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5.七夕の駆け落ち
松岡祐二と小谷野亮子の事実上の婚約が成立した。
裕二の小谷野家への養子縁組の準備も、同時に進められて二人は幸せな時をすごしていた。
将来、農業を営むための自動車免許も取得した。
祐二は休みの日には小谷野家を訪れ、亮子とともに農作業を手伝って養子としての修業を積み重ねていく。
姉夫婦との団欒を通して、家族となる4人は日増しに心を通わせていた。
祐二は夜間高校を卒業し、4月からは文京区白山にあるT大学の二部社会学部に入学した。
昼間の勤めを終えると、その大学に向かう。
勤務後の夕方の通学、授業を終えてからの深夜の帰宅には、国鉄や都電を乗り換えるのは不便だった。
そのため通勤と通学には、引き続きオートバイを利用した。
こうして二人は紆余曲折があったものの、思春期に始まった純愛を結実させるべく、着々と結婚のゴールに向けて、新鮮な気持ちで日々の生活を送り始めていた。
(1)魔の手
ところが、不幸を呼び込む魔の手が二人に忍び寄っていた。
それは突然、小谷野家に寄せられた1本の電話から波紋が広がってゆく。
小谷野家に電話をかけたのは、誰あろう祐二の父の松岡庄作だった。
その内容は「倅の婿養子にあたり、謝礼金500万円を要求する」もの。
小谷野家では、その500万円の金額ばかりでなく、いきなり電話で金銭を要求する祐二の父親の性根に驚くばかりであった。
いずれ折をみて松岡家には挨拶に出向くつもりだったが、出鼻を挫かれたばかりか電話越しの高圧的な態度で金銭を強要する行為に反発を覚えるのだった。
小谷野家では、しばらく様子見を決め込んでいた。
しかし3日も経過すると、いきなり松岡庄作が小谷野家を訪れてきた。
家長の正二郎が「こちらにも都合があるので、改めてアポイントを取った上でお話し合いの機会を設けたい」と提案する。
ところが、その申し出を聞き入れないばかりか、小谷野家の門前で大きな声を張り上げる。
「婿養子に入る倅の父親をないがしろに扱うのか!」と反発する。
妻の恵美も駆け寄って穏やかな対応を懇願したが、女性に指図されたと思い込み、庄作の態度は硬化するばかりだった。
その大声は、近所まで聞こえる始末であった。
そしてこの騒動は1回では済まされず、その後何度も庄作は小谷野家の門前で拡声器を使って、大音響で怒鳴るなど度々騒動を起こした。
さすがに温厚な小谷野家の夫妻も耐えられず、警察の出動を要請して事の鎮静化を図らねばならなかった。
ついに姉夫婦に呼ばれ亮子は、ことの顛末を聞かされるとともに、祐二との結婚と婿養子の話を白紙に戻すと宣告された。
事実上の破談である。
それを聞かされたとき、亮子は落胆のあまり声も出なかった。
ことの急変に、頭の中は真っ白になり倒れ込みそうになった。
すぐ吐き気に襲われた。
涙を流す悲しみの感情も失われて、あまりのショックに1週間ほど床に臥せってしまった。
一方、何も知らない祐二は、デートの誘いに亮子に電話を入れた。
姉の恵美が電話口に出ると「亮子は床に伏している」と言う。
裕二は病状を尋ねる。
しかし、それには応えず「すぐに小谷野家に来るように」と、言われた。
(何があったのか、病気が重いのだろうか・・・)
不安に駆られながら、オートバイを走らせ小谷野家に向かった。
大きな門が閉じられていた。
しかたなく門前の道端にオートバイを置いて、門の横の木戸を開いて潜り抜けようとした。
しかし、かんぬきがされていて入ることができなかった。
オートバイのエンジン音を聞いた、正二郎が出てきた。
かんぬきを外して、彼を招き入れる。
正二郎は挨拶もせず、無言のままに彼を家に誘導する。
いつもの広い和室に通され、初めて口を開いた正二郎は、
「待つように・・・」と、冷たく言い残して部屋から去った。
いつもと異なる様子に、祐二は緊張した。
しばらくすると、亮子が姉に抱きかかえられながら、部屋に入ってきた。
顔は青白く、髪は乱れたままのパジャマ姿であった。
