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青年は目の前の男装の少女を見ても、それが誰なのか見当が付かないらしく眉間にしわを寄せ首を傾げる。
「なによ覚えてないの、あんたらのせいで警察に捕まるところだったじゃない。汽車から出ていらした龍彦叔父さまが取りなしてくれたからよかったけど、一時はあたしが悪者にされたんですからね」
薫子は頬を膨らませ、真っ直ぐに青年を睨みつけた。
はっと記憶が甦った青年が、大きく目を見開く。
「ありゃ、こいつは昨日のお転婆娘さん。こんな所でまた会うなんて奇遇だね、もしかしたらボクたちは赤い糸とかで結ばれてるのかな」
気障な仕草で青年は、薫子へ片目を瞑ってみせる。
こんな状況だというのに、なんとも気の抜けた仕草であった。
「それにしても昨日といい今日といい、君はトラブルに巻き込まれるのが得意のようだな」
青年は爽やかそうな顔で薫子に微笑む。
「拓磨くん、アンタこの娘知ってるのかい」
麻利亜が驚いたように声を掛ける。
「知ってるって訳じゃないが――。昨日東京驛で明神一家小頭の小政を、ものの見事に投げ飛ばした女の子がいたって話したろ。それがこの娘さんだよ、お陰で壬生が危うく大政の仕込みで斬られるところだった」
それを聞いたサブをはじめとした与太者たちが、ギョッとした顔になる。
「こ、小政を投げ飛ばしただと。冗談言うねえ、あの小政がこんな小娘にやられるはずがねえじゃねえか。なりは小せえが明神の身内の中でも喧嘩じゃ一歩図抜けてるヤツだ、ふかし入れてんじゃねえぞ」
「いやいや嘘じゃない。この娘さんは柔をお使いになる、油断してるとお前たちもみな、小政みたいに宙を舞うことになるよ」
揶揄うように青年が肩を竦める。
「へえ、お嬢ちゃん。あんた単なる奇異な恰好の、馬鹿娘じゃなかったんだね」
おかしそうに麻利亜が笑う。
「馬鹿娘ですって? あたしのどこが馬鹿みたいに見えるって言うの。失礼しちゃうわ」
そんな遣り取りを見て、サブが苛々とした様子で凄んでみせる。
「こら小娘、俺たち雷神組の若い衆を目の前にして、ごちゃごちゃじゃれ合ってんじゃねえんだよ。掠って女郎屋に売っちまうぞ」
「掠うですって? あたしを売るですって? なに訳の分かんない事言ってんの。人は物じゃないのよ、そんな事出来るはずないわ。あんたらの言ってる事って、本当に意味が分からない」
「それが出来ちまうところが、世間ってもんの不思議な所なのさ。女は売り買いの道具なんだよ。この後たっぷり俺たちで、男の味というやつを体に教え込んでやるよ。そして今夜から客を取らせる、その頃にゃすっかり観念して大人しくなってるだろうな。特にあんたみたいなお嬢様育ちは、いったん犯られちまやあっという間に従順になるんだ」
サブが下卑た笑いを浮かべそう言うと、手下たちが一斉に卑猥な言葉で囃し立てる。
「下品な人間だこと。さあて、痛い目に遭うのはどっちになるのかしら」
恐れ気もなく、薫子は平然と彼らを見ている。
「柔かなんか知らねえが、所詮は女子どものままごとだ。男の力に敵うはずがねえ」
与太者たちが薫子を取り囲む。
「なんならここでご覧に入れましょうか、竹内真陰流柔術の技の冴えを」
薫子が手に持っているステッキを、与太者たちに向かってスッと構えた。
「へえ、さまになってるじゃないか」
その構えを見て、青年が呟く。
「なにも體術だけが柔じゃないのよ、得物を使う事だって出来るわ。さあ、掛かって来なさいよ」
薫子の背がピンと伸び、ステッキを構える姿には美しささえ漂っていた。
ここで言う〝柔〟とは現在の柔道とは似て非なるものである。
一番近いのは〝柔術〟であろう。
剣を使った武術以外の、體術の総称が柔と言われる。
神代の昔から受け継がれている古流武術(宿禰や蹴速を祖とする説もある)は、投げや極め、突きや蹴りは勿論、水中での格闘術や得物を使用した攻撃さえ含まれる。
戦場に於ける、刀槍抜きの殺人術のための技であった。
江戸期には全国で百を超える流派が在ったと言われるが、ご一新以降は剣術同様そのほとんどは廃れてしまっていた。
「おい手前ぇら、傷物にするんじゃねえぞ。特に顔はな、なにせ大事な商売もんだからな」
「へい兄ぃ、わかってますよ」
みな手にしていたヤッパを懐に戻す。
「拓磨くん、助けてやらないの」
「見ててよ麻利亜さん、すぐに分かるから」
青年・藤堂拓磨は余裕の表情で、麻利亜に応えた。
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