墨の娘

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 雪峰の屋敷に到着した景晨は、荒れ果てた庭を見て眉をひそめた。雪峰が屋敷をこんな状態にしておくはずがない。中に入ると、まるで嵐が通り過ぎた後のような散らかった室内に驚愕した。家具が倒れ、紙くずや酒瓶が床に散乱している。動物の死骸と思わしき物体が異臭を放ち、それに蝿が群がっている。目を逸らしたくなるその中心に、やつれた雪峰が倒れていた。 「雪峰!」  景晨は駆け寄ると、雪峰の体を抱き上げた。布越しに伝わる骨の感触と冷たい感覚に、景晨は唇を噛み締める。 「……景晨?」  血色が悪い唇が微かに動き、景晨の名前を呼んだ。 「ああ、俺だ」 「……どうしたら、雨蓉は、笑ってくれる?」  その問いに、景晨は一瞬言葉を失った。雪峰が朧げに見つめるその先には、例の掛け軸が置かれている。 「雨蓉は、私に何かを求めている。……けれど、私にはそれが何か分からないんだ。何をしても彼女の涙は止まらない」  雪峰の言葉に、景晨は顔を顰める。 「大丈夫だ。お前を医者に連れていく。その後、それは燃やしてしまおう」 「……燃やすだと?」  正気を失い濁った瞳が爛爛と輝いた。痩せ細った腕からは考えられない膂力(りょりょく)で景晨の襟首を掴むと床に叩きつけた。  景晨は痛みにうめく。背中に走った衝撃で呼吸もままならない。涙のせいで霞む視界の中、雪峰を見上げた。  穏やかな雪峰とは信じがたい、憎悪と怒りに歪んだ顔をしていた。目尻と眉尻は極限まで吊り上がり、わななく唇はめくれ、歯が覗いている。 「彼女は私のだ!!」  唾を吐き、怒鳴りつける雪峰は誰が見ても正気とはいい難い。 「燃やすなんて許さない!!」 「落ち着け! お前は今、花鳥風月に呪われているんだ!」 「雨蓉が私を呪うなど、するわけがない!!」  ——その時、くすくすと軽やかな笑声が景晨の耳に届いた。  眼球だけを動かし、その声の方向を見る。真っ黒だった画から止めどなく笑声が漏れてくる。  墨が薄れ、現れた画に、景晨は目を見張った。  そこには風光明媚(ふうこうめいび)な世界に一人佇(たたず)む少女が描かれていた。咲き誇る薔薇のように美しいが、見惚れる事はない。美しさを掻き消すほど、狂気を帯びた眼差しと笑声が不気味だった。  その目から視線を逸らしたいと思ったが、なぜか景晨の目がその画から離れない。少女の笑声が頭の中に響き渡り、景晨の全身を包む恐怖感が一層強まった。 「お前が雪峰を」  景晨は声を震わせながら呟いた。  しかし、返事はなく、笑声だけが続く。  ふと、少女は自らの足元に視線を落とした。つられて、景晨も視線を落とした。 「……雪峰?」  仙女の如き(かんばせ)を愉悦に染めた少女に縋り付く親友の姿があった。目を凝らせば、地を這いずる数多の男達もいる。  景晨は理解した。  今、自分の首を絞めてがなりたてる雪峰は抜け殻で、その魂はとっくの昔に囚われている事を。
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