その憔悴しきった表情は、男に抱かれたときの艶やかさが失われ、精気を失った病人そのものであった。
二人とも挨拶も交わせずに、無言のまま座椅子に座った。
遅れて入ってきた正二郎が座ると、彼から重い口が開いた。
破談
「松岡さん、残念なことだが亮子との結婚は諦めて下さい。むろん養子縁組の話も白紙に戻していただくことになる・・・」
(ええっ!!何で・・・)
「訳は、君のお父さんに聞いてもらいたいと言いたいところだが、この際はっきり申し上げる。君の父上から、当方に、養子縁組に関するお金を要求された。さらにその後、私共と何の約束もしていないのに、突然、我が家を訪れられて面談を強要された。都合があるので改めて、と申し上げると激高されました。その後も何度も来られ、暴力行為そのものはなかったものの、興奮されて私たち夫婦を罵倒する乱暴な言葉を吐かれた。また、拡声器を使って大音を流すなどの行為があって、近所迷惑でもあったので警察を呼んで引き取ってもらった」と、話した。
それを聞いて、すべてが飲み込めた。
(あの強突く張りの、異常性格者らしい行動が出たか・・・)
こうして裕二は、強欲な父親に裏切られたのである。
「申し訳ありません」と、深々と頭を畳みに擦りつけ謝罪した。
その他の言葉は、出てこなかった。
と言うよりも、よけいなことを言って傷口が広がることを本能的に避けた。
あの父親ならやりかねない行動であって、何の弁解の余地もなかった。
この結婚話における自分の両親の承認については、これまで<事後承諾>と、言ってきた自分の主張が、今更、小谷野家の人々にその意味を理解されてもすべて後の祭りであった。
ずっと自分の心の隅では、いつかこうした事態が起きるという不安が常に横たわっていた。それもあって、ことの顛末を聞いても驚くことはなかった。
「来るべきものが来た」と、いう感じで受け止めた。
ただ、小谷野家の人達を傷つけた父親への増悪だけが、胸の中を占めていた。
(あの親父を殺してやりたい!)
それでも冷静に、次に起こすべき行動を思案した。
(駆け落ちしかない。駆け落ちすることで、姉夫婦の結婚破談の決意を翻すしかない。
結婚を再び許してもらうためには、相当長い時間がかかるだろうが、自分と亮子のこの結婚に対する強い意志と、愛の深さを知ってもらうしかない)
祐二は、この破談をしかたなく了解したような態度を示し、静かにこの場を去った。
こうべを垂れて、門に向かった。
すると、亮子がパジャマ姿のまま追いすがってきた。
声を上げないで、顔をクチャクチャにして大粒の涙を流している。
(この一途な女は、二人の愛と結婚を諦めはしない、必ず僕についてくる)
そして、小さな声で彼女の耳元に囁いた。
「体が回復したら、すぐに連絡してくれ。これからのことを相談したい。待っているぞ」と、最後の語尾を強めて言った。
亮子は小さく頷いた。
遠く離れた玄関口では、姉夫婦が二人のその様子を見つめていた。
(2)秘謀
祐二から、亮子へ連絡する方途は絶たれた。
この時代には、スマホも携帯電話もなかった。
彼女が公衆電話から彼の勤務先にかける電話、あるいはアパートへの手紙か、来訪するしかなかった。
ただ、祐二の部屋への来訪については、管理人に聞き耳を立てられ覗き見されることなどもあって、緊急以外には来ないように言ってあった。
その後、亮子からの連絡をじっと待っている間、祐二は小谷野家に二人の結婚をもう一度認めてもらう計画・秘策を思案していた。
何日も考え抜いた末、一筋の結論が出た。
それは、3つの行動を起こすことだった。
一つは、自分の父親との絶縁、つまり実家と完全に縁切りすること。
血の繋がりや戸籍は、決して消滅させることはできないが、絶縁状を出すことにした。
そこには、絶縁の決意とその理由を付記する。
小谷野家の養子縁組が破談となり、その直因が父親の異常な行為にあった、として憎しみと恨みを込めて檄文で書き綴った。
例え結婚が成就しても、後々口を出させない防波堤を敷く意味合いもあった。
次は、小谷野家の姉夫婦への説得。
