の件を了承してくれたことを直に伝えた。 その日は小谷野家の夕食に誘われ、お酒もふるまえられた。 若い二人は、幸せな気分で酒に酔った。 その後二人は、これまでの人生の中で一番喜びに溢れた時期を迎えていた。 土曜、日曜日、祭日にはデートを楽しんだ。 オートバイで房総半島をツーリングし、東京に出ては、映画を見たり、ボウリングに興じたりした。 時間に余裕がある時には、ラブホテルで亮子を抱いた。 抱かれる度に、彼女は美しく磨かれてゆく。 ほほがこけ、目は奥二重になり、顔は彫りが深くなり長くなった印象で、姉の恵美に日増しに似ていく。 やがてウェストも細まり、臀部にかけての腰のラインが、あのヴィーナスのように美しいラインを描く。 彼女の心配症も嘘のように消え、精神的にも充実した毎日を送っていた。 たまに祐二は小谷野家の食事に呼ばれ、やがて家族となる姉夫婦と亮子との団欒の時をすごした。 ときには泊まっていくように言われ、夜遅くまで4人で結婚後の生活設計などを語り合い、心を通わせてすごすのであった。 自分の実家の殺伐した家庭とは異なり、小谷野家の人々は穏やかで人にやさしい。 この人達と一つ屋根の下で共に一生を送れることができると思うと、胸に熱いものがこみ上げてくる。 これも全て亮子のひた向きな愛のおかげだと、いっそう彼女が愛おしくなる。 短大の春休みを利用して、亮子は自動車教習所に通い、運転免許証の取得を目指した。 農家の一員となれば、軽トラックなどの運転が必要になる。 一方、同じく祐二も自動二輪の免許証はあったが、自動車免許証がないため直接に運転試験場に赴いて、実技試験に合格してその資格を取得した。 彼は、紙問屋や印刷工場の構内で洋紙や印刷物の搬出入の手伝いで、トラックやミニバンを運転していたので、車の操縦には慣れていた。 そうしたことで、運転実技には自信があった。 こうして二人は、その愛を深めながら、結婚と養子縁組の成就へ向けてともに歩んでいった。 二人の時間は軽やかに幸福の白い羽を飛ばしながら、穏やかに流れていった。
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