02 レイラ

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02 レイラ

 時を戻そう。  遡ること十分ほど前、『アドルセンの宿』の店主であるレイラ・アドルセンは本日何度目かの溜め息を吐いた。  壁に掛かった丸い時計は十二時を少し過ぎている。いつもはベッタンベッタンと引き摺るような足音が響いて、二階から彼が降りて来る時間だ。  しかしどういうわけか、今日は来ない。  まだ眠っているのだろうか? 「………っとに、人の気も知らないで」  この時期の宿は閑古鳥が鳴いている。  というのも、ここエバンズは、夏と冬はそれなりに人が寄り付く地方の観光地であるものの、間に挟まれた春と秋は驚くほど人が寄り付かない。  天気が不安定なのだ。  春は山間部で自然発生した竜巻が頻繁に街まで降りて来るし、秋は何処からか巨大な台風が町中のものを薙ぎ倒す。  まだ暖かい春はマシではあるが、今のように木枯らしが吹き始める秋のシーズンは本当に暇だった。よほどの物好きか、仕事で仕方なく訪れた商人ぐらいしか客は居ない。  そんな中、二週間ほど前から二階に住み着いている魔術師が居る。  それは若い男で、いつもフードを被った変わり者だった。目の前を通り過ぎる際にチラッと見えた髪の色は赤かったが、マジマジと見る機会はないのでそれが彼の地毛なのかどうかは分からない。  レイラは正直、この男のことが気になっていた。  もともと若者が少ない田舎町だ。  自分とそんなに歳が離れていないイオニアと、少し会話をしてみたいと思うのは自然なこと。何度かそれとなくモーションは掛けてみたものの、相手はてんで気付かない。 (………ちょっと覗いてみようかな、)  さり気なく。それとなく。  ガタガタと物音はするから、きっと起きてはいるはずなのだ。少しだけ話をして、あわよくば昼食でも一緒にどうかと誘ってみれば良い。  女から誘いを掛けるなんて、と思うけれど、ああいう奥手そうな男相手には女側が積極的にアプローチするべきだと街の皆の相談係である老婆も言っていた。  かくしてレイラは部屋を飛び出した。  二階へと続く階段を踏み締める。 「相変わらずきったない部屋。掃除ぐらいしたら?」 「おい、勝手に入るな!」  勢いに任せて部屋に押し入ったは良いものの、急に羞恥心が込み上げてくる。深く考えなかったけれど、狭い部屋に気になる異性と二人きり。それはなかなかに心臓に悪い。  緊張を忘れるために、軽口を繰り出していたら、いつのまにかイオニアがかなり近い距離に居た。真っ黒なローブの下で焦ったように手を動かしている。 「こんな暑いのに何でそんなの着てるの?」  ずっと気になっていた質問が口から溢れた。  その瞬間、イオニアがレイラの手を叩き落とす。 「オレに触れるな!お前みたいな女は苦手なんだ!」 「………っ、」  ストレートな言葉は、浮かれていた心を抉った。  歳が近いというだけで、なんとなく勝手に好意を抱いて、仲良くなれると思っていた。あわよくば、なんてとんでもない。イオニアがそんな風に思っていたとは。  ショックに打ちひしがれる心の宥め方に悩んでいると、ドクンッと心臓が跳ねた。まるで身体が一つの臓器になってしまったようにバクンバクンと脈打っている。 「………どうしたんだよ?」  異変に気付いたイオニアが話し掛ける。 「か……身体が変なの、」  なんとかそれだけ搾り出して、浅い呼吸を繰り返した。  吸っても吸っても苦しい。何かとても大きな衝動が腹の底から這い上がってくるみたいだ。理性はどんどん隅に追いやられ、やがて飲み込まれた。 「い、イオニア……なんだか熱い……」  伸ばした手の先で、怯んだイオニアがバランスを崩す。二人はもつれながら床に倒れ込んだ。  魔術師のローブが頭から脱げて落ちる。  現われた赤毛は灼熱の炎みたいで綺麗だと思った。
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