これには、長期戦と衝撃的なインパクトが必要だと考えた。
話し合いで再度、結婚を認めてもらうのは困難だと結論付けた。
長期戦を闘うには、亮子を小谷野家から引き離すことが効果的と考えた。
それには『駆け落ち』しかないと帰結する。
具体的には、同棲生活をスタートさせることだった。
そして、最後の手段は二人の間に子供を作って、実態上も戸籍上も結婚を事実化させることだった。
いささか過激な考え方でもあったがここまで追い込まれてしまった以上、二人が確実に婚姻を成し遂げるには、これがとっておきの決め手になると考えた。
子供作りを前提とした二人暮らしを実行するには、金銭的な問題と大学の問題があった。
金銭的な問題は、自分が働いていれば給与も賞与ももらうことができる。
預貯金もあるので節約すれば、アパート暮らしでも何とか生活できると試算。
亮子の大学問題は、妊娠の兆候次第だが来春に短大を卒業するから、何とかクリアできる。
ただ祐二は、この先の4年間、夜間大学を通うことになっている。
子供を産むことで父親となることを考慮すると、中途退学を覚悟しなければならなかった。
打ち合わせ
それから10日ほどが過ぎた頃、下宿に亮子からの手紙が届いた。
「体調が戻り、精神的にも落ち着いてきたので逢いたい」と、綴られていた。
平日の夕方に、御茶ノ水駅近くの『ラ・クーナ』という洋風の喫茶店で待っている。仕事が終わったら、来てという主旨だった。
時は5月末、梅雨が早いのか小雨が続き、都会が濃霧にけむる夕暮れだった。
雨に濡れた髪をかき分けあげながら、祐二は喫茶店に入った。
バックグランド・ミュージックが静かに流れる中、2階へ進み亮子の姿を探し求めた。
見つからない。3階は同伴喫茶になっている。
(まさか3階に入ったのかな、独りでは入りにくいだろうに・・・)
3階の入口には、ボーイが立っている。
「連れが先に来ているはずなので・・・」と、声をかけた。
「お見えになっていますよ、一番奥のボックスです」
「ありがとう」と、言って奥に進んだ。
3階は薄暗く、足元だけに灯りが照らされている。
背もたれの高いソファが続くため、近づかないと顔や姿は判別できない。
ただ幸いにも時間が早く、他の客はまだ入っていないようだった。
それでも一番奥と言われたので、通路が壁に突きたるまでそろりと進んだ。
奥のボックスで、飲み物に手をつけずに亮子が座っていた。
カットソーのワンピースを着ていた。
「お待たせ」と小声で話すと、彼女は中央の位置から奥に身をずらした。
「体はどう?」
「元に戻ったわ、心配かけてゴメンナサイ」
「謝るのは僕の方だ。本当に申し訳ない。お姉さんたちにも、ものすごい迷惑をかけてしまった。お詫びのしようがないぐらい、ひどいことをした」
「貴方が悪いのではないわ。貴方は、ずっと結婚は事後承諾と言っていたものね・・・本当に怖いお父さん・・・」
「だけどオレは挫けないよ、オレたちは負けちゃいけない!」
「そうね、ずっと一緒だと誓い合ったもの。私も結ばれるまで挫けない、絶対に・・・」
二人の胸には、強い決意と悲愴感が混じり合っていた。
肩を抱き寄せ、久しぶりにキスをした。
長い口付けだったが、激しくはなかった。
舌を絡ませても柔らかく包みあって、僅かに零れる唾を互いに静かに吸った。
やがて口を放すと、亮子が口を開いた。
「これから私たちどうすればいいの?」祐二に尋ねた。
「僕の考えは決まっている。君が賛成してくれたら、準備をして決行する」
「聞かせて!」
「二つの行動を起こす、一つは駆け落ち。すぐには公営住宅に住むことは無理だから、とりあえず都内にアパートを借りて同棲生活を始める」
「ええ、いいわ。その覚悟はもう決めています。もう一つは・・・」
「君を妊娠させる、子供を作る」
「ええっ、子供はまだ早くない。すぐにではないのでしょう?」
「できるだけ早く子供を産んで欲しい」
「何故なの、私はまだ、子供を産んで育てる自信がないわ」
