発端 2

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 しかし実際の凌雲閣界隈は、若い娘がひとりでぶらつく場所ではなかった。  ここらは〝十二階の女〟と呼ばれる、所謂売春婦たちで有名な私娼窟と化していたのだ。  そんな場所を恐れ気もなく闊歩する男装の少女を、女たちは奇異な目で無遠慮に眺め回す。 「あら、さっきは気付かなかったけど、なんだか変なところね。それにしてもこの人たちは昼間っから、こんないかがわしい恰好でなにをしているのかしら」  そこは良家の子女である、このような商売の女のことには疎いのだった。  薫子も逆に彼女らを、不躾に見ながら歩いている。 「お嬢ちゃん、ここはあんたが来るとこじゃないよ。さっさと立ち去りな、痛い目に遭う前にね」  中の女のひとりが、薫子に声を掛けた。  こんな場末には不似合いな肌が透き通るように白い、スラリとした肢体の綺麗な顔立ちの女だった。  長い前髪が幾筋か額に垂れているさまは、ドキリとするほどの色気があった。  年の頃は二十二、三歳辺りだろう。  木製の椅子に足を組んで坐り、細身のシガレットを煙たそうに燻らせぶっきらぼうに言う。  ノーブルな彫りの深さは、日本人離れしている。  突然声を掛けられ薫子はピクリと反応し、立ち止まりその女を見詰める。 「なに見てんだよ、さっさとお行き。邪魔だよ」  少し灰色がかった切れ長の瞳を細め、邪険に手を振る。  見た目から察するに、白系ロシア人の血が混ざっているのかも知れない。 「へへへっ、お嬢ちゃん、なにをしてるのかな。暇ならお兄さんたちが遊んでやろうか、楽しいことを教えてあげるよ」  数人の与太者が薫子に近寄って、下卑た笑いを浮かべそう言った。 「サブ、素人の娘さんにちょっかい出すんじゃないよ。この一角はあたいの縄張り(シマ)なんだ、勝手はさせないよ」  女が与太者どもを鋭い目で睨む。 「麻利亜、余計な口出しすんじゃねえ。商売にゃ手を出さねえが、こりゃあお前には関係ないことだ、引っ込んでろ。それに近いうちにここもすべて雷神組が仕切ることになる、そんときゃお前ぇは親分の情婦(いろ)になってるだろうがな」  サブと呼ばれた兄貴株の男が、凶悪そうに嗤う。 「そうはいかないよ、どうあってもと言うんなら痛い目に遭うことになるから覚悟おし」 「痛い目? へへ、遭ってみたいねえ」  男達が一斉に懐に呑んでいたヤッパ(短刀)を抜いた。 「ねえ兄貴、俺は前からこいつを抱いてみたくてしょうがなかったんですよ。ちょっと味見するくらいいいですよね、さっきからあそこがムズムズしちまってんですよ」  中のひとりが股間を押さえて、涎を垂らしている。 「馬鹿野郎、麻利亜は親分が狙ってらっしゃるんだ。手出ししたら、あそこをちょん切られちまうぞ」  そんな下卑た男達の会話を聞いた麻利亜は、心底うんざりとした様子で美しい顔を曇らせる。 「拓磨、あんたの出番だよ。食い扶持分くらいは働いておくれ」  建物の中に向かって声を掛ける。  入口の壁には達筆な筆文字で書かれた『帝都魔境倶楽部(興信・探偵萬請負處)』という白木の看板が掛かっている。 「なんだい雷神組の兄さんたち、穏やかじゃないねえ」  中から声がして、ひとりの男が現れた。  その人影を見た瞬間、薫子が声を上げた。 「あっ、あんた昨日の書生さん」  その声の向こうに姿を見せたのは、この後も薫子と深い関係を築くことになる〝藤堂拓磨〟だった。
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