墨の娘

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「おい、見てくれよ! やっと手に入ったんだ!!」  勢いよく扉が開かれ、招いてもいないのに転がり込んできた大男を雪峰(せつほう)は冷めた目で睨みつけた。親友というより悪友である大男——景晨(けいしん)は、そんな雪峰の視線を無視して部屋に上がりこむと、いそいそと小脇に抱えた風呂敷を持ち上げる。  いつもは力任せな単細胞がやけに丁寧に、壊れ物を扱うように持ち上げるので雪峰は睨むのをやめた。先程、やっと手に入ったと言っていた。つまり、景晨が望んでいたもので、それを自分に見せるもの。大きさ的に考えられるのは酒だろうか。 「少しは静かにしてくれ。こっちは寝起きなんだ」 「おいおい、もう夕方だぜ? また女か? 今度はどんな美姫(びき)と懇意になったんだよ」  下品に鼻の下を伸ばす景真を一瞥し、雪峰は肩を持ち上げてみせた。 「ただの客さ。お前の考えるような仲じゃない」 「へぇー? なるほど。薙工師(ていこうし)は人気ですもんねぇ」 「からかうのはやめろ。面白くもない」  男女ともに髪を結うこの国では、流行に敏感な薙工師ほど人気がある。  特に雪峰は髪結いと化粧の腕が良いため、目当てで訪れる客は多くいる。お互い気が向けばになる事もあるが、今回の客は純粋に髪結いにきただけだ。  ただ、複雑な型だったのと化粧やら衣裳やら合わせたため、疲れただけである。それを言ってもまたからかわれる事は予想できたため「それで」と雪峰は包みに視線を送った。 「なんだそれは? 酒か?」 「違う。絵だよ。水墨画」  解かれた包みから表れたのは一つの掛け軸だ。 「それの何が手に入っただ」  水墨画なんぞこの世に巨万(ごまん)とある。確かに金粉が散りばめられた装丁(そうてい)から高価な一品であることは予想できるが、数多ある水墨画の一つにすぎない。  興味を失った雪峰が横になり、また惰眠を貪ろうとすると景晨はにやりと口角を持ち上げた。 「王悅(おうえつ)が描いた()、〝花鳥風月〟を知っているか?」 「あの有名な?」  寝転がった体勢のまま、雪峰は両目を細めた。  王悦は三百年も昔に実在したと言われる水墨画家の名前だ。その手が描く情景は見る者の心を揺さぶり、紙に流れる墨の川は王悦の感情を教えてくれるとされ、彼の描いた画は道端の石ころですら千金の価値がつく。そのため、富の象徴として金持ち共が一つでも多く入手しようと躍起になるほど。  そんな名匠、王悅が描いた画でも、金持ち共が嫌がる作品がある。  その画の名前は〝花鳥風月〟  幼くして亡くなった娘に美しい世界を見せようと王悅が八年の歳月を費やし描いた画だ。娘の骨と遺髪で作られた筆で、皮膚をなめした人皮紙(にんぴし)に、墨と血を混ぜたもので描かれた、心が死んだ人間が描いたとされる画。 「娘に気に入られると画に魂が囚われるらしいぞ」  その画に伝わる噂話は数知れず。愛妻家である男がを手にすると人が変わったように画だけを愛し、食事も睡眠も取らなくなった。堅物な男は私財を投げ売って掻き集めた金銀財宝をに与えた。祖母が持つを得るため、一族を惨殺した、など。  嘘か真か、おそらく尾ひれがついたものも多いが、後世に伝わるのは全て呪いと称していいものばかりだ。 「馬鹿馬鹿しい」  はっ、と雪峰は鼻で笑う。 「呪いなど、あるわけない」 「お前は本当に夢がないなぁ」 「そんなものに夢を抱いてどうする? それで、それはどこで手に入れた? また贋作(にせもの)でも掴まされたんだろう。返しに行け」  ぶっきらぼうな言い方だが、雪峰なりに景晨を心配しての発言だった。強面の大男であるが根が優しく小心者なこの男は「食べ物を買う金がない」と呟けば気前よく金をだす。雪峰だけではなく、初めて会った人間でさえも。  今回の花鳥風月も景晨の噂を聞きつけた詐欺師がぼったくろうとしたのだろう、と雪峰は睨んだ。必要ならば返品の場には自分も着いていくつもりだ。 「人毛のような硬い毛で繊細な水墨画を描けるわけがない。それに人の皮膚に墨が滲むわけもない。現実的にありえない」 「でもよぅ」 「ならば見てみればいいさ。どうせ贋作に決まっているんだから」  せっつけば、景晨は唇を尖らしながら掛け軸の帯を解く。これも装丁と同じく金糸で編まれている。  贋作にしてはやけに手が混んでいるようだ、と雪峰は思う。この外装だけなら低能は騙せるだろう。 「絶対に本物に決まっている! 隣のおかみさんの従兄弟の友達がそう言っていたんだ!!」 「……それ、詐欺師だろ」  悪友の純粋さに雪峰は目眩を覚えた。  それと同時に絶対に詐欺師に贋作を突き返し、金を取り戻し、更に役人に突き出そうと心に決めた。  雪峰の白んだ眼差しに、景晨は意気揚々と掛け軸を丁寧に開いた。
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