「駆け落ちして、お姉さんたちに同棲の場所が知られたら、すぐに連れ戻されるだけだ。簡単には結婚を認めてくれない。仮に、小谷野家に再度、結婚を認められたとしても、僕の父にそのことを知られたらと考えると、お姉さんたちは二の足を踏んでしまう・・・だから、子供を産んで既成事実を作る。子供ができたと知れば、やむを得ず結婚を認めてくれるはずだ」
「確かに、私もそう思うけど・・・それでは、生活はどうなるの?金銭的な問題があるわよ、お互いに、大学に通っている学生でもあるのよ」
「覚悟をして欲しい・・・お互いに大学を辞めざるを得なくなる可能性も否定できない」
「だったら私が短大を卒業してから、子供を作ることではいけないの?」
「ダメだ、それまで待てない。その間に、両方の親から離される危険がある。
有無を言わさず、結婚を認めさせるには早く子供を作るしかない!」
「それでは、子供ができたとして、経済的には生活していけるの?」
「今の会社の給料と貯金で、節約すれば何とかやっていける。どうしてもそれが無理だったら、少し条件の良い会社に転職する。君が許せば、夜のバイトも再開する。だから自分の大学は、いずれにしても中途退学する覚悟だ・・・君は妊娠次第で、妊娠が遅ければ、来春卒業してから産むこともできると思う」
「分かったわ、覚悟を決める。ただ、夜のアルバイトは絶対に止めて頂戴、いいわね!」
「約束する。それで駆け落ちの日は、7月7日の七夕の日にする。日曜日だけど七夕や競馬の開催日でもあるから、何かと世間も競馬場近くの小谷野家の周辺も騒がしい。姉さんたちも駐車場の管理などで忙しいはず。騒がしい一日だから、隠密行動するには、最適な日曜日だと思う」
「七夕の日に駆け落ち、何かロマンチックね」
「その日までに、アパートを探して契約を済ましておく。悪いけど君は、それまで外出を避けて、怪しまれないようにおとなしく平凡な生活を送っていて欲しい。僕らの逢引きの日を除いてだけれど。だから、新生活の住まいの場所や部屋の間取りなどアパート探しは僕に任せて欲しい」
「ええ、貴方にお任せします」
「それと駆け落ち当日は、普段と変わらず、必要最低限の荷物で来て欲しい。荷物はハンドバッグかショルダーバッグ一つで、着替えも持たないように、・必要なものは駆け落ちしてから、すぐに買うようにする、いいね」
「分かりました、学生証と定期券。それに僅かだけど預金もあるから、通帳と印鑑は持っていくわ」
「そうだね、それは必要だね・・・それと書き置きを残しておく。<松岡さんと駆け落ちするから探さないで>とね」
「わかりました。貴方にどこまでもついて行く。そうでないと、私生きていけないから・・・」
同伴喫茶で
一通り駆け落ちと新生活の大筋が決まると、再び二人はキスをする。
今度は激しくお互いの舌を絡ませ、順番に自分の口へと思い切り吸い込んだ。
薄暗い中で、青い電飾に映し出された女の顔は神秘的で美しい。
「綺麗だよ」と、耳元で囁く。
すぐに、女の左耳と首筋に舌を這わせた。
耳朶を小さく噛んだ。
女の背筋が小さく震えた。
「ううっ・・・」女が呻いた。
背中のファスナーを下した。
すぐにブラジャーのホックも外した。
ブラジャーはまだ乳房に残っているが、それを両手で揉み続けた。
「いいっ・・・アアァ~気持ちいい」喘いだ。
「スキャンティ脱いで」
「ダメ、こんな所で・・・ホテルに連れて行って」
「ダメ、これからだと帰りが遅くなる。僕と会っていると思われてしまう。家の人に怪しまれないように行動しよう」
「でもこの場所では、嫌よ。できないわ」
「大丈夫、声さえ大声をあげなければ、同伴喫茶でセックスする人たちもいるから大丈夫」
「仕方ない人・・・」
女は中腰で立つと、ワンピースの裾を捲ってスキャンティを下し外した。
男はそれを受け取ると、ズボンのポケットに仕舞いこんだ。
男は、後ろから女を膝の上に乗せた。
男の胸前に、女の背中があった。
その姿勢で愛撫した。
「ああっ~ん」
女の声が響いた。
「ダメッ、声をあげるのをがまんして」
女はうな垂れて、了解を示す。
「今日からのセックスは避妊具なし、膣外放出もなしだから・・・子供作りのために、熱いほとばしりを君の体に入れるからね」
