墨の娘

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 寂寞(せきばく)とした空間は、昼間の喧騒が嘘のように音がない。虫の歌声も、見回りにでている役人の声すらも全く聞こえない事に雪峰は違和感を感じて、そっと瞼を持ち上げた。  まず先に映るのは見慣れた天井、ではなく——。 「君は」  月精の横顔に雪峰は飛び起きた。  壁に掛けられた掛け軸は先程、景晨が持ってきたものだ。詐欺師に突き返してやる! と息巻いて持ち帰ったはずなのだが、なぜ雪峰の寝室にあるのだろうか。  いたずらで人の家に深夜忍び込むような性格をしていないことは長年の付き合いから知っている。雪峰が掛け軸を睨みつけるとゆるりと墨の川が動いた。木々がざわめき、鳥が舞い踊り、花は散る。その中央に座る少女はゆっくりと瞬きをしながら雪峰へと顔を向けた。 「起こしてしまいましたか?」  鈴の音を転がす様な甘い声が月精の唇から発せられた。そっと柳眉を下げ、申し訳なさそうに月精は(おもて)を伏せるその姿はまるで生きた人間が閉じ込められているように雪峰の目に映る。 「……驚かせるつもりはなかったの」  はらはらと宝珠がいくつもこぼれ落ちた。顎先から滴り落ちる度に、雪峰の胸には例え難い感情が渦巻く。未知の存在に対する恐怖、少女を泣き止ませたいという想い。  感情を抑えるべく、ぎゅっと眉間に皺を寄せ、雪峰は喉奥から声を絞り出した。 「あの画は、景晨が持ち帰ったはずだ」  そうだ。花鳥風月はここにはない。花鳥風月が、娘がここにいるわけがないのだ。  雪峰はこれは夢だと断定した。そう思い込めば、恐怖も、困惑も、憂いも和らぐ。  肩の力を抜いた雪峰を見て、少女は困った風に小首を傾げた。 「私もわからないの」  そう言うと娘の姿は滲み始めた。 「ずっと、気がついた時から私はこの画の中にいて、気がついたら色んな人の元に渡っていたから」  滲みは徐々に広がり、花顔(かがん)も、風景も全てを黒く塗り替えていく。  しばらくするとそこには水墨画とは到底言えない真っ黒な画が出来上がった。朝日が昇り、空が白み始めても雪峰は放心したかのように花鳥風月から目を逸らせなかった。
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