「わかったわ、いっぱい頂戴!」
「いいかい、声を上げるな。がまんしろよ」
「ううっ」
女は声を押さえて低く漏らした。
「いいっ、きたわ」と、声を押さえつつ喜びを表現した。
しばらく二人は、その官能美に酔いしれていた。
男の手が女の口から外れる瞬間、女は男の指を歯で思い切り噛んだ。
女は、アクメの喜悦にすすり泣いた。
その後二人は、姉夫婦に悟られないように週に2度ほどの逢引きを重ねた。
平日の夕方に待ち合わせをしては、ホテルで互いの体を貪り合った。
彼女が遅い帰宅にならないように、短く交歓した。
(3)最後の会話
時は7月に入り、駆け落ちの決行日の3日前の木曜日。
二人はホテルに行かず、御茶ノ水の喫茶店ラ・クーナで、最終打ち合わせのために待ち合わせをしていた。
すでに亮子は店に着き、席に座って祐二を待っている。
1年前の夏に見たノースリーブとアンクルパンツに身を包んで、一階でレモンジュースを飲んでいる。
祐二は、仕事からの直行だったので白いシャツを着ていた。
クーラーで冷え切った店に入ると、すぐに亮子の姿を見つけた。
笑顔を作って手を軽く振った。
彼女も、すぐにそれに気づき小さく手を振った。
「お待たせ、何か寒いね。クーラーの効きすぎだよね」
「そうね、半袖やノースリーブだと腕が冷えてくるわ」
祐二は、それでもいつものトマトジュースを注文した。
「それでは、決行日の待ち合わせの場所と、時刻を確認しておこうね」
「ええ」
「いいかい、待ち合わせの場所は、ここ御茶ノ水駅の『聖橋(ひじりばし)』で、そのまますぐに中央線に乗って阿佐ヶ谷のアパートに行く。時刻は午後の5時半にする。聖橋は、神田川の両岸にある二つの聖堂を結ぶことで、聖橋と命名された関東大震災の復興の架け橋。二人が再出発するための愛のかけ橋になる」
「夢のかけ橋ね。二つの聖堂って何?」
「湯島聖堂とニコライ堂だよ」
「よく知っているのね。でも聖橋で待ち合わせだと、万が一の時に連絡のしようがないから不安だわ」
「そうなのだけれど、御茶ノ水の不動産屋に、その日の午後5時に行く約束になっていて、そこで残金を支払って、部屋の鍵を受け取ることになっている。その後すぐに、早めに阿佐ヶ谷に行きたいと考えている。だけど君の言うとおり、万が一のアクシデントもあるから、仮にどちらかが遅れたりすることがあったら、ここ『ラ・クーナ』で待機することにしよう。呼び出しの電話もあるから、店の電話番号をお互いにメモしておこう。僕の会社の番号も忘れていないね。もう一度確認するよ。7日の午後5時半に聖橋で待ち合わせ、万が一の場合はラ・クーナで連絡を待つ」
「ええ、よく分かったわ」
「それから中山の今のアパートは、今月末まで家賃を払っているから、荷物はしばらくそのままにしておき、落ち着いたら取りに行く。それに引っ越しがすぐにバレないように、用心のため管理人にはまだ何も話していないからね」
「当日に寝るふとんはどうするの?」
「阿佐ヶ谷の商店街のふとん屋さんに、当日の夜にふとんを配達してくれるように頼んである。お金も払ってある。それに商店街の店は、けっこう遅くまでやっているから、すぐに必要なものなら当日に買える。食べる所も多いから心配ないよ」
「何から何まで、すべて貴方に任せきりで、すいません。本当は、女の私がしなくてはいけないのに・・・」
「最初だけさ、その後は君に任せるから」
「少し家で花嫁修業したから、料理も家事もできると思うの・・・あまり自信はないけど」
「ゆっくりでいいよ、あせらず二人の生活を大事にしよう。お姉さんたちが結婚を認めてくれるまでは、金銭的には贅沢はできないけど、穏やかにすごして吉報を待つしかない。当分は子作りに専念だ」
妊娠の兆候
「もうすでに、激しいぐらいに子作りに専念しているくせに」
「ああっ、そうでした。ところで妊娠の兆候はないの?」
返事がなかった。
「どうしたの、何かあった?」
重い口が開いた。
「まだ確かじゃないけれど、もしかしたらできたかも・・・」
「ええっ、本当に!?」
「予定日がすぎても生理がないの・・・姉夫婦の目があるから、まだ病院には行っていないけど・・・」
「そうか、それじゃ阿佐ヶ谷に移って、落ち着いてから病院に行こう」
「ええ、そうするわ・・・少し不安だけど」
「大丈夫、僕がいつもそばに居るから安心して」
「ありがとう、もう貴方に頼り切りね」
この夜、祐二は亮子を彼女の自宅近くまで送った。
中学校の校庭の横の小路を通り、近道を歩いた。
街灯のない暗い道。
校庭の出入り口に出ると、二人は抱き合いキスをする。
静かで長い口付け。
口を放すと男は女の両手を握り、しばしの別れを惜しんだ。
「じゃ、お休み。愛しているよ」
「私も愛している」
新オケラ街道の大けやきの木の前で、二人は別れた。
祐二は、彼女が自宅の門に入るのを確認してから踵を返した。
(4)七夕に消えた人
1968年(昭和43年)のダービーは、7月7日の七夕の日に行われ、宮本騎手騎乗のタニノハローモアが優勝した。
その七夕の午後5時、小谷野亮子は、御茶ノ水駅の「聖橋(ひじりばし)」のたもとに独り立っていた。
シックな白の半そでのブラウスと、黒のタイトスカートに身を包み、黒のハンドバックを持っていた。
強い西日が射していたが、緊張のせいか暑さも忘れて、松岡祐二が来るのをじっと待っている。
約束の午後5時30分を回ったが、愛しの裕二はまだ来ない。
いつの間にか、背中や額に汗が滲んでいた。
腕時計の針は、6時を指していた。
(どうしたのだろう、これまで約束の時間に遅れることはなかったのに・・・不動産屋さんで、時間がかかっているのだろうか?・・・)
聖橋で1時間待ったが、彼は現われなかった。
しかたなく、万が一の場合の待ち合わせ場所である「喫茶店ラ・クーナ」に向かった。
祐二がすぐに自分を見つけ易いように、1階の入り口近くのボックスに座って待つことにした。
その近くには、ピンク電話も置かれている。
電話がかかれば、コール音が聞こえる場所でもある。
(どうしたのだろう?・・・)
この時代は、まだ携帯電話やスマホは誕生していない。
車使用のトランシーバーは販売されていたが、一般には流通していない。
もしスマホが普及していたならば、二人の恋の運命と行く末は違っていた。
冷たいおしぼりで、顔と腕の汗を拭った。
その後、1時間待った。
だが、祐二は来ない。
店には、彼からの呼び出しの電話もかからない。
心に、焦りと不安が襲ってくる。
(何かあったのでは・・・このままじゃ帰れない)
亮子は店を出て、再び聖橋に行った。
それでも祐二の姿は見えない。
駅の周辺の3軒ほどの不動産屋にも行ってみたが、彼の姿や訪れた痕跡はなかった。
時刻は、既に午後9時を回っている。
再びラ・クーナに行き、彼の来るのを待った。
新居地の阿佐ヶ谷のアパートの住所を、聞いておけばよかったと後悔した。
彼に任せきりだった。
日曜日では勤務先に電話を入れても、おそらく電話口に出ることはない。
それでも藁をも掴む気持ちで、念のために祐二の勤務先に電話を入れた。
呼び出し音が、耳に残るばかりだった。
(どうしたらいいのだろう、いつまで待てば良いのだろうか・・・)
心は暗くなるばかりだ。
クーラーが効きすぎて冷えたので、熱いコーヒーを注文した。
腕時計を見ると、もう午後10時になる。
悲しみに、胸がはち切れそうだ。
大粒の涙が、頬を伝わり流れた。
あなたはどこにいるの、私の愛しい人・・・
やがて、一つの決心をした。
もう一度聖橋に行こう。
そこでもし会えなかったら、今夜は自宅に帰ろう。
そして明日、祐二のアパートに行き、居なかったら勤務先にも電話を入れることにする。
コーヒーを飲み干すと、聖橋に向かった。
祐二の姿を追って、行き交う人々の顔を見てしまう。
七夕の夜空には、たくさんの星屑が散りばめられていた。
満天の星くずがきらめいている。
星屑の聖橋のたもとに、一人寂しく立っている。
祐二の姿は、どこにも見えない。
うつむく女に、涙が流れる。
(貴方はどこにいるの、どこに行ってしまったの・・・もうどうしたらいい
の?私の所に戻って来て、貴方の笑顔で私を迎えに来て頂戴、お願い裕二!)
「私待つわ、好きな貴方をいつまでも待っているから・・・」
亮子は満点の星空に向かって、切なる胸の思いをつぶやいた。
二人の駆け落ちは、愛の門出になるはずだったが・・・
一方、その頃裕二は、交通事故で瀕死の重傷を負って意識のない中で生死の境をさ迷っていた。
亮子は、裕二が交通事故に遭遇してしまった事実を知らない。
祐二も亮子もめぐり合うべき男女の七夕の日に、無残にも悲しみのどん底に落とされた。
悲痛な女心の叫びだった。
涙は、止めもなく流れた。
(涙にかすんで、貴方の行方が探せない・・・)
失意の内に、深夜遅く自宅に戻った。
姉夫婦は、すでに寝入っていた。
その晩は、一睡もできなかった。
行方不明
寝不足だったが亮子は、翌朝は早く起きて出かけた。
姉たちに、昨夜の深夜帰宅の理由を詰問されたくもなかった。
すぐに、近くの<印内八坂神社>に行って詣でた。
鳥居をくぐると、石畳の参道を直進すると社殿にぶつかる。
祐二の行方が早く判るように祈願するとともに、無事の再会を願った。
神木とされる、巨大なイチョウの木にも願掛けをした。
その足で、彼の中山の下宿先に向かった。
すぐに、管理人室を訪ねた。
松岡祐二の行方を心配している旨を伝えると、管理人のおばさんは、知っている事実を丁寧に教えてくれた。
彼女によると、七夕の前日の土曜日は、いつものように朝オートバイに乗って出勤したと語った。
ただ、その夜から戻っていない、とも言った。
白いシャツを着こんでいたから、仕事に行ったのでは思っている。
外泊するのも初めてで、自分も貴方と同じようにすごく心配していると、話してくれた。
お礼を言って、アパートを出ると国電の下総中山駅に向かった。
駅の公衆電話から、祐二の勤務先に電話をかけた。
松岡の婚約者の小谷野亮子と名乗って、事情を説明し彼の行方を捜している、と伝えた。
すると、この日祐二は初めて無断欠勤をしている、と言われた。
土曜日も午前中まで勤務して、午後にはすぐに帰った、と話してくれた。
真面目な人で無断欠勤は今まで一度もないので心配していると、言っていた。
話しているうちに、悲しくなって電話口で泣き出してしまった。
判った事実は、祐二の行動は土曜日の午前中までは通常とおりであったこと。
そして、その夜はアパートに戻っていないことだった。
土曜日の午後から夜にかけて、何かアクシデントがあったと推測した。
暴漢に襲われたのか、あるいはオートバイに乗って行動していたなら、交通事故にでも遭遇したのかもしれないと考えた。
亮子は、駅の売店で数紙の新聞を買い込み、喫茶店に飛び込んだ。
日曜日発行の新聞と本日付けのそれらの新聞を、隅から隅まで目を皿のように開けて読み漁った。
しかし、松岡祐二らしき人物の交通事故などの記事は見当たらなかった。
思案するも、これからどうしたら良いのであろうか。
捜索願を警察に出すにしても、家族でも親族でもない者が届けを出す訳にはいかない。
その祐二の家族の、具体的な居場所も分からない。
その一方で、亮子は生理が2カ月なかった。
このまま実家に居続ければ、いずれ妊娠に気付かれてしまう。
祐二の行方が分からないままの出産は、一体どういう結末が待っているのか、考えただけで死にたくなる。
深くて、大きな窮地に追い込まれていた。
(貴方、早く私のもとに戻ってきて、そして私をやさしく抱いて慰めて下さい。お願いよ、愛おしい人・・・)
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